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第9話 食事の時間です・前編
第9話・4 何かが動き出している
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──そして、同時刻。
どこか、夜の都市部の高層ビル、とある研究所跡地。
疑惑の元・職員、もしくはスパイ──ネクは、通信端末を閉じながら小さく笑った。
「ふふ……送っちゃった。オレに気づいてもらいたい人には、ちゃんと気づかせないと……意味がないですから」
月明かりの差す部屋の中、黒い包帯の下に隠れた右目が僅かに蠢く。
「オレの目……あの子たちの進化を、ちゃんと見ておきたいんですよね……」
その声には、狂気も慈しみも入り混じっていた。
──カツン、カツン……
無人の廃ビルのフロアに、革靴の音が響いていく。
薄明かりに照らされたその人物──。
左右非対称な銀髪がハネた小柄な青年、ネク。
青白い肌、やや鋭い青い瞳の目元。
右目に巻かれた黒い包帯が、その顔の半分を隠していた。
(……オレの痕跡、ちゃんと追ってきたな……流石の性格の悪さ、です。薊野セセラさん)
ネクはポケットから折り畳まれた資料の1枚を取り出す。
それはかつてネクが龍調査機関から持ち出した、因子反応記録。
(……リルとレイラ……彼らの中にある龍因子は、ほんと特別で……)
紙を指先でなぞる。
(オレの右目がそれに反応したとき、鳥肌が立ったんだ。……この力は、もっと使われるべきだって、心から思いました)
隠された下の眼球が、静かに脈打つ。
その目には見る以上の何か──“干渉する力”が宿っていた。
(オレにだけできることが、あるんだよ。……この世界を、もっと正しく……歪ませるために)
再びネクの指先が踊る。手元のデバイスに、指示が走った。
──『新たな龍因子の注入、完了』
──『融合個体、再構成準備完了』
(もう1回、見せてやりますよ……薊野さん)
(あのふたりが、どこまで壊れて……どこまで抗えるのか)
そしてその先に──『オレの右目』が見る、“進化”の未来がある。
「さあ、次はどっちからブッ壊してみましょうか……リル? レイラ?」
その声は、あくまでも穏やかに。
しかし、明らかに死の選別者としての、色を帯びていた。
◇
翌朝の療養エリア。
「……ん……」
寝具の中で小さく身をよじったレイラ。
淡い朝日がカーテン越しに射し込んでいる。
穏やかな光。昨日侵入者が出たとは思えないほど静かな空間。
だが──。
「……なんだろう……」
レイラは、胸のあたりに感じる妙なざわめきで目を覚ました。
鼓動が速いわけじゃない。息も苦しくない。
なのに、肌の内側を何かが逆流しているような、奇妙な感覚。
(……不安、じゃない。違和感?)
「……リル」
隣のベッドを見る。
そこには、深く眠っているリルの姿。
寝息は穏やか。発熱も無い。
だが、その額には微かに汗が滲んでいた。
(……また?)
レイラはゆっくりと起き上がり、ベッドの縁に腰を下ろす。
窓の外には、変わらない研究区画の景色。
でも、何かが……何かだけが、僅かに狂ってきている。
──そして同時刻、セセラの執務室にて。
「……やっぱり来るか」
セセラは、自身の端末に届いた“異常反応ログ”を睨みつけていた。
夜明け前の数分──施設の地下深く、今は使用されていないはずのセクションで、微弱な龍因子反応が計測された。
「反応値は小さい。けど……波形が妙に似てる。……まるで、前回の異形を模倣してるみてえに……」
誰かがまた、新たな個体を投下したのか──それとも、まだ残っていたのか。
「くそ、時間がねえ……」
セセラはすぐに保安部へ連絡を入れ、最小限の班を招集した。
「先生に報告はまだいい……どうせ来るからな、あの人は」
そう呟いて端末を閉じたとき──。
セセラの背筋がゾクリと冷たくなった。
「…………」
理由は、無い。
しかし、視界の端で何かが“こちらを見ていた気配”が、確かにあった。
──そしてその“目線”は、同じ頃。
療養室のレイラの左目の奥でも、静かに共鳴していた。
◇
龍調査機関・第4解析区画。
午前8時24分。
「おはようございます」
「……あ……おはようございます」
今日も変わらず、ログ確認と因子分析の報告が飛び交う室内。
白衣の職員たちはいつも通り端末を操作し、画面に向かって忙しなく指を走らせている。
「異常反応、特に変化ありません。昨日の残留痕跡も、安定しています」
「了解。次はレイラ様とリル様の経過データを……」
──様。
今では職員の一部が、あのふたりを敬称で呼び始めている。
“危険な存在”でありながら、“最も特別なサンプル”として。
「……ねぇ、ちょっと」
カウンターの裏で、若い職員が隣の先輩職員に小声で話しかけた。
「昨日のデータ、見ました? 地下の未使用セクションで因子反応……」
「……しっ!」
慌てて、先輩職員がその口を塞ぐ。
「上から、あれは見なかったことにって言われた。我々は大人しくしとこう」
「え、でも──」
「いいから黙ってて」
不穏な空気は、既に職員たちの間に忍び込んでいた。
──その時。
部屋の照明が僅かにちらつく。
「……え……?」
「停電? いや……数値は安定してる」
「でも電圧が……ほら、数ポイントだけど上下してる」
再び沈黙。
そしてモニターの片隅に、数秒間だけ現れた“アクセス履歴の異常”。
誰かが、この区画に侵入してきた形跡。
だが、警報は鳴らない。
職員たちはその異変に気づきながらも──。
「……報告は、どうしますか」
「……そのまま。報告無しで……。巻き込まれて死にたくないだろ」
職員たちに広がる不穏。
──ネクの影が、確実に中へと入り込んでいた。
◇
龍調査機関・療養エリア。
午前9時を過ぎる頃。
「……ねえ、リル。今さ……」
レイラは、ふと手元の紙コップのぬるい紅茶を見つめながらリルへと声をかける。
「職員の人に『レイラ様』って呼ばれた」
「……オレも『リル様』って言われたな」
リルはソファに深く沈みながら、天井を見上げていた。
その表情は、笑っているようで──笑っていなかった。
「前は、もっと普通だったよな。『紫苑さん』とか『紅崎くん』とか」
「『レイラちゃん』って呼んでくれる人もいた。ちょっと距離感が……って思ったこともあったけど、でも、あれは近さだったんだよね……優しさっていうか……」
「……今のオレらには、そういう距離じゃ近づけねえってことだろ」
リルの声は、静かだった。
「……モノ扱いされてるって言いたいわけじゃねえよ。けど……壊れるかもしれない危険物として扱われてるのは、もうわかる」
「……でもさ」
レイラは、自分の膝を見ながら続ける。
「私たち、自分の意思で戦ってきたつもりだったのに、いつのまにか……観察される側になってたんだね」
「…………それは前からだよ。とくにオレはな」
ふたりの間に、言葉が途切れた。
──まるで、今の静けさが永遠に続くように思えた。
その時、病室の天井のスピーカーから小さな音が鳴る。
『紫苑レイラ様、紅崎リル様。再検査の準備が整いました。第3検査室へお越しください』
「……ほら、また『様』だよ」
リルは立ち上がりながら、苦く笑った。
「なんだろな……。お前たちは特別ですって言われてるのが……なんでこんな寂しいんだろうな」
レイラも立ち上がり、服の裾を整える。
「きっと、人として呼ばれたいんだよ、私たち」
扉が開く。
ふたりは、再び“観察の場”へと足を踏み出した。
けれどその背中には──確かな意思が宿っていた。
たとえ“器”として見られても。
たとえ“誰かに選ばれた存在”だとしても。
自分たちは、自分のままで──ここに立っているのだと。
◇
第3検査室前の廊下に辿り着く。
「……ここだな」
リルは重たい足取りで足を止め、レイラもすぐ隣に並んだ。
薄く開いた扉の奥から、機器の電子音が静かに鳴っている。
その時。
「……レイラちゃん、リルくん」
ふたりの名前を、普段と同じトーンで呼ぶ声が背後から届いた。
「……えっ」
振り返るレイラ。
そこにいたのは、白衣の若い女性職員──以前、紅茶を零してレイラとリルと一緒に笑ったことがある人だった。
「久しぶりだね、ふたりとも。……大丈夫だった?」
ぎこちないけれど、ちゃんと心のある声。
「…………」
リルが目を細める。
その職員は、少しだけ俯いて、自らの手をギュッと握った。
「……本当は、もっと話しかけたかったんだよ。でも、何て声かけたらいいのかわかんなくて……“様”なんて言ってたけど、あれ、自分に言い訳してただけだった」
職員の声が、少し震える。
「……ごめんね。勝手に遠ざかって……勝手に怖がって……でも、やっぱりあたし、ふたりのこと人として、大事に思ってるから」
「……!」
レイラは、一歩だけ彼女に近づいた。
「……ありがとう。私、すごく嬉しい」
そしてリルが口元でふっと笑う。
「そういうの、聞けてよかった。……やっぱ、オレら人間だもんな」
「うん……人間、だよ」
3人の間に、ゆっくりと温かい空気が流れる。
ほんの数秒。
でも、その数秒が──たまらなく、救いだった。
「……あっ、そろそろ先生に怒られるから! 中で待ってるよ!」
職員は慌てて中へ駆けていく。
レイラとリルは、どこか肩の力を抜いたように、同時にため息をついた。
「……ちゃんと、人として見てくれてる人も……いるんだね」
「……ああ。忘れそうになってたけど、まだ……ここにも居場所って、あるのかもな」
ふたりは、再び扉を開ける。
──そこには、ほんの少しだけ柔らかくなった空気と、自分の意志で歩く検査室への道があった。
◇
「……さ、始めるよ。いつも通りだからね」
女性職員の声は先程と同じ、優しくて落ち着いたトーンだった。
彼女は白衣の裾を整えながら、ゆっくりと機器の設定を確認していく。
「レイラちゃん、先にお願いできる?」
「うん」
レイラは躊躇うこと無く診察椅子に腰を下ろす。
横でリルが腕を組み、少しだけ目を細めてレイラを見守っていた。
「……じゃ、まず口の中見せてね。あーってして」
「……あー……」
職員はいつも通り丁寧に、そして淡々とチェックを始める。
犬歯の鋭さ、歯列、粘膜の色……。
ほんの僅かに硬直していたレイラの肩が、ゆっくりと緩んでいった。
「よし、次は目。……うん、大丈夫、右目から見てくよ」
左目には相変わらず、うっすらと“霧のような霊体の名残”が見える。
だが、それは以前よりも安定していて──むしろ、落ち着いているように見えた。
「異常無し。……いい子だったね」
「……ありがとう」
女性職員がそっと微笑みかける。
レイラも、それに少し照れたような笑みを返した。
「じゃあ次、リルくん……お願い」
「……ん」
入れ替わるようにリルが椅子に座る。
「じゃ、あー……」
「……あーーー……(長ぇ……)」
「ふふ、ちゃんと開けて」
小さく笑う職員。
あの懐かしい雰囲気が、検査室に戻ってきていた。
だが──その時だった。
──ピッ……
検査装置が、一瞬だけ赤く点滅した。
「……?」
「ん? 今の、なんだ……?」
女性職員が少し顔をしかめ、モニターに目をやる。
そこには、数値の右隅にほんの一瞬だけ表示された“異常因子反応”の文字。
しかし──すぐに消えた。
「……今の、誤作動……?」
「オレの体調じゃなくて、装置側か?」
「……そうだといいんだけど……」
女性職員は軽くこめかみを押さえる。
まるで、“誰か”が彼女の目を通してこの空間を見ているような──そんな圧迫感が、一瞬だけ背後に漂っていた。
「……まあ、大丈夫。記録だけ残しておくね。あとで解析班に送っておくから」
「ん、頼むわ」
リルは肩をすくめ、席を立つ。
だが──誰にも見えないところで、リルの右手の指先がほんの僅かに震えていた。
「……なんだよ、今の……引っかかったみてえな……」
レイラがそっとその手に目をやる。
「……また来るのかな、アレ……」
ふたりの目が合った瞬間、言葉は要らなかった。
その予感は、確実に。
また“近づいて”きていた。
「──これで検査はおしまい。ふたりとも、お疲れさまでした」
女性職員が微笑み、端末に記録を打ち込む。
レイラとリルは並んで立ち、うっすらと体の重さを感じながらも、無事に終わったことに胸を撫で下ろしていた。
「なんか……前より疲れた気がするな」
「たぶん、気のせいじゃないんだろうね」
ふたりは顔を見合わせて、ふっと笑った。
──その瞬間。検査室の隅。
不使用の端末モニターが、誰にも触れられていないのに、一瞬だけ明滅した。
キュン……と音を立て、暗転した画面に、うっすらと浮かぶ奇妙なシグナル。
一瞬だけ映ったかと思うと──すぐに消えた。
けれど、それを見ていた者はいなかった。
その空間だけに、静かにネクの痕跡が、残されていた。
◇
龍調査機関・地下セクターD(封鎖済み)。
「…………」
真っ暗な廊下。
ここは数年前に使用停止されたまま、誰も立ち入っていない区域。
だが、今。
その廊下の奥で、“何か”が静かに蠢いている。
ぬるり、と揺れる黒い影。
そして、壁に貼りつくようにして“誰かの足音”が静かに遠ざかっていった。
──ネクの痕跡が、またひとつ広がった。
どこか、夜の都市部の高層ビル、とある研究所跡地。
疑惑の元・職員、もしくはスパイ──ネクは、通信端末を閉じながら小さく笑った。
「ふふ……送っちゃった。オレに気づいてもらいたい人には、ちゃんと気づかせないと……意味がないですから」
月明かりの差す部屋の中、黒い包帯の下に隠れた右目が僅かに蠢く。
「オレの目……あの子たちの進化を、ちゃんと見ておきたいんですよね……」
その声には、狂気も慈しみも入り混じっていた。
──カツン、カツン……
無人の廃ビルのフロアに、革靴の音が響いていく。
薄明かりに照らされたその人物──。
左右非対称な銀髪がハネた小柄な青年、ネク。
青白い肌、やや鋭い青い瞳の目元。
右目に巻かれた黒い包帯が、その顔の半分を隠していた。
(……オレの痕跡、ちゃんと追ってきたな……流石の性格の悪さ、です。薊野セセラさん)
ネクはポケットから折り畳まれた資料の1枚を取り出す。
それはかつてネクが龍調査機関から持ち出した、因子反応記録。
(……リルとレイラ……彼らの中にある龍因子は、ほんと特別で……)
紙を指先でなぞる。
(オレの右目がそれに反応したとき、鳥肌が立ったんだ。……この力は、もっと使われるべきだって、心から思いました)
隠された下の眼球が、静かに脈打つ。
その目には見る以上の何か──“干渉する力”が宿っていた。
(オレにだけできることが、あるんだよ。……この世界を、もっと正しく……歪ませるために)
再びネクの指先が踊る。手元のデバイスに、指示が走った。
──『新たな龍因子の注入、完了』
──『融合個体、再構成準備完了』
(もう1回、見せてやりますよ……薊野さん)
(あのふたりが、どこまで壊れて……どこまで抗えるのか)
そしてその先に──『オレの右目』が見る、“進化”の未来がある。
「さあ、次はどっちからブッ壊してみましょうか……リル? レイラ?」
その声は、あくまでも穏やかに。
しかし、明らかに死の選別者としての、色を帯びていた。
◇
翌朝の療養エリア。
「……ん……」
寝具の中で小さく身をよじったレイラ。
淡い朝日がカーテン越しに射し込んでいる。
穏やかな光。昨日侵入者が出たとは思えないほど静かな空間。
だが──。
「……なんだろう……」
レイラは、胸のあたりに感じる妙なざわめきで目を覚ました。
鼓動が速いわけじゃない。息も苦しくない。
なのに、肌の内側を何かが逆流しているような、奇妙な感覚。
(……不安、じゃない。違和感?)
「……リル」
隣のベッドを見る。
そこには、深く眠っているリルの姿。
寝息は穏やか。発熱も無い。
だが、その額には微かに汗が滲んでいた。
(……また?)
レイラはゆっくりと起き上がり、ベッドの縁に腰を下ろす。
窓の外には、変わらない研究区画の景色。
でも、何かが……何かだけが、僅かに狂ってきている。
──そして同時刻、セセラの執務室にて。
「……やっぱり来るか」
セセラは、自身の端末に届いた“異常反応ログ”を睨みつけていた。
夜明け前の数分──施設の地下深く、今は使用されていないはずのセクションで、微弱な龍因子反応が計測された。
「反応値は小さい。けど……波形が妙に似てる。……まるで、前回の異形を模倣してるみてえに……」
誰かがまた、新たな個体を投下したのか──それとも、まだ残っていたのか。
「くそ、時間がねえ……」
セセラはすぐに保安部へ連絡を入れ、最小限の班を招集した。
「先生に報告はまだいい……どうせ来るからな、あの人は」
そう呟いて端末を閉じたとき──。
セセラの背筋がゾクリと冷たくなった。
「…………」
理由は、無い。
しかし、視界の端で何かが“こちらを見ていた気配”が、確かにあった。
──そしてその“目線”は、同じ頃。
療養室のレイラの左目の奥でも、静かに共鳴していた。
◇
龍調査機関・第4解析区画。
午前8時24分。
「おはようございます」
「……あ……おはようございます」
今日も変わらず、ログ確認と因子分析の報告が飛び交う室内。
白衣の職員たちはいつも通り端末を操作し、画面に向かって忙しなく指を走らせている。
「異常反応、特に変化ありません。昨日の残留痕跡も、安定しています」
「了解。次はレイラ様とリル様の経過データを……」
──様。
今では職員の一部が、あのふたりを敬称で呼び始めている。
“危険な存在”でありながら、“最も特別なサンプル”として。
「……ねぇ、ちょっと」
カウンターの裏で、若い職員が隣の先輩職員に小声で話しかけた。
「昨日のデータ、見ました? 地下の未使用セクションで因子反応……」
「……しっ!」
慌てて、先輩職員がその口を塞ぐ。
「上から、あれは見なかったことにって言われた。我々は大人しくしとこう」
「え、でも──」
「いいから黙ってて」
不穏な空気は、既に職員たちの間に忍び込んでいた。
──その時。
部屋の照明が僅かにちらつく。
「……え……?」
「停電? いや……数値は安定してる」
「でも電圧が……ほら、数ポイントだけど上下してる」
再び沈黙。
そしてモニターの片隅に、数秒間だけ現れた“アクセス履歴の異常”。
誰かが、この区画に侵入してきた形跡。
だが、警報は鳴らない。
職員たちはその異変に気づきながらも──。
「……報告は、どうしますか」
「……そのまま。報告無しで……。巻き込まれて死にたくないだろ」
職員たちに広がる不穏。
──ネクの影が、確実に中へと入り込んでいた。
◇
龍調査機関・療養エリア。
午前9時を過ぎる頃。
「……ねえ、リル。今さ……」
レイラは、ふと手元の紙コップのぬるい紅茶を見つめながらリルへと声をかける。
「職員の人に『レイラ様』って呼ばれた」
「……オレも『リル様』って言われたな」
リルはソファに深く沈みながら、天井を見上げていた。
その表情は、笑っているようで──笑っていなかった。
「前は、もっと普通だったよな。『紫苑さん』とか『紅崎くん』とか」
「『レイラちゃん』って呼んでくれる人もいた。ちょっと距離感が……って思ったこともあったけど、でも、あれは近さだったんだよね……優しさっていうか……」
「……今のオレらには、そういう距離じゃ近づけねえってことだろ」
リルの声は、静かだった。
「……モノ扱いされてるって言いたいわけじゃねえよ。けど……壊れるかもしれない危険物として扱われてるのは、もうわかる」
「……でもさ」
レイラは、自分の膝を見ながら続ける。
「私たち、自分の意思で戦ってきたつもりだったのに、いつのまにか……観察される側になってたんだね」
「…………それは前からだよ。とくにオレはな」
ふたりの間に、言葉が途切れた。
──まるで、今の静けさが永遠に続くように思えた。
その時、病室の天井のスピーカーから小さな音が鳴る。
『紫苑レイラ様、紅崎リル様。再検査の準備が整いました。第3検査室へお越しください』
「……ほら、また『様』だよ」
リルは立ち上がりながら、苦く笑った。
「なんだろな……。お前たちは特別ですって言われてるのが……なんでこんな寂しいんだろうな」
レイラも立ち上がり、服の裾を整える。
「きっと、人として呼ばれたいんだよ、私たち」
扉が開く。
ふたりは、再び“観察の場”へと足を踏み出した。
けれどその背中には──確かな意思が宿っていた。
たとえ“器”として見られても。
たとえ“誰かに選ばれた存在”だとしても。
自分たちは、自分のままで──ここに立っているのだと。
◇
第3検査室前の廊下に辿り着く。
「……ここだな」
リルは重たい足取りで足を止め、レイラもすぐ隣に並んだ。
薄く開いた扉の奥から、機器の電子音が静かに鳴っている。
その時。
「……レイラちゃん、リルくん」
ふたりの名前を、普段と同じトーンで呼ぶ声が背後から届いた。
「……えっ」
振り返るレイラ。
そこにいたのは、白衣の若い女性職員──以前、紅茶を零してレイラとリルと一緒に笑ったことがある人だった。
「久しぶりだね、ふたりとも。……大丈夫だった?」
ぎこちないけれど、ちゃんと心のある声。
「…………」
リルが目を細める。
その職員は、少しだけ俯いて、自らの手をギュッと握った。
「……本当は、もっと話しかけたかったんだよ。でも、何て声かけたらいいのかわかんなくて……“様”なんて言ってたけど、あれ、自分に言い訳してただけだった」
職員の声が、少し震える。
「……ごめんね。勝手に遠ざかって……勝手に怖がって……でも、やっぱりあたし、ふたりのこと人として、大事に思ってるから」
「……!」
レイラは、一歩だけ彼女に近づいた。
「……ありがとう。私、すごく嬉しい」
そしてリルが口元でふっと笑う。
「そういうの、聞けてよかった。……やっぱ、オレら人間だもんな」
「うん……人間、だよ」
3人の間に、ゆっくりと温かい空気が流れる。
ほんの数秒。
でも、その数秒が──たまらなく、救いだった。
「……あっ、そろそろ先生に怒られるから! 中で待ってるよ!」
職員は慌てて中へ駆けていく。
レイラとリルは、どこか肩の力を抜いたように、同時にため息をついた。
「……ちゃんと、人として見てくれてる人も……いるんだね」
「……ああ。忘れそうになってたけど、まだ……ここにも居場所って、あるのかもな」
ふたりは、再び扉を開ける。
──そこには、ほんの少しだけ柔らかくなった空気と、自分の意志で歩く検査室への道があった。
◇
「……さ、始めるよ。いつも通りだからね」
女性職員の声は先程と同じ、優しくて落ち着いたトーンだった。
彼女は白衣の裾を整えながら、ゆっくりと機器の設定を確認していく。
「レイラちゃん、先にお願いできる?」
「うん」
レイラは躊躇うこと無く診察椅子に腰を下ろす。
横でリルが腕を組み、少しだけ目を細めてレイラを見守っていた。
「……じゃ、まず口の中見せてね。あーってして」
「……あー……」
職員はいつも通り丁寧に、そして淡々とチェックを始める。
犬歯の鋭さ、歯列、粘膜の色……。
ほんの僅かに硬直していたレイラの肩が、ゆっくりと緩んでいった。
「よし、次は目。……うん、大丈夫、右目から見てくよ」
左目には相変わらず、うっすらと“霧のような霊体の名残”が見える。
だが、それは以前よりも安定していて──むしろ、落ち着いているように見えた。
「異常無し。……いい子だったね」
「……ありがとう」
女性職員がそっと微笑みかける。
レイラも、それに少し照れたような笑みを返した。
「じゃあ次、リルくん……お願い」
「……ん」
入れ替わるようにリルが椅子に座る。
「じゃ、あー……」
「……あーーー……(長ぇ……)」
「ふふ、ちゃんと開けて」
小さく笑う職員。
あの懐かしい雰囲気が、検査室に戻ってきていた。
だが──その時だった。
──ピッ……
検査装置が、一瞬だけ赤く点滅した。
「……?」
「ん? 今の、なんだ……?」
女性職員が少し顔をしかめ、モニターに目をやる。
そこには、数値の右隅にほんの一瞬だけ表示された“異常因子反応”の文字。
しかし──すぐに消えた。
「……今の、誤作動……?」
「オレの体調じゃなくて、装置側か?」
「……そうだといいんだけど……」
女性職員は軽くこめかみを押さえる。
まるで、“誰か”が彼女の目を通してこの空間を見ているような──そんな圧迫感が、一瞬だけ背後に漂っていた。
「……まあ、大丈夫。記録だけ残しておくね。あとで解析班に送っておくから」
「ん、頼むわ」
リルは肩をすくめ、席を立つ。
だが──誰にも見えないところで、リルの右手の指先がほんの僅かに震えていた。
「……なんだよ、今の……引っかかったみてえな……」
レイラがそっとその手に目をやる。
「……また来るのかな、アレ……」
ふたりの目が合った瞬間、言葉は要らなかった。
その予感は、確実に。
また“近づいて”きていた。
「──これで検査はおしまい。ふたりとも、お疲れさまでした」
女性職員が微笑み、端末に記録を打ち込む。
レイラとリルは並んで立ち、うっすらと体の重さを感じながらも、無事に終わったことに胸を撫で下ろしていた。
「なんか……前より疲れた気がするな」
「たぶん、気のせいじゃないんだろうね」
ふたりは顔を見合わせて、ふっと笑った。
──その瞬間。検査室の隅。
不使用の端末モニターが、誰にも触れられていないのに、一瞬だけ明滅した。
キュン……と音を立て、暗転した画面に、うっすらと浮かぶ奇妙なシグナル。
一瞬だけ映ったかと思うと──すぐに消えた。
けれど、それを見ていた者はいなかった。
その空間だけに、静かにネクの痕跡が、残されていた。
◇
龍調査機関・地下セクターD(封鎖済み)。
「…………」
真っ暗な廊下。
ここは数年前に使用停止されたまま、誰も立ち入っていない区域。
だが、今。
その廊下の奥で、“何か”が静かに蠢いている。
ぬるり、と揺れる黒い影。
そして、壁に貼りつくようにして“誰かの足音”が静かに遠ざかっていった。
──ネクの痕跡が、またひとつ広がった。
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ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
花鳥見聞録
木野もくば
ファンタジー
花の妖精のルイは、メジロのモクの背中に乗って旅をしています。ルイは記憶喪失でした。自分が花の妖精だったことしか思い出せません。失くした記憶を探すため、さまざまな世界を冒険します。
『イージス艦長、インパール最前線へ。――牟田口廉也に転生した俺は、地獄の餓死作戦を「鉄壁の兵站要塞」に変える』
月神世一
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【あらすじ】
「補給がなければ、戦場に立つ資格すらない」
坂上真一(さかがみ しんいち)、50歳。
かつてイージス艦長として鉄壁の防空網を指揮し、現在は海上自衛隊で次世代艦の兵站システムを設計する男。
背中には若き日の過ちである「仁王」の刺青を隠し持ち、北辰一刀流の達人でもある彼は、ある日、勤務中に仮眠をとる。
目が覚めると、そこは湿気と熱気に満ちた1944年のビルマだった。
鏡に映っていたのは、小太りで口髭の男――歴史の教科書で見た、あの「牟田口廉也」。
しかも時期は、日本陸軍史上最悪の汚点とされる「インパール作戦」決行の直前。
部下たちは「必勝の精神論」を叫び、無謀な突撃を今か今かと待っている。
(……ふざけるな。俺に、部下を餓死させろと言うのか?)
現代の知識と、冷徹な計算、そして海自仕込みのロジスティクス能力。
すべてを駆使して、坂上(中身)は歴史への介入を開始する。
精神論を振りかざすふりをして上層部を欺き、現地改修で兵器を強化し、密かに撤退路を整備する。
これは、「史上最も無能な指揮官」の皮を被った「現代の有能な指揮官」が、確定した敗北の運命をねじ伏せ、数万の命を救うために戦う、逆転の戦記ドラマ。
空色のサイエンスウィッチ
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『科学の魔女は、空色の髪をなびかせて宙を舞う』
高校を卒業後、亡くなった両親の後を継いで工場長となったニ十歳の女性――空鳥 隼《そらとり じゅん》
彼女は両親との思い出が詰まった工場を守るため、単身で経営を続けてはいたものの、その運営状況は火の車。残された借金さえも返せない。
それでも持ち前の知識で独自の商品開発を進め、なんとかこの状況からの脱出を図っていた。
そんなある日、隼は自身の開発物の影響で、スーパーパワーに目覚めてしまう。
その力は、隼にさらなる可能性を見出させ、その運命さえも大きく変えていく。
持ち前の科学知識を応用することで、世に魔法を再現することをも可能とした力。
その力をもってして、隼は日々空を駆け巡り、世のため人のためのヒーロー活動を始めることにした。
そしていつしか、彼女はこう呼ばれるようになる。
魔法の杖に腰かけて、大空を鳥のように舞う【空色の魔女】と。
※この作品の科学知識云々はフィクションです。参考にしないでください。
※ノベルアッププラス様での連載分を後追いで公開いたします。
※2022/10/25 完結まで投稿しました。
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