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コヨタ

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第16話 その微かな光を信じて

第16話・3 リル、ごめんなさい

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 リルの目が開かれ、そして、また静かに閉じられる。
 しかし、それは確かに意識の回復を意味していた。

 観察室の別室のモニターが、僅かにアラートを発する。

【微弱な意識反応検知──再確認を要請】

【神経伝達確認──発話系統記録装置稼働】

【行動起因無し──安静状態継続】

 ピピッ、と端末を操作していた女性職員の手が止まった。

「……えっ、発話ログが……」

 レイラの後ろで、誰かが慌ただしく走る音。

 すぐに白衣の人物たちが、観察室に飛び込んできた。

「入ります! 状態確認を──」

 医療班の責任者が、すばやく数値をチェックしながら声を上げる。

「仮死状態からの意識回復を確認。神経伝達良好……!」

「脳波反応、覚醒初期段階。心拍、体温安定……!!」

 別の研究班職員も、息を呑みながら。

「これ……マジで目覚めたんだ。あの状態から……!」

 その声に、職員のひとりが小さく呟いた。

「やっぱり紫苑さんの声……届いてたんだ」

 レイラは、ただリルの手を握り続ける。
 興奮する周囲とは対照的に、レイラの気持ちは、ただひとつだった。

「……ありがとう……」

 その一言は、誰に向けたものでもない。
 でも、今、という事実への、何よりの感謝だった。

 ──その頃。

 別室の中央モニターに、その変化が映し出されていた。

 シエリはデータの波形を見ながら、そっと唇を開く。

「……ついに来たんだね」

 隣ではセセラが白衣のポケットに手を突っ込んだまま。
 それでも少しだけ、安堵したような表情。

「思ったより……ずっとはえぇな。てっきりあと1週間はかかるかと思ったのに」

「声が届くってことは、それだけ絆が深いってことだよ」

 シエリはそう言って、そっとデータ画面を閉じる。

「……リルの観察は、フェーズ2に移行。緊急性は落としつつも、引き続き慎重に」

「了解。職員たちにも伝えとく」

「……でも、少しだけに寄り添う時間も……許可しよう」

 セセラは目を軽く細めて、苦笑した。

「まったく……あいつら、手ェ焼かせやがる」

 それでも、どこか救われたような空気が室内に広がっていた。

 こうして、死線を越えた青年に対し、機関全体が再び期待という名の眼差しを向け始める。

 それは、再出発の合図。


 ◇


 ──しばらくして。

 リルの容態を確認しに観察室に集った職員たちは、リルに繋がれていた機械の設定を整え記録したのち、各々の持ち場へと急ぎ戻っていった。

 部屋には、再びレイラとリルのふたりのみ。

「…………っ……」

 リルの赤い瞳が、再びゆっくりと開かれる。
 今度は、さっきよりもしっかりと光を捉えていた。

 視界の中に、最初に映ったのは──。

「……リル……!」

 目元を赤くしたレイラの顔。

「…………」

 リルはぼんやりとした頭の中で、言葉を探すように口を開く。

「……ッ、……ぁ……オレ……」

「…………また……死にかけてた……?」

 その言葉に、レイラはクスッと笑った。

「うん。……いつものこと」

 冗談みたいな声で、でも涙はまだ引いていない。

「…………」

 リルはゆっくりと視線を泳がせて、自分がコードで繋がれていることに気づく。

「……ダッサ」

 ため息をついたようなその声に、レイラもようやく、ふっと力を抜いた。

「……ねぇリル、わかる? ……私の声、聞こえてた?」

 リルは少し考えてから、瞼を伏せる。

「……なんか、遠くで呼ばれてる気がした。……あれ、お前の声だったのか」

 レイラは、小さく頷いた。

「ありがとう。……応えてくれて」

 リルは返事をしない。
 けれど、レイラの手をそっと握り返すように、指が動いた。

 その動作と温もりが、レイラにとっては何よりの

 そのとき──静かに扉が開いた。

「……よぉ。起きたって聞いたんで、来てやったよ」

 いつもの軽い調子の、セセラ。
 レイラが顔を上げて微笑む。

「……薊野さん……! 来てくれたんだ」

 リルも、少しだけ首を傾けて声をかける。

「……薊野さん、……顔……疲れてんな」

 セセラは「誰かさんのせいでな」と口を尖らせて、リルの隣まで歩く。

 その歩みは、どこかぎこちなく、重かった。

「…………」

 そして、ベッドの傍で足を止めると──。

「……バカが」

 そう一言だけ、低く呟く。

「…………ッ……」

 そのすぐあとにセセラは顔を伏せた。

 肩が、震える。

 セセラの様子を見ていたレイラは、思わず目を見開く。

「……薊野さん?」

 レイラの呼びかけに返事は無かった。
 しかし、セセラの指先は震え、頬を伝うものが見えた。

「おい……」

「お前な……っ……!」

「ッ、どんだけ、どんだけ心配させりゃ気が済むんだよ……っ……!!」

 掠れているセセラの声。
 目を覆いもせず、涙を零しながら。

「俺、今回ばかりは……っ、もう……もう、二度と……って、思ったんだぞ、クソ……!!」

 それは、レイラが初めて見るセセラの涙。

「……!!」

 レイラは驚いたように見つめる。

 そして──その姿に胸が熱くなり、堪えきれずにポロッと涙を流した。

「……私も、ダメだ……」

 小さく笑いながら、レイラは袖で目元を拭う。

 リルはそんなふたりを見て、どこか不思議そうな表情を浮かべていた。

 やがて、ぼそっと。

「……泣かせてばっかだな、オレ」

 けれど、それでもいいと思った。
 今はこの温度が、何よりも生きている証なのだから。

 涙を拭ったセセラは、鼻をすすりながらリルから目を逸らす。

「グスッ……、う……っ、……ちょっと外、出てくる……。煙草……いや、空気吸ってくる」

 そう言いながらもどこか照れたように、セセラはそそくさと退出していった。
 レイラもそれに続いて、そっとリルに声をかける。

「……じゃあ、私も行くね。また来る。……絶対」

 それだけを言って、名残惜しそうにリルの手を離した。

 ──扉が静かに閉まる。

「…………」

 室内に、再び静けさが戻る。

 リルは天井をぼんやりと見上げていた。
 しかし、その瞳もやがて、ゆっくりと閉じられていく。

 瞼の裏で、いくつもの映像が浮かんでは消えた。

 熱い血。

 鉄の匂い。

 誰かの泣き声。

 崩れていった記憶の山の中で、それでもひときわ鮮やかだったのは。

 ──泣きながら笑ってた、レイラあいつの顔だった。

(……レイラ)

 どうして、あんなにもまっすぐなんだろう。
 どうして、こんな自分なんかに……手を伸ばしてくれるんだろう。

(……やっぱ、オレにはもったいねぇな)

 喉の奥で、微かに笑うような息が漏れた。

 でも、今だけは少しだけ、信じてみたいとも思った。

 ──もう一度、生きてもいいのかもしれないって。

(……次は、ちゃんと……)

 思考がゆっくりと溶けていく。
 まるで、深く静かな水の中に沈んでいくように。

「…………」

 機械の音は一定。心拍は穏やか。
 リルはようやく、静かな安息へと身を委ねていく。

 眠るその顔は、どこかあたたかく、微笑んでいるようにさえ見えた。


 ◇


 施設の廊下には、昼の淡い光が射し込んでいた。
 観察室の扉が背後で静かに閉まる。

 レイラは前を歩き出すセセラの背中を見つめながら、そっと口を開いた。

「……薊野さん、泣いちゃったね」

「…………」

 足を止めるセセラ。
 ほんの少し肩を揺らし、振り向きもせずに答える。

「……あたりめーだろ。……泣いちまうよ、あんなん」

 そして深く長いため息。
 額に手をやり、そのまま壁にもたれかかると静かに声を出した。

「俺、最近……ずっとリルのことしか頭に無かった……」

「……うん。私も」

「……起きなかったらどうしようって、そればっか考えててさ。……はあ……、とりあえず、良かった……」

 セセラの声は、どこまでも本音だった。
 絞り出すような安堵に、レイラはそっと目を伏せる。

「……本当だね」

 しばらく、ふたりの間に静寂が流れた。

 やがてレイラが歩を進め、セセラの隣に並ぶ。

「あのね薊野さん……この前、リルと話したとき……こんなこと言ってたんだ」

「……?」

 視線を向けるセセラ。
 レイラの表情は、どこか遠くを見ていた。

 ──あの日。
 機関を龍の襲撃から救った翌日、中庭で。

『……オレも、昔は……どうせまたすぐ死にかけるしって思ってた。なのに……今は、もうちょい生きてみてもいいかなって思うこと、ある』

 その言葉に、セセラの目が僅かに見開かれた。

「……あいつ……そんなこと言ってたのか」

 レイラは小さく頷く。
 しかし、そこから言葉を続けるうちに──唇が震え始めた。

「リル……生きたがってた。……なのに、私は……リルにあんなことを、してしまった」

 声が、徐々に詰まり始める。
 目元には、もう涙が浮かんでいた。

「酷いこと……した。……あの日、私、リルの尊厳を守るために……、これ以上、リルが穢れないようにって……あんなこと……」

 ポロッ……と涙が零れ落ちる。

 それは、先程リルといたときの温かい涙とは違うもの。

「う、……薊野さん……っ……」

「…………」

 レイラの声は、酷く掠れていた。
 様子を察したセセラは姿勢を落として、レイラの目線に合わせる。

「私……あんなっ……酷いことしたのに……! ホントだったら、合わせる顔なんて無いはずなのに……、自分の勝手で……リルのこと見に行って……っ……」

 止まらない嗚咽。

「私がっ……私が……ッ……、うっ、……殺したのにっ……」

 その瞬間だった。

「……!」

 レイラの膝が崩れそうになったところを、セセラが咄嗟に抱きとめた。

 その腕にぎゅっと力がこもる。

「……レイラ……」

「なのに私の声に反応してくれて、っ、私、こんなッ、ううっ、ひっく、ひぐっ、……うっ、わたひがっ、りるを、ううっ、ころじたのにいッ……」

「……殺してねえよ。お前は」

 セセラの手が、レイラの後頭部にまわった。
 そのまま落ち着かせるように、優しくその頭を撫でる。

「なあ、レイラ……あのとき俺、お前に怒鳴っちまって……悪かったな」

「うっ、ひっく、ひぐっ……!」

「お前が一番責任感じて一番怖かったのにな。……俺もあのとき普通じゃなかった……ごめん」

「……うぅぅ……っ、えぅっ……!!」

「お前がさ……リルを救ったんだよ、間違いなく」

 その言葉に、レイラは堰を切ったように泣き出した。

「うう、うっ、うわぁあああああん……!!」

 子どものように、声を上げて泣く少女。

「……ありがとな、レイラ。怖かったよな……」

 セセラは穏やかな表情のまま、その細い体を抱きしめ続けた。

「わぁああああぁああっ……!! りるっ、りる、ごめんなさいっ、ごめんなさい……っ……!!」

 誰も咎めず、誰も否定しない。

 ただただ、泣きたいだけ泣けばいい。

 その涙が、この子の罪を洗い流してくれるのなら。

 セセラはいつまでもその小さな背を包み込むように支えていた。


 ◇


 ──その日の夕方。

 西城家の広く静かな居間。
 襖を開け放した先には、柔らかな夕陽が刺し込んでいる。

 アシュラはいつものように背筋を伸ばして座っていた。
 傷はまだ完全には癒えていない。
 だが、その瞳は、どこか安堵に満ちていた。

 その向かいには、ラショウ。

 手元には湯気の立つお茶が置かれているが、口をつけた様子は無かった。

「……リルくん、完全に目を覚ましたんだね」

 穏やかに、けれど少しだけ震えているラショウの声。

 アシュラはゆっくり頷く。

「ああ。さっき連絡があった。意識はまだ浅いようだけど……確かに、自分の意思で目を開けたって」

 ラショウは胸元を押さえるように、深く息を吐いた。

「……本当によかった……」

「…………」

 ふと、視線を落とすアシュラ。

「……あいつが戻ってこなかったら……。俺は、一生、自分を許せなかったと思う」

 その言葉に、ラショウは目を見開く。

「……兄様?」

 アシュラは微かに笑って見せた。
 自嘲のような、感情の誤魔化しのような笑み。

「あの任務だけじゃない……あいつに前線を任せてるのは……俺なんだよ。俺の判断が、あいつを死地に送り込んだんだとしたら……、西城家の当主としても友人としても、面目が無い」

「……!」

 ラショウはそっとアシュラの隣に寄り、肩を並べる。

「でも、リルくんは戻ってきた。……きっと、兄様の願いも力になったんだよ」

「……!」

 アシュラは、その言葉に小さく頷いた。
 だが、それ以上は何も言わなかった。

 そして同じ頃。
 龍調査機関の休憩ラウンジでは──。

「…………」

 小さな花瓶の花を替えていたラルトが、ふと手を止めた。

 扉の向こうから、誰かがそっとやってくる。

「……あれ? 薊野さん?」

 セセラが無言で入ってきた。
 白衣の下に着ているタートルネックの袖ごと捲り、少しだけ顔を伏せている。

「リルくん、起きたって聞いたけど……どうだった?」

 ラルトの問いに、セセラは一拍置いてから──ゆっくりと顔を上げた。

 そして、小さく。

「……最高だったよ」

 その言葉だけで、すべてが伝わる。

 微笑んだラルトは、「うん……!」と、優しく答えた。

「……薊野さん、お疲れさま」

「…………ん」

 倒れ込むようにソファにもたれるセセラ。
 そしてそのまま、ボフッと勢いよく座面に体を横たえた。

「…………ちょっと……寝る…………」

「ええ~? ここで?」

 そう言いながらラルトは、セセラの顔を覗き込む。

「…………」

 眼鏡も外さずに睡魔に抗えない様子。
 そして、その目元には薄らと泣いたような痕。

(薊野さんったら、本当にあの子たちのこと好きなんだから)

 ふと、ラルトは横たわるセセラの頭を軽く撫でた。するとすぐに「やめろや」という低い声が返ってくる。

「ふふ……♪ 眼鏡かけたまま寝たら、危ないよ?」

「……っせーな……、疲れてんだよ……」

 静かな休憩室。
 ふたりの表情も、このときは子どものように無邪気だった。

 ──夕暮れの龍調査機関。
 ひとり、またひとりと、人々の表情が柔らかくなっていく。

 紅崎リルが生きているという奇跡が、確かに皆を救っていた。



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