69 / 133
第16話 その微かな光を信じて
第16話・2 この世にいてくれたら
しおりを挟む
夜。特殊解析棟の観察室。
「──お疲れ様です」
最後に残った職員が退室する。
扉が閉まり、外の気配が遠ざかると空気が一際静まり返った。
残されていたのはベッドに横たわるリルと、その傍らでモニターの数々を見つめていたセセラ。
そしてもうひとり──シエリ。
無音でセセラの背後に立っていた小さな影が、静かに口を開いた。
「……お疲れだね、セセラ」
その声にセセラは顔を上げることはなく、少しだけ苦笑するような気配を滲ませる。
「ああ。……超疲れてる」
肩を落としながら移動すると、ベッドの傍に置かれていた椅子の背にもたれた。
すぐに脚を組んで、手には開きっぱなしのタブレット端末。
唇は乾き、目は充血していた。
「あれだけ暴走して崩れかけた神経系が……まさか、あそこから戻ってくるなんてな……」
「戻ってきたのではない。戻してみせたのだよ、レイラが」
シエリの言葉に、セセラはフッと口元だけで笑う。視線だけは、眠るリルから外さなかった。
「……あいつ、龍に憑依されてるとは言え中身は『普通の女の子』だと思ってた。でも、あれはもう……間違い無く特別だ」
「……そう思うのは、きっとキミだけじゃない」
シエリはそっとベッドに近づく。
眠るリルの顔を眺めるように立ち止まり、復活したその胸の上下運動をじっと見つめる。
「この子は……戻った、のだな」
その言葉に、セセラは少しだけ目を細めた。
「戻ったというより、帰ってきたって感じだな」
そう答えるとセセラは静かに椅子から立ち上がり、シエリと同じようにベッドへ一歩近づく。
コードが何本も繋がれたリルの体を、まるで兄のように見守る目で覗き込んだ。
「……でも、油断はできねえんだよ……。龍化の痕跡、再構築の速度、内臓への負荷……このまま起きてくれても、どこまで動けるかはわからねえ」
「ああ。だからこそ……この目覚めは貴重だ」
くるりとセセラの方へ向きを変えるシエリ。
「セセラ。いずれこの子は、もっと深く龍と向き合うことになる。目覚めただけでは、またすぐに呑まれる。……そうならないための準備を、進めておこう」
「……先生の予測か?」
「予測? いや、信じてるんだよ。この子と、レイラを」
シエリの言葉は、予測ではなく──まるで祈りだった。
しばらく無言が流れる。
やがてセセラが、ぽつりと。
「……やっぱ煙草が欲しくなるな。ヤニ抜きしてる場合じゃねーわ、これ」
「フフ……それ、禁煙失敗って言うんだよ」
そう小さく笑って、シエリはそのままセセラの左腕をぽんと軽く、優しく叩く。
「キミも疲れてるだろう。もう休みなさい。……私は、まだ少しここにいるよ」
「……ん」
その言葉にセセラはゆっくりと頷いた。
そしてシエリと、眠るリルに背を向けると、軽く手を挙げたあとに扉の方へと歩いていく。
「…………」
無機質な明かりに照らされた無音の部屋。
ひとり残ったシエリは、もう一度だけリルの顔を見て、囁いた。
「……おかえりなさい、紅崎リルくん」
職員たちの前ではずっと気丈に対応していたシエリの瞳にも、ついに涙が浮かぶ。
その声は、ただの言葉ではなく、希望だった。
◇
翌日。
朝の光が射し込む執務室。
静かな書類のめくれる音と、数人の声が交差していた。
広い部屋の中央には、シエリとセセラ。
その左右には数名の研究員と戦闘班の責任者が並んでいる。
壁面のホログラムには、昨日のリルの蘇生記録が時系列で映し出されていた。
「……奇跡、という言葉でしか表せない」
静かに、だが確かに熱を帯びた声で語るのはシエリだった。
「龍因子の再統合反応、生命活動の再点火、意識反応の兆候……死線を越えた、と断言していい」
セセラは椅子の背にもたれながら、煙草を指で弄ぶ。
未点火のまま、それを唇に挟んで告げた。
「でも、まだ寝たきりには変わりねえ。臓器の再構築が終わってないし、覚醒後の記憶保持も不明。当分は研究班の観察下だ」
データ班の女性職員がモニターを指差す。
「昨夜以降、身体機能は安定しています。ただ、エネルギー消費が激しく、再生は少しずつ鈍化しています」
「一気に戻そうとして、また壊れたら意味が無い」
シエリの声に、全員が静まり返る。
そのあと、シエリは視線をセセラへ向けた。
「……レイラは?」
セセラは、煙草を指で弾きながら苦笑する。
「昨日はあのあと、ラショウに支えられて少し休んだ。朝になって、また『見に行かせてくれ』って来たよ」
「……レイラは……もう止まらないな」
ぽつりと呟くシエリ。
「アシュラも、『リルの様子が見たい』だとよ」
「あらあら……」
「……でも、『リルのことだから、俺にあんな姿を見られるのは嫌がるかも』とも言ってた」
「フフ……リルのことを大事に想っているからこそだね」
そんなやり取りの後、隣にいた解析班の統括が口を開く。
「所長、今回の一件……報告をどうまとめますか? 龍因子の再統合と意識回復、例の新種──成れの果て種との関連性、全て想定外です」
シエリは椅子に浅く座り、膝の上で両手を組んだ。
「この件は“封印事案”に分類。公式報告書には、『特異個体における生命反応の遷移』として記載。詳細な要因分析と精神影響に関しては、改めて解析班に」
「それで国を納得させられるでしょうか?」
「納得させるために、私たちがいるんだろう」
ピリッとした空気が漂う中、それでも室内は次第に落ち着きを取り戻していく。
ふとセセラが、小さく呟くように声を挟んだ。
「……あのふたりさ。何度でも死線を越えてくるよな」
その言葉にシエリは一瞬だけ表情を和らげる。
「奇跡が起きるのは、奇跡を信じて声をかける人間がいるからだよ」
「……おっ……、らしいこと言うじゃん、先生」
「たまにはね」
静かな余韻が残る中、会議は粛々と続いていった。
──その間にも、ひとつの命は、静かに息を吹き返していく。
◇
静寂に包まれた解析棟の部屋──観察室。
音と言えば、機器が発する一定の電子音と、職員たちの作業の音と、リルの微かな呼吸音だけ。
昨日と同じ白いベッド。
だがそこには、確かに生きている人間がいた。
その表情に、苦悶の色は無い。
眠っているだけのように穏やかで、時折、睫毛が僅かに揺れる。
モニターの数値は安定している。
体温、心拍、脳波。
どれも、昨夜とは別人のように落ち着きを取り戻していた。
──そして、リルの“精神の内側”。
即ち、夢の中。
(……ッ、やめろ……来んな……!)
精神世界の中のリルのその声が、誰に対して言っている言葉なのかはわからない。
そんな声が、真っ暗な空間に響いていた。
何も無いはずの視界。だが、どこか遠くで“何か”が蠢いている気配がする。
──視界が、歪む。
骨の軋む音。
血の気配。
誰かの泣き声。
『兄さん、やめて……!』
泣いている子どもの声だ。自分ではない。誰か他人の記憶──それとも、自分自身の……?
しかし、兄? 自分に兄はいない。
……誰だ?
(……なんだ? なんの記憶だ……ッ)
額に手を当てようとするが、指は動かない。
体が重い。まるで、底のない水中に沈んでいくようだった。
──そのときだった。
水の底から、不意に誰かの手が差し伸べられる。
白く細い指。
優しい温度。
そして、微かに聞こえる──。
『リル』
誰の声かはわからない。
でも、とても温かくて。
それだけで、冷たく凍りついた体が少しずつ解けていく気がした。
『……リル、起きて』
その声が、何度も。
遠くから、けれど確かに。
(まさか……)
──レイラ……?
そう、呟いた気がした。
それが夢の中か、現実の中か、わからない。
──特殊解析棟。
リルの瞼が、ほんの僅かに動いた。
まるで、外の声に応えようとするように。
だがそれ以上は、また静けさが戻る。
夢の続きを、リルはまだ辿っていた。
◇
午前11時過ぎ。
観察室の前に、レイラが静かに立っていた。
白い扉の前で、一度だけ深呼吸をする。
「……失礼します」
認証が通ると扉が開き、中へと入る。
職員たちは今はそれぞれの持ち場につき、ここにはいない。
機械の音は昨日と変わらず。
けれど、ベッドに横たわるリルの顔は明らかに違っていた。
穏やかな寝顔。顔色も少しずつ良くなってきている。
仮死状態だった頃とは比べものにならないほど、温かい。
「……おはよう、リル」
囁くように声をかける。
返事はないが、それでもここにいることが、何よりの救いだった。
そっと、ベッドの傍の椅子を引いてリルの隣に座る。
「……また来たよ。迷惑かもしれないけど……しばらくは、毎日来るから」
その声に込められたのは、優しさと決意と、そしてほんの少しの不安。
レイラはベッドの端に視線を落とし、リルの手の近くに自分の指をそっと添えた。
「昨日ね、私の声に……反応してくれたって、みんな言ってたよ」
「……嘘じゃないって、思っていいよね……?」
その手が動くことはない。
けれど、触れているだけでわかる。
確かに、そこに命がある。
「……たくさん怖かったけど、リルがこの世にいてくれるって思えたら、……もう、十分だから」
小さな声で、そう言ったあと。
レイラはふと、ぽそっと呟いた。
「……夢、何か見てた?」
──応えは、無い。
でも、微かに。
レイラの指先に触れるリルの手が、僅かに温かくなった気がした。
静けさの中、レイラはじっとリルの顔を見つめている。
昨日とは違う。
命が、確かにここに宿っていると感じる。
でも……それだけじゃ足りない。
「…………っ……」
もう一度、目を開けて。
もう一度、名前を呼んで。
レイラの願いは、静かに、けれど深くその空間を満たしていた。
そのとき──。
「……う、……っ」
小さな、小さなリルの呻き声。
まるで喉の奥を無理矢理こじ開けるように、微かな音が漏れる。
「……リル?」
身を乗り出したレイラ。
その瞬間、リルの瞼が僅かに揺れる。
瞳はまだ開かない。
だが、眉がほんの少しだけ寄っている。
顔が、苦しげに歪む。
まるで、何かと戦っているようだった。
◇
そして再び──。
ここはリルの夢の中。
黒い深淵の奥から、またあの『子どもの声』が響く。
『お願い、やめて……やめてよ……!』
そして、その声のすぐ近くで、誰かが自分の名前を呼んでいる気がした。
『リル』
それは──。
レイラの声だ。
遠く、遠くのどこかから、何度も呼ばれている。
自分の中で、記憶と現実と幻が、ぐしゃぐしゃに溶けていく。
(……オレは……)
夢の中で、誰かの手を振り払う。
重い。だるい。熱い。
でも、その向こうで、あの声が確かに言った。
『起きて、リル……もう……大丈夫だよ……』
◇
──観察室。
リルの手が、微かに動いた。
レイラの手の上に添えられていたその手が、ほんの少しだけ、指先を折るように反応する。
「……っ、リル! リル……!」
レイラが声を上げると同時に、リルの瞼が──。
ようやく。
ようやく、ゆっくりと開かれた。
「………………」
赤い瞳が、薄く光を捉える。
焦点は合っていない。
でも、確かに視線が揺れていた。
「……レ…………ら…………?」
掠れた声。
ひと呼吸ごとに命を燃やすような、ぎこちない発音。
「…………ぁ……!!」
レイラの瞳が、涙で潤む。
「ッ、……うん、私だよ……! リル、よかった……!」
リルの目元が、僅かに動いた。
少しだけ、安心したように息を吐いて。
もう一度、瞳が閉じられる。
「……!!!」
だが、今度のそれは眠りではない。
意識という灯火が、確かに灯った証だった。
モニターの数値が微かに上昇する。
観察室全体が、また新たな空気に包まれていた。
「──お疲れ様です」
最後に残った職員が退室する。
扉が閉まり、外の気配が遠ざかると空気が一際静まり返った。
残されていたのはベッドに横たわるリルと、その傍らでモニターの数々を見つめていたセセラ。
そしてもうひとり──シエリ。
無音でセセラの背後に立っていた小さな影が、静かに口を開いた。
「……お疲れだね、セセラ」
その声にセセラは顔を上げることはなく、少しだけ苦笑するような気配を滲ませる。
「ああ。……超疲れてる」
肩を落としながら移動すると、ベッドの傍に置かれていた椅子の背にもたれた。
すぐに脚を組んで、手には開きっぱなしのタブレット端末。
唇は乾き、目は充血していた。
「あれだけ暴走して崩れかけた神経系が……まさか、あそこから戻ってくるなんてな……」
「戻ってきたのではない。戻してみせたのだよ、レイラが」
シエリの言葉に、セセラはフッと口元だけで笑う。視線だけは、眠るリルから外さなかった。
「……あいつ、龍に憑依されてるとは言え中身は『普通の女の子』だと思ってた。でも、あれはもう……間違い無く特別だ」
「……そう思うのは、きっとキミだけじゃない」
シエリはそっとベッドに近づく。
眠るリルの顔を眺めるように立ち止まり、復活したその胸の上下運動をじっと見つめる。
「この子は……戻った、のだな」
その言葉に、セセラは少しだけ目を細めた。
「戻ったというより、帰ってきたって感じだな」
そう答えるとセセラは静かに椅子から立ち上がり、シエリと同じようにベッドへ一歩近づく。
コードが何本も繋がれたリルの体を、まるで兄のように見守る目で覗き込んだ。
「……でも、油断はできねえんだよ……。龍化の痕跡、再構築の速度、内臓への負荷……このまま起きてくれても、どこまで動けるかはわからねえ」
「ああ。だからこそ……この目覚めは貴重だ」
くるりとセセラの方へ向きを変えるシエリ。
「セセラ。いずれこの子は、もっと深く龍と向き合うことになる。目覚めただけでは、またすぐに呑まれる。……そうならないための準備を、進めておこう」
「……先生の予測か?」
「予測? いや、信じてるんだよ。この子と、レイラを」
シエリの言葉は、予測ではなく──まるで祈りだった。
しばらく無言が流れる。
やがてセセラが、ぽつりと。
「……やっぱ煙草が欲しくなるな。ヤニ抜きしてる場合じゃねーわ、これ」
「フフ……それ、禁煙失敗って言うんだよ」
そう小さく笑って、シエリはそのままセセラの左腕をぽんと軽く、優しく叩く。
「キミも疲れてるだろう。もう休みなさい。……私は、まだ少しここにいるよ」
「……ん」
その言葉にセセラはゆっくりと頷いた。
そしてシエリと、眠るリルに背を向けると、軽く手を挙げたあとに扉の方へと歩いていく。
「…………」
無機質な明かりに照らされた無音の部屋。
ひとり残ったシエリは、もう一度だけリルの顔を見て、囁いた。
「……おかえりなさい、紅崎リルくん」
職員たちの前ではずっと気丈に対応していたシエリの瞳にも、ついに涙が浮かぶ。
その声は、ただの言葉ではなく、希望だった。
◇
翌日。
朝の光が射し込む執務室。
静かな書類のめくれる音と、数人の声が交差していた。
広い部屋の中央には、シエリとセセラ。
その左右には数名の研究員と戦闘班の責任者が並んでいる。
壁面のホログラムには、昨日のリルの蘇生記録が時系列で映し出されていた。
「……奇跡、という言葉でしか表せない」
静かに、だが確かに熱を帯びた声で語るのはシエリだった。
「龍因子の再統合反応、生命活動の再点火、意識反応の兆候……死線を越えた、と断言していい」
セセラは椅子の背にもたれながら、煙草を指で弄ぶ。
未点火のまま、それを唇に挟んで告げた。
「でも、まだ寝たきりには変わりねえ。臓器の再構築が終わってないし、覚醒後の記憶保持も不明。当分は研究班の観察下だ」
データ班の女性職員がモニターを指差す。
「昨夜以降、身体機能は安定しています。ただ、エネルギー消費が激しく、再生は少しずつ鈍化しています」
「一気に戻そうとして、また壊れたら意味が無い」
シエリの声に、全員が静まり返る。
そのあと、シエリは視線をセセラへ向けた。
「……レイラは?」
セセラは、煙草を指で弾きながら苦笑する。
「昨日はあのあと、ラショウに支えられて少し休んだ。朝になって、また『見に行かせてくれ』って来たよ」
「……レイラは……もう止まらないな」
ぽつりと呟くシエリ。
「アシュラも、『リルの様子が見たい』だとよ」
「あらあら……」
「……でも、『リルのことだから、俺にあんな姿を見られるのは嫌がるかも』とも言ってた」
「フフ……リルのことを大事に想っているからこそだね」
そんなやり取りの後、隣にいた解析班の統括が口を開く。
「所長、今回の一件……報告をどうまとめますか? 龍因子の再統合と意識回復、例の新種──成れの果て種との関連性、全て想定外です」
シエリは椅子に浅く座り、膝の上で両手を組んだ。
「この件は“封印事案”に分類。公式報告書には、『特異個体における生命反応の遷移』として記載。詳細な要因分析と精神影響に関しては、改めて解析班に」
「それで国を納得させられるでしょうか?」
「納得させるために、私たちがいるんだろう」
ピリッとした空気が漂う中、それでも室内は次第に落ち着きを取り戻していく。
ふとセセラが、小さく呟くように声を挟んだ。
「……あのふたりさ。何度でも死線を越えてくるよな」
その言葉にシエリは一瞬だけ表情を和らげる。
「奇跡が起きるのは、奇跡を信じて声をかける人間がいるからだよ」
「……おっ……、らしいこと言うじゃん、先生」
「たまにはね」
静かな余韻が残る中、会議は粛々と続いていった。
──その間にも、ひとつの命は、静かに息を吹き返していく。
◇
静寂に包まれた解析棟の部屋──観察室。
音と言えば、機器が発する一定の電子音と、職員たちの作業の音と、リルの微かな呼吸音だけ。
昨日と同じ白いベッド。
だがそこには、確かに生きている人間がいた。
その表情に、苦悶の色は無い。
眠っているだけのように穏やかで、時折、睫毛が僅かに揺れる。
モニターの数値は安定している。
体温、心拍、脳波。
どれも、昨夜とは別人のように落ち着きを取り戻していた。
──そして、リルの“精神の内側”。
即ち、夢の中。
(……ッ、やめろ……来んな……!)
精神世界の中のリルのその声が、誰に対して言っている言葉なのかはわからない。
そんな声が、真っ暗な空間に響いていた。
何も無いはずの視界。だが、どこか遠くで“何か”が蠢いている気配がする。
──視界が、歪む。
骨の軋む音。
血の気配。
誰かの泣き声。
『兄さん、やめて……!』
泣いている子どもの声だ。自分ではない。誰か他人の記憶──それとも、自分自身の……?
しかし、兄? 自分に兄はいない。
……誰だ?
(……なんだ? なんの記憶だ……ッ)
額に手を当てようとするが、指は動かない。
体が重い。まるで、底のない水中に沈んでいくようだった。
──そのときだった。
水の底から、不意に誰かの手が差し伸べられる。
白く細い指。
優しい温度。
そして、微かに聞こえる──。
『リル』
誰の声かはわからない。
でも、とても温かくて。
それだけで、冷たく凍りついた体が少しずつ解けていく気がした。
『……リル、起きて』
その声が、何度も。
遠くから、けれど確かに。
(まさか……)
──レイラ……?
そう、呟いた気がした。
それが夢の中か、現実の中か、わからない。
──特殊解析棟。
リルの瞼が、ほんの僅かに動いた。
まるで、外の声に応えようとするように。
だがそれ以上は、また静けさが戻る。
夢の続きを、リルはまだ辿っていた。
◇
午前11時過ぎ。
観察室の前に、レイラが静かに立っていた。
白い扉の前で、一度だけ深呼吸をする。
「……失礼します」
認証が通ると扉が開き、中へと入る。
職員たちは今はそれぞれの持ち場につき、ここにはいない。
機械の音は昨日と変わらず。
けれど、ベッドに横たわるリルの顔は明らかに違っていた。
穏やかな寝顔。顔色も少しずつ良くなってきている。
仮死状態だった頃とは比べものにならないほど、温かい。
「……おはよう、リル」
囁くように声をかける。
返事はないが、それでもここにいることが、何よりの救いだった。
そっと、ベッドの傍の椅子を引いてリルの隣に座る。
「……また来たよ。迷惑かもしれないけど……しばらくは、毎日来るから」
その声に込められたのは、優しさと決意と、そしてほんの少しの不安。
レイラはベッドの端に視線を落とし、リルの手の近くに自分の指をそっと添えた。
「昨日ね、私の声に……反応してくれたって、みんな言ってたよ」
「……嘘じゃないって、思っていいよね……?」
その手が動くことはない。
けれど、触れているだけでわかる。
確かに、そこに命がある。
「……たくさん怖かったけど、リルがこの世にいてくれるって思えたら、……もう、十分だから」
小さな声で、そう言ったあと。
レイラはふと、ぽそっと呟いた。
「……夢、何か見てた?」
──応えは、無い。
でも、微かに。
レイラの指先に触れるリルの手が、僅かに温かくなった気がした。
静けさの中、レイラはじっとリルの顔を見つめている。
昨日とは違う。
命が、確かにここに宿っていると感じる。
でも……それだけじゃ足りない。
「…………っ……」
もう一度、目を開けて。
もう一度、名前を呼んで。
レイラの願いは、静かに、けれど深くその空間を満たしていた。
そのとき──。
「……う、……っ」
小さな、小さなリルの呻き声。
まるで喉の奥を無理矢理こじ開けるように、微かな音が漏れる。
「……リル?」
身を乗り出したレイラ。
その瞬間、リルの瞼が僅かに揺れる。
瞳はまだ開かない。
だが、眉がほんの少しだけ寄っている。
顔が、苦しげに歪む。
まるで、何かと戦っているようだった。
◇
そして再び──。
ここはリルの夢の中。
黒い深淵の奥から、またあの『子どもの声』が響く。
『お願い、やめて……やめてよ……!』
そして、その声のすぐ近くで、誰かが自分の名前を呼んでいる気がした。
『リル』
それは──。
レイラの声だ。
遠く、遠くのどこかから、何度も呼ばれている。
自分の中で、記憶と現実と幻が、ぐしゃぐしゃに溶けていく。
(……オレは……)
夢の中で、誰かの手を振り払う。
重い。だるい。熱い。
でも、その向こうで、あの声が確かに言った。
『起きて、リル……もう……大丈夫だよ……』
◇
──観察室。
リルの手が、微かに動いた。
レイラの手の上に添えられていたその手が、ほんの少しだけ、指先を折るように反応する。
「……っ、リル! リル……!」
レイラが声を上げると同時に、リルの瞼が──。
ようやく。
ようやく、ゆっくりと開かれた。
「………………」
赤い瞳が、薄く光を捉える。
焦点は合っていない。
でも、確かに視線が揺れていた。
「……レ…………ら…………?」
掠れた声。
ひと呼吸ごとに命を燃やすような、ぎこちない発音。
「…………ぁ……!!」
レイラの瞳が、涙で潤む。
「ッ、……うん、私だよ……! リル、よかった……!」
リルの目元が、僅かに動いた。
少しだけ、安心したように息を吐いて。
もう一度、瞳が閉じられる。
「……!!!」
だが、今度のそれは眠りではない。
意識という灯火が、確かに灯った証だった。
モニターの数値が微かに上昇する。
観察室全体が、また新たな空気に包まれていた。
2
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
断罪まであと10分、私は処刑台の上で「ライブ配信」を開始した〜前世インフルエンサーの悪役令嬢、支持率100%でクズ王子を逆処刑する〜
深渡 ケイ
ファンタジー
断罪まで、あと10分。
処刑台の上で跪く悪役令嬢スカーレットは、笑っていた。
なぜなら彼女は――
前世で“トップインフルエンサー”だったから。
処刑の瞬間、彼女が起動したのは禁忌の精霊石。
空に展開された巨大モニターが、全世界同時ライブ配信を開始する。
タイトルは――
『断罪なう』。
王子の不貞、聖女の偽善、王家の腐敗。
すべてを“証拠付き・リアルタイム”で暴露する配信に、
国民の「いいね(=精霊力)」が集まり始める。
そして宣言される、前代未聞のルール。
支持率が上がるほど、処刑は不可能になる。
処刑台は舞台へ。
断罪はエンタメへ。
悪役令嬢は、世界をひっくり返す配信者となった。
これは、
処刑されるはずだった悪役令嬢が、
“ライブ配信”で王子と王国を公開処刑する物語。
支持率100%の先に待つのは、復讐か、革命か、
それとも――自由か。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
『イージス艦長、インパール最前線へ。――牟田口廉也に転生した俺は、地獄の餓死作戦を「鉄壁の兵站要塞」に変える』
月神世一
SF
【あらすじ】
「補給がなければ、戦場に立つ資格すらない」
坂上真一(さかがみ しんいち)、50歳。
かつてイージス艦長として鉄壁の防空網を指揮し、現在は海上自衛隊で次世代艦の兵站システムを設計する男。
背中には若き日の過ちである「仁王」の刺青を隠し持ち、北辰一刀流の達人でもある彼は、ある日、勤務中に仮眠をとる。
目が覚めると、そこは湿気と熱気に満ちた1944年のビルマだった。
鏡に映っていたのは、小太りで口髭の男――歴史の教科書で見た、あの「牟田口廉也」。
しかも時期は、日本陸軍史上最悪の汚点とされる「インパール作戦」決行の直前。
部下たちは「必勝の精神論」を叫び、無謀な突撃を今か今かと待っている。
(……ふざけるな。俺に、部下を餓死させろと言うのか?)
現代の知識と、冷徹な計算、そして海自仕込みのロジスティクス能力。
すべてを駆使して、坂上(中身)は歴史への介入を開始する。
精神論を振りかざすふりをして上層部を欺き、現地改修で兵器を強化し、密かに撤退路を整備する。
これは、「史上最も無能な指揮官」の皮を被った「現代の有能な指揮官」が、確定した敗北の運命をねじ伏せ、数万の命を救うために戦う、逆転の戦記ドラマ。
花鳥見聞録
木野もくば
ファンタジー
花の妖精のルイは、メジロのモクの背中に乗って旅をしています。ルイは記憶喪失でした。自分が花の妖精だったことしか思い出せません。失くした記憶を探すため、さまざまな世界を冒険します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる