婚約破棄された令嬢は“図書館勤務”を満喫中

かしおり

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3-4:静かな感情、名前のない時間

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 陽が傾き始める頃。図書館には、しんとした静けさが戻っていた。

 利用者がまばらになる夕刻――この時間帯は、私にとって少し特別な意味を持つようになっていた。

 リュカ・アーデン。図書室の常連となったその青年と過ごす、穏やかな時間。

 名前を何度か呼び合い、いくつかの書物を語り合い、時折、笑い合う。

 それだけのはずなのに、なぜか胸の奥がふわりと温かくなる。

 その温度は、読書の余韻とも違う、けれど確かに心に沁みるぬくもりだった。

「……クラリスさん」

 閉館の少し前、リュカがふと私の名を呼んだ。

「はい?」

 返事をすると、彼は机の上に一冊の本をそっと差し出した。見覚えのない、革張りの装丁。

 光にかざすと、その表紙には小さく、古い文字で題名が刻まれている。

「これは……?」

「個人的に集めていた地方伝承の写本です。アシュベリー周辺のものもいくつか含まれています。興味があれば、どうぞ」

「……ありがとうございます」

 手に取ると、革の手触りがやさしくて、思わず胸の奥がきゅっとなった。

 大切なものを預けてくれるという、その行為が、言葉以上の信頼に思えた。

 写本の中身は、伝承や伝説だけでなく、当時の暮らしぶりや風習まで記された貴重な記録だった。リュカの手によって丁寧に補足や注釈も加えられており、それだけで彼がどれほどこの本に心を注いできたかが伝わってくる。

「クラリスさんが言っていた“沈黙の灯台”――この中にも似たような記述があります。もしよければ、一緒に調べませんか?」

 その提案に、私は小さく頷いた。

 これは“仕事”ではなく、“共有”の提案。

 彼が、私と――「時間を過ごしたい」と思ってくれた証。

 しばしの沈黙のあと、リュカは言った。

「この町に来てから、日々が穏やかで、静かで……でも、退屈ではなくて。不思議と、満ちている気がするんです」

 その言葉に、私はそっと目を伏せた。

 それは、私も同じだった。

 静かな感情。けれど、確かに芽生え始めた何か。

 言葉にはしなくても、名前がついていなくても、そこにあると分かる想い。

「……また、明日も来ますか?」

 私が聞いたその問いに、リュカは少しだけ驚いたように瞬きをし、それから穏やかに笑った。

「もちろんです。読書室の常連ですからね」

 その声には、冗談めいた軽さと、深い確信が混ざっていた。

 笑顔のまま、彼は一礼して、夕暮れの外へと消えていった。

 残された私は、手の中の本をそっと抱きしめる。

 ――明日も来る。それが、こんなに嬉しいなんて。

 静かな、けれど確かな変化。

 それはまるで、図書館の窓辺に咲いた、名も知らぬ小さな花のようだった。

 控えめで目立たないけれど、そこにあるだけで心が和むような、小さな奇跡。
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