定時で帰りたい私と、残業常習犯の美形部長。秘密の夜食がきっかけで、胃袋も心も掴みました

藤森瑠璃香

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第6話:様式美と生姜焼き

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 翌朝、私の出社時の最大のミッションは、「いかに自然に、昨夜の弁当箱を回収するか」だった。
 部長の執務室に直接「返してください」なんて言えるはずもない。かといって、彼がデスクまで返しに来るのも気まずすぎる。もしかしたら、こっそり給湯室の隅にでも置いてあるだろうか……。

 そんな心配をよそに、答えはあっさりと見つかった。
 私のデスクの上。そこに、昨日持ってきた二段式の弁当箱が、ちょこんと置かれていたのだ。
 完璧に洗われ、水滴ひとつなく拭き上げられている。まるで新品のようだ。
 そして、その横には、見慣れないパッケージのハーブティーのティーバッグが一つと、小さなメモが添えられていた。

『余計なことはするなと、言ったはずだ』

 美しい、けれど相変わらず棘のある筆跡。
 私は思わず、ふっと笑ってしまった。言葉とは裏腹の、あまりにも律儀な行動。これが、氷の王子なりのコミュニケーションの取り方なのだろうか。

(……これは、完全に「脈アリ」だ)

 確信した私は、その日から「秘密の夜食作戦」を、より計画的に進めることにした。
 毎日では、さすがの部長も警戒するし、私も疲れてしまう。そこで、週に二回、月曜日と水曜日を「夜食の日」と勝手に制定したのだ。

 そして、作戦決行第二回目となる水曜日がやってきた。
 今回のメニューは、豚の生姜焼きだ。疲労回復効果のあるビタミンB1が豊富な豚肉と、身体を温める生姜の組み合わせは、残業で疲れた身体に最適のはず。白いご飯が進む、鉄板のメニューでもある。

 夜20時過ぎ。前回と全く同じシチュエーション。
 私は、レンジで温め直したお弁当を手に、いそいそと王子の城へと向かった。

「失礼します」
「……また、君か」

 執務室に入ると、月詠部長は心底呆れた、という顔で私を見た。その反応ですら、なんだか少し嬉しいと思ってしまうのだから、私も相当おめでたい。

「はい。また私です。本日の夜食をお持ちしました」
「御厨さん。私は『今回だけだ』と言ったはずだが。君は、日本語が理解できないのか?」
「はい、もちろん理解しております」

 私はにこりと笑って、きっぱりと言い放った。

「なので、これは『今日の分』です。月曜日のとは、別カウントでお願いします」

 私の謎理論に、さすがの月詠部長も一瞬、言葉を失っている。その隙を見逃さず、私はデスクにお弁当を置いた。ふわりと漂う、生姜と醤油の香ばしい匂い。

「……君は、本当に」

 部長はこめかみを押さえ、深いため息をついた。
 その仕草は、もはや様式美だ。私は彼が次に何を言うか、手に取るようにわかっていた。

「……今回だけだからな」

 ほら、やっぱり。
 私は満面の笑みで「ありがとうございます!」と一礼し、自分のデスクへ戻る。
 そして手早く帰り支度をして、オフィスを出た。
 
 一人、執務室に残された月詠怜は、デスクの上に置かれた弁当箱を、しばらくじっと見つめていた。
 やがて、諦めたように蓋を開ける。ほんのりと立ち上る湯気と共に、食欲をそそる匂いが部屋に満ちた。

 中には、照りの良い生姜焼きと、艶のある白米。そして付け合わせに、ほうれん草のおひたしと、昨日と同じふわふわのだし巻き卵。
 怜は、生姜焼きの隣に添えられた、鮮やかな緑色の野菜に目を留めた。
 ピーマンではなく、ブロッコリー。

(……なぜ、私がピーマンが苦手だと知っている)

 偶然か。それとも、この部下は、自分が思うよりずっと鋭い観察眼を持っているのか。
 どちらにせよ、その細やかな心遣いが、氷のように凝り固まっていた怜の心の隅を、ちりりと温めたのは事実だった。

 怜は箸を取り、生姜焼きを一切れ、ご飯と共に口に運ぶ。
 甘辛いタレと、生姜の風味が口いっぱいに広がる。温かいご飯が、疲れた身体にじんわりと染み渡っていく。
 それは、ここ何年も忘れていた、「手作りの食事」の味だった。

 夢中で半分ほど食べたところで、怜はふと我に返り、箸を置いた。
 自分のらしくない行動に、戸惑いを覚える。

「……来週の月曜日は、何なのだろうな」

 無意識に、そんな独り言がこぼれた。
 次の夜食を、期待しているかのような言葉。
 怜は自分の言葉にハッとして、ぶんぶんと小さく首を振った。

「……いや、ない。次はないはずだ。これは、今回だけの、特例なのだから」

 そう自分に言い聞かせながらも、口元がほんの少しだけ緩んでいることに、氷の王子はまだ、気づいていなかった。
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