29 / 44
三章 絡新婦(じょろうぐも)の恋
三章 6
しおりを挟む
「糸織さんは、本当にそれでいいんですか?」
毬瑠子は思わず問いかけていた。
糸織は毬瑠子に視線を向けた。目元が赤く染まっているのはアルコールのせいだけではないだろう。長いまつ毛は湿ってかすかに揺れている。
いいはずがないわ。
その目はそう叫んでいた。
「いつ別れを告げるんだ?」
そう糸織に尋ねたのは蘇芳だ。
「この後よ。お酒の力を借りでもしないと言える気がしないもの。マスター、もう一杯ちょうだい」
「……では軽めにしましょうか」
「いいえ、同じものにして」
糸織は自棄になっているようだ。
「ならさ、優之介ってやつを、今、ここに呼ぼうぜ」
糸織が驚いた表情で蘇芳を見た。
「ここに?」
「俺たちはあんたたちの事情を知っちまったんだ。乗りかかった船ってやつだな、最後まで見届けさせろよ」
「蘇芳、失礼ですよ」
マルセルはいさめたが、
「いいわ」
糸織は承諾した。
「そうこなきゃ」
蘇芳はニヤリと笑う。
「糸織、無理をしなくていいのですよ」
「場所なんてどこでも、することは同じだもの」
マルセルから三杯目のブランデーを受け取ると、糸織は鞄からスマートフォンを取り出した。そして画面を操作していた手が止まる。みるみる切なげな表情になった。通話ボタンが押せないようだ。
「いくわよ、かけるわよ」
糸織は再び眉をつり上げて、自分に言い聞かせるようにして、思い切ったように通話ボタンを押した。スマートフォンからかすかに呼び出しのコール音が漏れ聞こえ、それが途切れた。
「もしもし優之介、あのね……え、なに?」
強張っていた糸織の表情がだんだんと緩んでゆく。
「ああ、あの蛇がまた脱皮に失敗したの……きっと優之介に手伝ってほしいのよ……。その気持ちもわかるわ、あなたの手つきがとても優しいから……」
通常の会話になっていた糸織は、周囲の視線に気づいて咳払いをする。
「そんなことより、大事な話があるのよ。……そう、緊急よ。今すぐに来て。場所は……」
糸織はバーの住所を伝えて通話を切った。
「そういえば、優之介にはあなたたちが見えないんじゃないの?」
糸織はスマートフォンをしまいながら誰にともなく話しかけた。恋人が来るまでの緊張を分散させたいのかもしれない。
「お嬢ちゃんは半妖で、俺とマルセルは人に化けられる。問題ない」
蘇芳が答えた。
「毬瑠子、外に出て優之介を待っていてもらえませんか。人にはこの店は気づきにくいんです」
マルセルに頼まれて毬瑠子は返事をしてカウンターを出た。そういえば、霊感のようなものが強い人間が来店することがあると聞いていたが、いままで一度も人が入ってきたことはなかった。
外に出ると周囲には人通りが少なかった。都会の真ん中ではあるが、二十時をすぎると小さな個人商店は軒並み閉まり、夜空に星が浮かび上がる。薄手の長そでシャツを着ている毬瑠子は、外気がちょうどよかった。
「人とあやかし、か……」
ポツリと呟く。
半妖の毬瑠子はどちらの血も流れている。ひと月ほど前までは、あやかしの存在すら知らなかったのに。
「そういえば……」
毬瑠子の家系は、いわゆる“霊感”が強かったようだ。祖父母は毬瑠子が中学生の頃に亡くなったが、心霊現象のようなものを毛嫌いしていた。恐れるというよりも、嫌悪していたのだ。居もしない霊や妖怪の類によくも本気で憤れるものだと思っていたが、実際に存在するとなると話は別だ。
「あやかしの類に、嫌な目にあったのかな……」
今ならそう思える。詳しく話を聞いておけばよかったと思うが、祖父母はとても厳格で頑固で、毬瑠子はあまり二人が好きではなかったし、そもそも毬瑠子は祖父母に嫌われていた。特に悪いことをした覚えはないのだが。
「あの人かな」
大通りの方角に、スマートフォンに目を落として建物の番地と照らし合わせている様子の男性がいた。長身痩躯でメガネ。糸織の言っていた特徴とも合っている。
毬瑠子は思わず問いかけていた。
糸織は毬瑠子に視線を向けた。目元が赤く染まっているのはアルコールのせいだけではないだろう。長いまつ毛は湿ってかすかに揺れている。
いいはずがないわ。
その目はそう叫んでいた。
「いつ別れを告げるんだ?」
そう糸織に尋ねたのは蘇芳だ。
「この後よ。お酒の力を借りでもしないと言える気がしないもの。マスター、もう一杯ちょうだい」
「……では軽めにしましょうか」
「いいえ、同じものにして」
糸織は自棄になっているようだ。
「ならさ、優之介ってやつを、今、ここに呼ぼうぜ」
糸織が驚いた表情で蘇芳を見た。
「ここに?」
「俺たちはあんたたちの事情を知っちまったんだ。乗りかかった船ってやつだな、最後まで見届けさせろよ」
「蘇芳、失礼ですよ」
マルセルはいさめたが、
「いいわ」
糸織は承諾した。
「そうこなきゃ」
蘇芳はニヤリと笑う。
「糸織、無理をしなくていいのですよ」
「場所なんてどこでも、することは同じだもの」
マルセルから三杯目のブランデーを受け取ると、糸織は鞄からスマートフォンを取り出した。そして画面を操作していた手が止まる。みるみる切なげな表情になった。通話ボタンが押せないようだ。
「いくわよ、かけるわよ」
糸織は再び眉をつり上げて、自分に言い聞かせるようにして、思い切ったように通話ボタンを押した。スマートフォンからかすかに呼び出しのコール音が漏れ聞こえ、それが途切れた。
「もしもし優之介、あのね……え、なに?」
強張っていた糸織の表情がだんだんと緩んでゆく。
「ああ、あの蛇がまた脱皮に失敗したの……きっと優之介に手伝ってほしいのよ……。その気持ちもわかるわ、あなたの手つきがとても優しいから……」
通常の会話になっていた糸織は、周囲の視線に気づいて咳払いをする。
「そんなことより、大事な話があるのよ。……そう、緊急よ。今すぐに来て。場所は……」
糸織はバーの住所を伝えて通話を切った。
「そういえば、優之介にはあなたたちが見えないんじゃないの?」
糸織はスマートフォンをしまいながら誰にともなく話しかけた。恋人が来るまでの緊張を分散させたいのかもしれない。
「お嬢ちゃんは半妖で、俺とマルセルは人に化けられる。問題ない」
蘇芳が答えた。
「毬瑠子、外に出て優之介を待っていてもらえませんか。人にはこの店は気づきにくいんです」
マルセルに頼まれて毬瑠子は返事をしてカウンターを出た。そういえば、霊感のようなものが強い人間が来店することがあると聞いていたが、いままで一度も人が入ってきたことはなかった。
外に出ると周囲には人通りが少なかった。都会の真ん中ではあるが、二十時をすぎると小さな個人商店は軒並み閉まり、夜空に星が浮かび上がる。薄手の長そでシャツを着ている毬瑠子は、外気がちょうどよかった。
「人とあやかし、か……」
ポツリと呟く。
半妖の毬瑠子はどちらの血も流れている。ひと月ほど前までは、あやかしの存在すら知らなかったのに。
「そういえば……」
毬瑠子の家系は、いわゆる“霊感”が強かったようだ。祖父母は毬瑠子が中学生の頃に亡くなったが、心霊現象のようなものを毛嫌いしていた。恐れるというよりも、嫌悪していたのだ。居もしない霊や妖怪の類によくも本気で憤れるものだと思っていたが、実際に存在するとなると話は別だ。
「あやかしの類に、嫌な目にあったのかな……」
今ならそう思える。詳しく話を聞いておけばよかったと思うが、祖父母はとても厳格で頑固で、毬瑠子はあまり二人が好きではなかったし、そもそも毬瑠子は祖父母に嫌われていた。特に悪いことをした覚えはないのだが。
「あの人かな」
大通りの方角に、スマートフォンに目を落として建物の番地と照らし合わせている様子の男性がいた。長身痩躯でメガネ。糸織の言っていた特徴とも合っている。
1
あなたにおすすめの小説
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
辺境伯夫人は領地を紡ぐ
やまだごんた
恋愛
王命によりヴァルデン辺境伯に嫁ぐことになった、前ベルンシュタイン公爵令嬢のマルグリット。
しかし、彼女を待っていたのは60年にも及ぶ戦争で荒廃し、冬を越す薪すら足りない現実だった。
物資も人手も足りない中、マルグリットは領地の立て直しに乗り出す。
戦しか知らなかったと自省する夫と向き合いながら、少しずつ築かれていく夫婦の距離。
これは、1人の女性が領地を紡ぎ、夫と共に未来を作る「内政×溺愛」の物語です。
全50話の予定です
※表紙はイメージです
※アルファポリス先行公開(なろうにも転載予定です)
五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~
放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」
大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。
生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。
しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。
「すまない。私は父としての責任を果たす」
かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。
だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。
これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
可愛らしい人
はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」
「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」
「それにあいつはひとりで生きていけるから」
女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。
けれど、
「エレナ嬢」
「なんでしょうか?」
「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」
その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。
「……いいえ」
当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。
「よければ僕と一緒に行きませんか?」
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる