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じゅん

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三章 絡新婦(じょろうぐも)の恋

三章 9

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「糸織さんは消えていませんよ」
「どこにいるんだ」
 優之介は壁から身を離し、身体ごと毬瑠子に向けた。
「そこから、優之介さんの場所から見える場所です」
 ジョロウグモは硬直したように動きをとめた。そして身を隠そうというのか、急いで動き出す。
「だめです糸織さん、動かないでください。今のあなたを見つけられたら、別れなくてもいいじゃないですか。一方的に言いっぱなしはずるいです。優之介さんにもチャンスをあげてください」
 ジョロウグモは動かなくなった。
「なんの話をしているんだ。どこに糸織がいるというんだ」
「優之介さん、糸織さんを見つけて下さい」
 毬瑠子は祈るように胸の前で手を組んだ。
 これでよかったのだろうか。
 理由を言わずに姿を消そうとしたのは糸織の優しさだ。それを毬瑠子は破ってしまった。
 常識で考えれば、優之介は糸織を見つけられないだろう。もしテーブルにジョロウグモがいることに気づいたとしても、まさか糸織がクモになっているとは思わないに違いない。
 それならば仕方がない。初めの糸織の思惑どおりになるだけだ。
 しかし、小さなジョロウグモを糸織だと見抜けることができたなら、きっと――。
 毬瑠子はそれを願わずにはいられない。
 しばらく天井からフロアの隅々までくまなく視線を走らせた優之介は、小さく息をついた。
「僕は目が悪いから、あまり探し物は得意ではないんだ。いや、落としたコンタクトじゃないんだから、いくら視力が悪くても人を見逃すはずがないか。糸織は透明人間にでもなったのか」
 メガネを外して目頭を押さえた優之介はカウンターに近づいた。
「マスター、水をくれないか。喉が渇いた」
「畏まりました」
 メガネをかけ直すと、優之介はテーブルに視線を落とした。そして、なにかに気づいたように首を傾ける。
「……こんなところにジョロウグモがいる」
 優之介はテーブルに顔を近づけた。
 糸織さんに気づいた。
 毬瑠子は息をのみ、緊張しながら優之介たちを見守った。
「この綺麗な模様は、あの公園で見たクモと同じだ。同じ個体かな。いや、まさか」
 優之介は「おいで」とジョロウグモに手を近づけた。戸惑った様子のクモは、遠慮がちに優之介の長い指先にのった。
 優之介はマルセルから受け取った水を飲みながら、目の前に指先を近づけてジョロウグモを観察する。
「……間違いない、やっぱり同じだ。きみは特徴的だからね」
 メガネの奥の瞳を細めた。
「ジョロウグモの一生はクモのなかでも短命だ。春に孵化して、ほぼ越冬せずに死んでいく。都市の温暖化によって多少寿命が延びたとはいえ、一年以上生きることはない。きみと会ったのは昨年の春だったね」
 つまり、昨年の春に見かけたジョロウグモが、今生きているはずがない。
 優之介は黙ったまま、カウンターの椅子に座った。指先のジョロウグモを凝視している。
「偶然、そっくりなジョロウグモを見つけたと考えるほうが自然だけど……」
 優之介は目の前で指をプラプラとさせる。ジョロウグモはされるがまま上下に揺れた。
 そして優之介はピタリと動きをとめる。
「きみは糸織なのか?」
 ジョロウグモは動かない。
「糸織が僕の店にやってきたのは、昨年の春だった。ちょうどきみと会った数日後だと記憶している」
「兄さん、クモに話しかけるなんて、気は確かか?」
 ひとつあけた隣りの席に座る蘇芳は優之介をからかった。
「さっき、しっかりと握っていたはずの糸織の手が消えて、一瞬で姿が見えなくなった。非常識にもほどがある。だから常識で考えていたら答えにたどり着きそうもない。それに振り返った時、クモの糸が光った気がしたんだ」
 優之介は真剣な表情を崩さない。
「糸織はジョロウグモの化身だったのか。なにかの事情で、もう人の姿になれなくなるから、この世から消えると僕に言ったのか?」
 糸織は身じろぎもせず、答えない。
「怒らないから、声を出せるなら答えてくれないかな。僕はそんなに気の長い方じゃない」
 ジョロウグモはもじもじと足を動かした後、小さく、
「ごめんなさい」
 とつぶやいた。糸織の声だ。
 
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