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本編
04 キスがしたい
しおりを挟むまだ櫻井来夢が、ライバル事務所である千早芸能に居たとき。本郷は彼のことを、ほとんど気にしていなかった。事務所同士バチバチやっていたから、タレントには悪いなと思っていた。事務所同士の争いに巻き込んでしまって、申し訳ないなと。それでも、彼は沢山いる千早芸能のタレントのひとりに過ぎなかった。
櫻井に告白された時も、そうだ。その気持ちが本気だなんて思わなかったし、そうだとしても立場の問題がある。二回目の告白でさえ、本郷は櫻井のことを知ろうともしなかった。全てはリスク回避のために断るだけ。
あの時の声が、今になって胸の奥で蘇る。
『あなたのことが好きなんです』
真っ直ぐで、覚悟のある目だった。
あれを、真に受けようともしなかった自分は、ずるかった。
そして、あんなに簡単に切り捨てたはずの相手に、今自分は、どうしようもなく、囚われている。
相手を視界に捉えただけで、心が乱れるほどに。
昔のことを思い出し、胸がキュッと痛んだ。でも、ここに居る櫻井来夢はもう、敵じゃない。互いのことを知り合った、ひとつ屋根の下で暮らす仲間なのだ。
もう今は、信じていい。甘えていい。
この間は一晩を共にした。キスだけじゃなくて、抱き合い眠る夜まで許してくれたのだ。ならばきっと、今日も──。
わいわいと盛り上がる、Star NovaやLuminousのメンバーたち。そんな中、本郷は缶ビールと共に静かに席を立ち、櫻井の隣へと移動した。
「本郷さん。お疲れ様です」
「あぁ、お疲れ」
持っている缶同士で、軽く乾杯をする。そして、本郷はその残りを一気に煽った。机に缶を置き、意を決して櫻井と向き合う。
「本郷さん? どうしたんですか?」
「あのな……」
ほんの少し身を屈め、逃げ場を残す距離で、そっと顔を覗き込んだ。途端に視線が絡み合う。触れていないのに、もう触れてしまったような錯覚に、喉が鳴る。
「……キス、してもいいか」
振り絞った本郷の言葉に、櫻井は一瞬だけ目を瞬かせ、それから、ひどく穏やかな表情を浮かべた。
「貴方が許してくれるのなら、何度でも」
本郷がそっと目を閉じると、降ってきたのは、驚くほど優しい口付けだった。触れるだけの、確かめるようなキス。角度を変え、間を置き、逃がさないように、何度も繰り返される。
「んっ……はぁ」
唇が離れるたびに、名残惜しそうに息が絡む。
酸素を求めているはずなのに、離れたくないと身体が訴えていた。苦しいのに、怖いほど心地いい。
理性がほどけていく感覚に、指先まで熱が回った。
「俺以外の人とは、もうキスしないでくださいね」
低く、真面目な声音。冗談めかした響きはなく、逃げ道を与えない言葉だった。
「……なん、で」
「俺が、全部受け止めますから」
囁くように告げられたその一言が、胸の奥に深く沈む。
まるで、全てが欲しいと言っているようで──その事実だけで、胸の奥が苦しいほど熱くなった。
「本郷さんがキスしたい時は、いつでも、俺が相手します」
片腕が背中に回り、引き寄せられる。櫻井の香りに包まれ、思考がとろけていく。
腕から伝わる確かな温もりが、独りきりではないのだと強く教えてくれる。その体温だけで、自分の全てが許されていくような安心感があった。
その時、ふと、周囲の喧騒が耳に戻ってきた。
はっとして顔を上げると、Star Novaも、Luminousも、全員がこちらを見ている。
その視線が、本郷に警告を鳴らした気がした。
咄嗟に櫻井の腕から離れ、本郷は何事もなかったように元の席へと戻った。
(危ない。自社のタレントになったとはいえ──いや、なったからこそ、本気はやばいだろ)
一時の心の穴を埋めるだけの、〝酒の勢い〟とは違うのだ。
「んん? 本郷さん、どうしたの」
隣に座る雪乃が、不思議そうに首を傾げる。
「どうしたって……何が」
「そのまま櫻井さんと部屋、戻ると思ったのに」
「ばか。なんでだよ」
「こないだが、そうだったから」
言い返せず、本郷は黙り込んだ。
無意識に口元を指でなぞる。まだそこに、櫻井来夢の感触が残っているような気がして、視線を逸らした。
やがて、各々が自由に部屋へ戻ったり、その場で眠り始めたりと、場は自然に解散していった。
本郷は寝落ちしかけている連中を起こし、散らかった食器を片し始める。
Star Novaのメンバーは「いつものこと」とばかりに礼を言って部屋へ戻っていったが──櫻井来夢だけは、黙って本郷の隣に立ち、食器に手を伸ばしていた。
「片付けは俺がやるからいい。明日も仕事だろ。もう寝ろよ」
「本郷さんだって、仕事でしょう」
「俺は別にぐったりした顔で仕事もできるが、お前らはちゃんと睡眠取らねぇと」
「嘘つき。俺と話したくないだけのくせに」
帰ろうとしない櫻井。Luminousの水島と月城も最初こそ気を遣う素振りを見せていたが、二人の空気を察したのか、何も言わずに部屋へ戻っていった。
気づけば、広い共有スペースに残されたのは、本郷と櫻井の二人だけだった。
「さっきは酔ってただけだ。……悪かった」
「ずるいですよ」
「……自分とこのアイドルに、手出す訳にはいかない」
食器を流しへ運び、黙々と食洗機に並べる。もう一度、帰れと言うつもりで振り返ろうとした、その瞬間だった。
背中に、温もりが触れた。
驚く間もなく、腕が回される。逃げ場を塞ぐように、けれど乱暴ではない力で、本郷の身体を包み込んできた。
「それって、俺のこと好きってことですよね」
「櫻井、何を……」
「気持ちはあるけど、立場があるから無理ってことですよね」
低い声が、耳元に落ちる。吐息がかかる距離に、背筋がぞくりと震えた。
「昔、告白した時……断られたのは、立場の問題だと思ってました。でも、違った」
ぎゅっと、腕に力がこもる。
「俺の気持ち、真に受けてもらえなかったんだって……今なら分かります」
うなじに、そっと触れる気配。それだけで、身体が正直に反応してしまうのが分かって、本郷は歯を食いしばった。
何度も繰り返される口付けに、身体の力が抜けていく。お腹にあった手が、シャツの中へと入り込んできた。
「だめだ、櫻井、やめろ……っ」
「力ずくで抵抗したらどうですか。本当に、嫌なら」
お尻に硬いものが当たっている。櫻井の興奮が伝わってきた。
──本当は、嬉しい。このまま身を委ねたい。しかし、そういうわけにはいかない。
拒めば終わる。
受け入れれば、戻れなくなる。
理性と欲望の狭間で、本郷の心は大きく揺れ動いていた。
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