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本編
03 むかしのはなし(櫻井視点)
しおりを挟むまだ俺が、千早芸能に所属していた頃のことだ。
事務所の人間は、俺たちを丁重に扱っていた。少なくとも、表向きは。
現場ではいつも穏やかな声で話しかけられ、こちらの顔色を窺うような素振りさえ見せる。けれど、意見を求められることはなかった。選択肢を与えられることもない。
断れば「仕事を選ぶな」と言われ、黙っていれば、次の仕事が淡々と決まる。それが、この世界の〝普通〟だった。
疑問を持つことも、声を上げることも、いつの間にか、無駄だと学ばされていた。
「……少し、確認させてください」
低く、落ち着いた声だった。
現場の空気が、ほんのわずかに変わる。
「その演出は、事前の企画書にも、契約書にも記載がありませんよね」
「ああ、でもさ。本番で盛り上がりそうだから――」
「盛り上がるかどうかと、合意があるかどうかは別です」
その男は、Star Novaのマネージャーのようだ。
感情を荒らげるでもなく、淡々と事実だけを積み上げていく。
「こちらとしては、演者の安全と今後の活動に責任があります。ですから──代替案をご用意いただけないのであれば、この演出はお受けできません」
ディレクターが一瞬、言葉に詰まった。
「……君のところは、ずいぶん厳しいね」
「当然です。彼らを預かっているのは、私ですから」
〝預かっている〟……その言葉が、胸の奥に引っかかった。今まで、そんなふうに言われたことはなかったからだ。
彼にとってタレントとは、駒や商品ではなく、任されている存在なのだと、遅れて理解する。
「それに、この企画ですが」
本郷は資料に目を落としたまま続けた。
「特定の人種や立場を揶揄する表現が含まれていますよね。プロデューサーの三木さんは、この点をご存じですか?」
空気が、一段冷えた。
「……そこまで大げさに言わなくても」
「大げさかどうかを判断するのは、現場ではありません。確認のため、三木さんと直接お話ししても?」
そう言って、本郷は静かに席を立った。
暫しの待機時間のあと、問題の演出は見送られることになった。誰も大きな声を出すことなく、穏便に全てが解決した。
俺は理解した。本郷ルカがそこにいる限り、Star Novaは守られているのだと。彼らの間に揺るがない信頼が存在している──その事実だけで、胸が熱くなった。
「えっ。本郷ルカって、俺と三つしか変わんないの」
あまりの衝撃に、俺はつい驚きの声を上げた。同じLuminousのメンバーも、先程の出来事に思うことがあったようだ。
「大人の男って感じだよね。憧れるー」
あの時は、その毅然とした態度に気を取られて、姿をじっくりと見る余裕はなかった。記憶に残っているのは、落ち着いた雰囲気と、言葉遣い。そして、揺るがない大人の余裕。
どれも、自分にはないものばかりだった。
「……三年、か」
三年後、俺はあんな大人になれているだろうか。そう考えた瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
それからは、勉強の毎日だった。まず、言いなりになるのをやめた。説得の仕方を学び、物の言い方を覚えた。
事務所の人間には煙たがられたが、メンバーには褒められ、頼られるようになった。
嫌な仕事を回避できた時は、感謝の言葉を向けられて、素直に嬉しかった。
そして、再びStar Novaとの共演の機会が訪れた。
楽屋へ向かう廊下で、聞き覚えのある声が扉の向こうから漏れてくる。
「だーかーらー、本郷さんに喋らせるからそうなるんだよ! 本郷さんは喋っちゃだめ!」
「ええ、俺、喋れねぇの?」
「猫とかにする? 本郷(猫)」
「わ、いいかも! にゃーとかみゃーしか言えないの、可愛いじゃん」
扉の前で足を止めた。
中から聞こえてくるのは、笑い声と、気の抜けたやり取り。あの時、現場で見た〝仕事のできる大人〟とは、あまりにも違うイメージだ。
「この企画の時、本郷さんは猫ちゃんだから喋っちゃだめ。うん、良い設定かも!」
「賛成」
「浩誠まで? え、俺言いたいこと沢山あんだけど」
「小言とか説教とか細かい話になったりするでしょ?」
「それはお前たちが変なことするからだろ!」
「本郷喋んな、お前は今猫なんだから」
「ええー!? うー……にゃあ」
(……っ!?)
胸が、きゅっと掴まれた。
扉の前で立ち尽くす俺を、メンバーたちが不思議そうに見る。背中を軽く押され、咄嗟に手が動いた。
扉を開けた、その先。
困ったように眉を下げた本郷ルカが、そこにいた。
(……可愛い)
一瞬で、そう思ってしまった。
可愛い。可愛い。可愛い。
理屈じゃない。考えるより先に、胸がときめいていた。
「……っ。あ、あの」
俺の姿を認めると、彼はすぐに立ち上がり、ふわりと柔らかな微笑みを浮かべた。
「お忙しい中、わざわざ足を運んでくださってありがとうございます」
その一言で、部屋の空気が一変する。本郷は少し申し訳なさそうに、けれど誠実な瞳で俺を見つめた。
「本来なら、私たちの方からお伺いしてご挨拶すべきでしたのに……お迎えする形になってしまってすみません」
丁寧だが、壁を感じさせない物腰。彼はそのまま両手で名刺を差し出し、一歩踏み込んできた。
「改めまして。今日はお会いできて、本当に嬉しいです」
差し出された白に指が触れる。ふわりと鼻先を掠めたのは、洗練されたビターシトラスの香り。そして、感じる、本郷の穏やかな熱。
──ああ、もう駄目だ。
その瞬間、俺ははっきりと理解した。
俺は、本郷ルカに、完全に恋をしている。
それから、少し時が経って。
あの日もらった名刺に記された番号を、何度も見つめた末、俺は意を決して、本郷ルカを呼び出した。
「あなたのことが、好きなんです」
一瞬だけ、本郷ルカの表情が止まる。
驚いたように目を瞬かせ、それからすぐに、あの〝大人の顔〟に戻った。
「ありがとうございます。人気アイドルにそんなふうに言われるなんて、光栄ですね」
胸が、ひやりと冷えた。
「……あの、俺と──」
「これからも、同業のタレントとマネージャーとして、良い関係でいられたらと思っています」
丁寧で、優しくて、そして、はっきりとした拒絶だった。
勇気を振り絞って伝えた想いは、受け取られることなく、静かに置き去りにされた。
本郷が背を向け、去っていく。その背中から、目が離せなかった。
「……分かってます。立場的に、無理なのも」
理解している。頭では、ちゃんと分かっている。
それでも。
本気で好きになってしまった気持ちは、そんなふうに簡単には、手放せなかった。
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