婚約破棄のススメ

里見知美

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オリヴィエと異変

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 異変は、数値として現れていた。

 魔素計器の針が、わずかに、だが確実に振れている。

「……やはり上がってる」

 オリヴィエは、窓辺に設置された計器を見つめたまま、淡々と呟いた。公爵領に聳え立つ旧神殿のある森の方角。目視では何も見えない。風も穏やかで、鳥の声すら聞こえる。

 ――それでも。

 魔素は嘘をつかない。魔導具はきっちりその仕事をしている。

 ゆっくりと、だが継続的に上昇している。急激ではない。それに伴い、瘴気量も増えつつある。まだ危険視するほどの量ではないけれど、必ず闇の一族がいる証拠。

「吸血族……最後の1人か」

 背後で、扉がノックされた。

「オリヴィエ」

 聞き慣れた声に、オリヴィエの肩の力が抜ける。

「アーサー。いえ、アーサー殿下。どうなさいました?」

「いつも通りの呼び方で構わないよ、相棒。それより報告を受けたんだが」

 彼は、いつものように穏やかな顔でそう言ったが、その目は鋭い。

「公子ですか」

「ああ。授業中でも気に入らないことがあると声を荒立てて、生徒だろうが教師だろうが暴力を振るうようになったらしい。他にも夜中に叫び声が聞こえたとか、使用人に掴みかかったとか……あと、人を殺めているらしい、とか」

「予想より、早いですね」

「まだ噂の域を出ないけど、以前より話が通じなくなっているようだ」

 口調は淡々としているが、アーサーの声音にはわずかな緊張が滲んでいた。腕を組んだまま、ドアに寄りかかる。扉を閉めるようなことはしない。仮にも正式に婚約者がいるのだ。昔の婚約者の元に入り浸りなどという噂はいただけない。

 オリヴィエは、計器から視線を外し、彼を見る。

「アーサー。ナターリエ様とお話はされましたか」

「……昨日、少し」

「それで?」

 一瞬の沈黙。

「国を背負える、強い信念を持った人だよ」

 オリヴィエは小さく息を吐く。

「彼女が折れなかったのは、幸いでした。もし、彼女が悪感情に呑まれていたら……この国は、今頃もっと不安定になっていたでしょう」

「君が言うと、説得力があるな」

「事実ですから」

 そう答えながら、オリヴィエの脳裏には、ミラという名の“違和感”が浮かぶ。

 学園に入り込んでいる、異物。

 調べても調べても、出てこない。身元も、過去も、家系も、どこかが必ず途切れている。魔力の反応も、人間にしては過敏すぎる。だが、完全な人外とも言い切れない。

 だけど、最近になって彼女も焦っているらしい。遠くから殺意を感じることが多くなった。捕食者の目を向けられている。対象が、私ならそれでいい。

「……狩りの前兆、かしら」

「吸血族?それとも魔人?」

「魔人ほど大胆な行動はとっていませんから、吸血族の可能性が高いです。ミラ嬢が200年前の吸血族の生き残りか、突然変異なのかは、まだわかりませんが……ただの人間でない事は確か。彼女、旧神殿に出入りしているようです。そして瘴気が最も深いのも旧神殿」

 オリヴィエは、机の上に広げた地図を指で叩く。旧神殿。公国の歴史上、最も古い森の中心にあり、公爵邸宅からほど近い。古代歴史書では、勇者と聖女が召喚されたとされる神殿。今は朽ち果て、訪れるものもいないと聞いた。そこにミラが行き来しているとなれば。

「彼女は、エドワード公子を“眷属”にしようとして、魅了を使ったと私は見ています。けれど、それが思いのほかかかりすぎて、精神破綻を起こしてしまったのではないでしょうか。彼が使えない、となって焦りを見せている今、次は、より価値のある獲物を狙うでしょう」

 アーサーが、ふと視線を逸らす。

「……私、か?」

「……いいえ。あなたは魔導具を常に身につけていて、魅了が効かない。それはこの数日でもうわかっている。それに、彼女はかなり慎重に事を進めて来ていたことから、今、帝国の皇子を手玉にとって帝国自体を敵に回すとは思えない。もっと脆弱で、魅了にかかりやすい存在か……あるいは、あなたを自由に使うために、弱みになる人間……」

「じゃあ、オリヴィエ。君か」

「私が魅了にかかりやすい脆弱な人間だと?」

「い、いや、そっちじゃない」

 即答でオリヴィエを名指すアーサーに苦笑する。気がつくように、と一言添える。

「あるいは、ナターリエ様」

「彼女には私がそばにいる」

 即座に答えるアーサーに、沈黙が落ちる。

 ――そうだ。アーサーが守るべき人間はナターリエ様ただ1人。私では、ない。少しだけ、心が軋む。

「……安心しました。ですから、私が動きます」

 オリヴィエはアーサーから視線を外し、地図を見る。

「まだ、相手は自分が優位だと思っています。帝国が動いていることに気づいていない。だから今がチャンスです」

「私はどうすれば?」

「あなたは、ナターリエ様をが安全な場所で守ってください」

 その言葉に、アーサーは微かに笑った。

「わかったよ。面倒なことは君に任せる」

 オリヴィエは、笑って少しだけ目を伏せる。

「……私は、あなたを守る役目を離れました」

「何を。今でも、十分守られているよ」

「そうでしょうか」

 オリヴィエは、窓の外を見る。

 穏やかな学園。何も知らない学生たち。平和な日常。穏やかだった12年という年月を、守られていたのは、どちらだったのか。

 だが、今、闇は蠢いている。その闇を追い続けたのはオリヴィエ。積年の念願を叶えるために、ここまできた。これは、オリヴィエの責任であり、使命。

「アーサー」

「うん」

「もし、私があなたを呼び寄せる“餌”として堕ちた場合」

 彼女は、アーサーの目を見て淡々と続けた。

「躊躇なく、私を切ってください」

 空気が凍る。

 アーサーは、首を横に振った。

「くだらないな。君らしくない弱気な判断だ」

 静かな声だった。

「君が自分を切り捨てる前提で動くなら、私がこの国を救う意味を見失う」

 オリヴィエは、少しだけ驚いたように目を瞬いた。

「計画は単純だ。君はたとえ囮になろうと闇を切り裂き、最後の吸血鬼を叩き潰し、ナターリエ嬢は国の頂点に立ち、私は安全な場所で君に守られながら、その全てを見続ける。そして全ては、あるべき姿を保つ。どうだ、極めて単純だろう」

 オリヴィエは、しばらく彼を見つめてから、吹き出した。

「……了解しました、殿下」

 あなたのいる、その場所を守るために、私は戦いに挑みましょう。
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