婚約破棄のススメ

里見知美

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苛立ち

 ミラは、苛立っていた。

 それは怒りではない。失望でもない。

 ――思った通りに進まない、不快感。

 予定では、もっと簡単なはずだった。

 人間の男一人を籠絡し、欲と恐怖と血で縛り、我が吸血族の眷属にする。あとは勝手に壊れていく人間社会を、闇の底から眺めればいい。家畜として、これほど都合のいい種族はいない。ただ生きるだけの獣とは違い、自ら考え、競い、堕落し、勝手に増えていく。贅沢を覚えた血は、熟れた果実よりも甘い。

「……まったく」

 学園の廊下を歩きながら、小さく舌打ちする。

 ミラは、かつてこの地で栄華を極めた吸血族の最後の一人だった。忌まわしい光の子らが全てを奪い、この地に国を建てるまでは、確かに我らは繁栄していたという。一部の穢れた混血が外界へ散るまでは。

 ミラは生き残った。神殿の奥深くに閉じ込められた母の血肉を喰らい、屈辱を抱えながら、穢らわしい小動物の血を啜って生き延びてきた。この地を取り戻す機会を、200年以上も待ち続けて。

 そして――見つけたのだ。

 エドワード・バッハルト公子。光の子らの末裔。ただし、その面影は片鱗も残さず。驕り高ぶった人間の末裔が見てとれた。

 ――下等な人間だもの。落ちぶれるのも早いんだわ。

 テディ、と相性で呼ぶのは、アタシだけ。ぬいぐるみのように柔らかく、自分で考えることのできない愚かな人間。この公国の長として生まれた男。短絡的で、感情でしか物事を測れず、責任から逃げる、驚くほど扱いやすい男。そうだ、放っておいても人間はこの男のように退化し、自分から滅亡を目指していく。矮小な、恐るるに足らないアタシの食料。

 身体という褒美を与えれば、簡単に理性を捨てた。
 血を与えれば、思考を放棄し、力に酔った。
 囁けば、「真実の愛」などと吐き、盲目的に信じ込んだ。

 ――何度、無防備に晒すその首筋に食らいつこうかと思ったことか。

 吸血族にとって、人間は家畜だ。愛玩することはあっても、対等に見ることはない。脆弱な精神と肉体を持ち、少し知恵をつけると驕り、強者の前では簡単に膝を折る、哀れな種族。

 アタシの力は、まだ弱く、長い間光の下で生きられない。

 だから、計算していた。

 公子が愚行を重ね、婚約を公然と破棄する。
 貴族社会が混乱し、対立が生まれる。
 恨みと屈辱と恐怖が血を呼び、瘴気がアタシを強くする。

 ――そのはずだった。

「……なのに」

 ミラの視線の先で、ナターリエは新たな婚約者を得て、澄ました顔で学園に通っている。帝国の第3皇子が常に背後に立ち、近づくことすらできない。魅了を試みれば弾かれ、視線すら向けられず、虫を見るように追い払われた。

 屈辱が、胸を焼いた。

 人間風情が。この私を。

 囁きは混乱を生んだが、恐怖には至らない。暴動も、流血も起きていない。

 壊れているのは、エドワードテディだけだった。

「どうして……」

 公衆の面前での婚約破棄。ありえない冤罪。十分に毒は撒いたはずだ。大公もすでに堕ち、城は機能を失いつつある。

 それでも。

 ――国は、まだ崩れていない。それどころか。

「おかしいわ」

 人間社会は、もっと脆いはずだった。操れたはずだった。百年以上、そうしてきた。なのに、今回は壊れない。急激に距離を空け、憎しみが、嘆きが、怒りが薄れていく。

 脳裏に浮かぶのは、あの二人。

 銀髪の皇子と、黒髪の女。

 帝国第三皇子、アーサー・サン・フランシス・クレメンテ。
 そして、その婚約者――元婚約者の女、オリヴィエ・キーヴァ。

 彼らは怯えなかった。怒りもしなかった。ただ静かに観察し、見切りをつけ、水面下で処理した。

「……不快。本当に不快だわ」

 吸血族にとって、魅了できない存在は脅威だ。

 血にも、欲にも、恐怖にも動かされない人間など、餌にもならない。いいえ、毒にしかならない。しかも、その背後には――帝国。

 帝国は、恐ろしい。冷酷に秩序で動く。なのに欲で動かない。魅了にも、恐怖にも、反応しない。魅了には理想で返し、恐怖には畏怖で返してくる。

 まるで――捕食者。

 アタシたちと同等の立場。ありえない。

 その事実が、ミラを苛立たせていた。

「なあ、ミラ」

 一方で、エドワードは室内を落ち着きなく歩き回っていた。

「最近、周りの連中が冷たいんだ。俺、何も間違ってないよな?」

 その顔には不安が滲んでいる。だが、彼は理解していない。すでに権力の流れから外されていることを。

 ――無視。

 それが何を意味するのか、考えようともしない。

「俺は真実の愛を選んだんだ!賞賛されるはずなんだ!『素晴らしいよ』『正しいよ』って……なのに、聞こえないんだよ。俺を認める声が、どこにも」

 与えた毒はすでに全身を巡り、精神を壊していく。

 ミラは微笑んだ。

 いつものように、優しく真綿で包むように。

 いつものように、甘く毒を吐きつける。

 何度も、何度でも。繰り返す。

「もちろんよ、テディ。あなたは正しいわ。アタシの真実の愛なんだもの」

 ――《これ》は、もう役に立たない。

 王としては不適格。自分の正義が見えなくて、人の目ばかりを気にしている男。婚約者だった女が賢すぎて、劣等感が膨れ上がり、自尊心ばかりを育てた愚か者。光が翳り、瘴気が精神を曇らせる。

「……次を考えなくちゃ」

 呟きは、彼に向けられていない。

 帝国が動いた以上、計画は慎重にいかなければ。

 もっと血を。もっと深い絶望を。

 エドワード一人では足りない。

 ならば――あの女。オリヴィエ・キーヴァにしよう。帝国の皇子はあの女に執着している。いわば弱み。を手に入れれば、あの王子の歪んだ顔が目に浮かぶ。絶望と怒り。アタシが最も愛する感情。

「ふふっ……見ものだわ」

 ミラは確信していた。

 人間は、すぐに滅びる。秩序も、信義も、契約も100年という時すら維持できない脆い精神。200年の間に、血は薄れ、代は流れ、法も秩序も変化した。何度も人間同士で殺し合い、国を造り、そして滅び、また知らぬ間に湧いて出てくる、アタシの大切な糧。

 最後に血を流すのは、いつだって人間同士だ。

「……焦る必要はないわ」

 200年生き延びた。あと数年など、誤差にすぎない。

 ミラは静かに笑った。

 自分がすでに“詰み”の盤上にいることにまだ気づかない男を、愛おしげに眺めながら。
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