婚約破棄のススメ

里見知美

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旧神殿の悲劇

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 帝国から先駆けの馬が宮廷に到着した頃、アーサーは緊急の報告を受けていた。

「あと半刻ほどで、シルヴァン第2皇子殿下率いるクレメンテ帝国軍第3部隊が到着します。つきましては——」

「——大公が、死んだ」

 使者の口上を遮るように、アーサーが言う。周囲の大臣たちは目を丸くし、しばし言葉を失った。

「は……?」

「……オリヴィエが危ない。兄上には緊急の用事ができたと謝っておいてくれ!お叱りは後で受けるから!」

「アーサー様!?」

 ナターリエが慌てて声をかけるが、アーサーは振り返らず走り出した。

「大公が、エドワードに撲殺された!かなり取り乱していて、理性のかけらもない。オリヴィエが現場にいた――通信が入ったばかりだ。私はオリヴィエの元へ行く!」

「オリヴィエ様が……」

 周囲は騒然となった。大公の死は権力の不安定化を意味する。しかも加害者は次期大公であるエドワード。帝国との条約や承認も揺らぐ事態だった。

 いち早く気を取り直したナターリエは状況を判断する。

「皆様。ここは落ち着いて対応しなければなりません。騎士達を公爵邸へ、状況確認を願います。それからこの事は口外無用とします。宰相様、緊急箝口令を出してください。大臣の皆様方は、帝国の使者様をお連れして、落ち着いて第2皇子殿下の到着を待ちましょう」

 アーサーがいない今、自分が立つしかない。ここで動揺しているようでは、国を動かすことなどことなど出来はしない。帝国を怒らせる方が、大公の死よりも怖いのだ。

 ナターリエは覚悟を決め、ぐっと顎を引いた。





 ——その頃、オリヴィエはエドワードを追って、公爵邸から旧神殿へと向かっていた。かなり取り乱して駆け抜けていってくれたおかげで、道筋ができている。石畳は苔むし、ほとんど使われていないようだ。いかに秘密裏に隠れていたかが窺える。というものだ。

 森は奥まるにつれ、色濃く影を落としていく。影のように森を抜け、荒廃した神殿の入り口に足を踏み入れると、ひんやりした空気とカビの匂いが漂う中、オリヴィエは魔導具を手に魔素の濃度を測った。高い。魔獣が湧き出してもおかしくないほどの魔素の濃さだ。それに視認できるほど瘴気が強い。

 間違いなく、危険な存在――ミラが潜んでいる。

 耳を澄ます必要もなく、辺りにエドワードの咆哮が響いた。コウモリたちが驚いて地下の入り口から湧き出してきた。

 ——まるで魔獣のようだ、とオリヴィエは気を引き締める。彼は、もうすでに人間ではないのかもしれない。ミラによって、吸血族にされた可能性もある。いや、彼は腐っても剣聖の子孫。よほどのことがない限り、闇に染まる事はないはず。

 とはいえ、簡単に魅了され、理性を失った男である。自信はない。もしかしたらどこかで途切れた家系の可能性も。

「勇者の剣よ。闇を切り裂き、我を守りたまえ」

 オリヴィエが持つ短剣は、祖先である勇者が託したものだ。勇者と聖女の意志を引き継ぐ者。それがオリヴィエだった。闇の種族が人々を脅威に晒した時。その剣を持って生まれ出づるものこそ、勇者である証。闇を裂き光の子らを守るべし。それがオリヴィエに課せられた使命だった。

 そのために、オリヴィエは鍛錬を繰り返し、常に意識を闇へと向けていた。帝国の権力を利用したのも、アーサーの婚約者になったのも、全てはこのために。


 地下へと続く階段を慎重に降りると、錆びた鉄の匂いがした。壁に飛び散った黒い染みは、血の跡だろうか。動物も人間も、すべての血を吸い尽くされた様に、カラカラに乾涸びた姿で横たわっていた。

 ポタリ、ポタリ、と水音がする。鼻をつく強烈な匂いと共に、それが水ではないことを物語っていた。

 そしてその奥で、エドワードが呆然とその先を見つめていた。視線の先には、ミラ――吸血鬼が幼い子供の首に牙を立て、血を啜る姿があった。

「……ミ、ミラァ……っお、俺の真実の、おま、お前が、う、ウワァアあぁぁああっ!!」

 エドワードの声はもはや言葉ではなく、悲鳴と怒号の混ざった音だった。人々に認められず、父を嬲り殺し、そして、真実の愛と豪語した女の実態が吸血族。目の前でエドワードを睨みつけながらも、力無く横たわる子供の首筋から口を離そうとしないミラ。ジュウ、と強く吸い込み、搾り取るように血を飲み込む。

 エドワードの理性はとうに吹き飛び、泣き崩れ、怒りに震えながら叫ぶ。

「ああ、ようやく来てくれたの。アタシのテディ」

 手の甲で、口元を拭い、妖艶に微笑んだミラ。怪しげな瞳が紫色に染まった。

「孤児の痩せた体だけじゃ、満足できないわ。あなたってば、全然役に立たないんだもの。アタシの計画は狂いっぱなし。国は荒れないし、大公妃にもなれない。あなたのお父様は何もかもが不味そうで食欲は無くなっちゃうし。もっと眷属を増やしたかったのに、ここの連中ときたら、みんな脆弱な人間ばかり。……それに、なあに?うるさい小蝿も連れてきちゃうなんて。ほんっと、役立たずの、グズね」

「グ、あ、ああ………き、貴様、俺、オデ、を、グロウ、グド……っ」

 怒りのあまり、ブルリと体を揺らしたエドワードは両手両足を使って床を蹴り、ミラに飛びかかった。その姿は魔獣そのものだった。

「でも、最後に餌にはしてあげる。いらっしゃい」

エドワードの巨体が小柄なミラに襲い掛かるが、その体はぬいぐるみのように、いとも簡単に振り払われた。薙ぎ払って転がるエドワードの首を片手で掴み、晒し出した首筋に徐に噛みついた。

「ぐアッ………っっ!!??」

鮮血が舞う。しかしすぐ様、それはミラの口の中へと吸い込まれていく。

「ああ、美味しい……っ!これが、光の子の味なのね?んん、なんて甘美なのかしら。うふ、うふふ。もっと早くにこうしておけばよかったわ!!そこの、小蝿ちゃん!あんたは次よ。大人しく待っていなさいな」

 ごくりと喉を鳴らしながら血を含み、ミラの視線はオリヴィエに向かっていた。

 ここで逃げるという考えはない。オリヴィエは短剣を握り、ミラの前に躍り出た。

 

 同時刻。

 アーサーは必死に駆けながら冷静さを失っていた。旧神殿に向かうには、公爵邸を通過しなければならず、何も知らない門番たちは狼狽え、アーサーを止めようとする。

「緊急事態だ!そこを退け!」

 そうはいっても、門番たちも訳もわからず通すわけにはいかない。公爵邸で何やら騒ぎになっているようだが、外門までは、まだ情報が入ってきていないのだ。

「邪魔をすれば切る!そこを退け!オリヴィエの危機なんだ!」

 オリヴィエの危機。そう、冷静でいられるわけがないのだ。

 早く。早くいかなければ。

「そういえば2時間ほど前にオリヴィエ・キーヴァ伯が訪れてきていたな」と門番の1人が呟き、公爵邸の騒ぎと何か関係があるのだろうか、と訝しむ。

「おい、わかっているのか!私を通さねば、帝国軍が攻めてくるぞ!それでもいいのか!」

 殺気立つ顔でそのようなことを言われれば、門番たちは狼狽た。なにしろ帝国の皇子殿下だ。緊急の用らしいし、通さなければ後でお咎めを食らう可能性もある。脅しではない、と感じ取った2人の門番は恐る恐るアーサーに道を開けた。

「恩にきる!」

 こうして、アーサーに切り刻まれることなく、門番たちは生き延びたのだが、その後で大公が惨殺されたと聞いて、紙のように顔色を白くした事は言うまでもない。


「頼む、オリヴィエ……!1人で危険な事はしないでくれよ…っ」

 焦るアーサーの言葉は、森の中へ吸い込まれていった。

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