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13 黒屍人討伐
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第五話 黒屍人討伐
城下へ踏み入れた瞬間、街道の空気が変わった。
灰はここでは「降っている」のではなく、すでに地と家と人の上に“積もりきって”いた。
踏みしめるたび、靴裏が重く沈み、乾いた粉がふわりと舞い上がる。
夏のはずの湿り気も匂いも、すべて灰に塗り潰され、ただ焦げと腐臭だけが鼻に刺さった。
通りの両脇に立ち並んでいた家々は、屋根の半分を失い、柱だけが歪に残っている。
障子は破れ、土壁は崩れ、あたりは“町”というより、巨大な瓦礫の墓場だった。
ふと見れば、灰の下から腕が突き出している。
あるいは顔だけが覗き、目を閉じたまま動かない――いや、動かぬはずのものが、ゆっくりと、ぎこちなく起き上がろうとしている。
黒屍人(くろしびと)
一行がここへ来る途中、村人たちが口々にそう呼んでいたものだ。
噴火と灰のあと、死んだはずの人間が灰の中から起き上がり、虚ろな眼のまま生者へ噛みつく。
なぜそうなるのか、理由は誰にもわからない。
斬っても倒れず、血も痛みもなく、ただ飢えた獣のように群れで迫る。
“生き返った死体”が街を這い回るこの異様な地獄を、村人は震えながらそう説明していた。
黒屍人の数は、街道の先まで途切れない。
よろめきながら、だが確実に、湿った唸り声を漏らし、群れで押し寄せてくる。
佐野政親の一行は、その海のような黒の波に呑まれていた。
馬の腹まで黒い手が伸び、足を掴む。
刀を抜いた家臣が一人、二人と刃を振るうが、手応えはあるのに倒れない。
斬られた体はぐにゃりと崩れ、泥のように裂け、だが次の瞬間にはまた形を結び、虚ろな目でじりじりと迫ってくる。
悲鳴があがった。
黒屍人に馬から引きずり落とされた家臣が、腰のあたりへ噛みつかれ、灰の上に押し倒される。
助けに入ろうとした者が、背中を別の黒屍人に掴まれ、腕に食いつかれる。
噛まれた者の声は、短く潰れた。
やがて一人が膝から崩れた。
喉元を裂かれた血が灰を濡らし、しばし痙攣したのち、身体が黒ずみ、崩れる。
風が吹いた。
その肉は灰へ変わり、さらさらと宙に散って、地に落ちた。
「ひ、ひるむな! 構え直せ!」
家臣の一人が声を張り上げた。
だが、その声は自分の耳にも頼りなく、震えているのがわかる。
誰もが、斬っても斬っても減らない“死者の群れ”に、戦の理が通じないことを悟りかけていた。
そんな渦の中心で、佐野政親(さの まさちか)だけが異様に静かだった。
馬上の佐野は、灰の空を背に、ゆっくりと扇を閉じる。
家臣たちの狼狽も、噛み殺される悲鳴も、どこか遠い出来事のように見下ろしている。
「……愚かな。狼狽えるな」
冷ややかな声音が、返り血と灰にまみれた家臣たちの耳を刺す。
その言葉に励まされるより先に、背筋が冷える者さえいた。
佐野は“恐れていない”。
それが、何より不気味だった。
そして、佐野の横でただ一人、別の意味で世界の理から外れた男がいた。
隻眼にして巨躯、背に黒鉄の鉞を担ぐ怪物――荒谷武蔵。
鉞の刃に埋め込まれた赤黒い珠が、獣の心臓のように脈を打つ。
「ふん、やっと俺の出番か」
武蔵の口角が吊り上がる。
黒屍人の群れの中には、かつて武士であった者も混じっていた。
甲冑の名残を纏い、朽ちた刀を握り、無機質な目で味方だったはずの者へ斬りかかる。
家臣の一人が応戦し、胸を深々と裂いた。
だが相手は痛みも恐怖も知らず、裂けた胸をだらりと揺らしたまま、黙って突進してくる。
「おのれ……!」
家臣の刃が肩を削ぐ。
腕を斬る。
脚を斬る。
それでも黒屍人は倒れない。
ただ、倒れるべき理由を知らぬもののように、歩き続ける。
混乱の渦中、武蔵が一歩前へ出た。
足が灰を踏むたび、地面が沈み、圧が伝わる。
黒屍人が本能で距離を取ろうとした――のに、遅い。
「どけ。チンケな刃じゃ止まらん!」
黒鉄の鉞が、空を裂いた。
振り下ろされた一撃が地面を叩く瞬間、石畳が爆ぜる。
轟音。
衝撃波が灰を吹き上げ、周囲の黒屍人がまとめて砕け散った。
三体が、いや五体か。
肉が潰れ、骨が砕け、黒い泥へ崩れ――次の瞬間、灰となって消えた。
通りに一瞬、空白ができる。
武蔵の周囲だけ、風穴のように黒屍人が引き千切られた。
だがその直後、侍姿の黒屍人が横から滑り込むように迫り、武蔵の肩口へ刀を突き立てた。
肉が裂け、血がぱっと噴き上がる。
刃は深く入ったはずなのに、その黒屍人は次の瞬間、鉞の柄で叩き潰され、灰に戻った。
武蔵は振り向きもしない。
ただ笑う。
そして腰の袋を乱暴に引きちぎるように掴み、酒を喉へ流し込んだ。
ごきり、ごきり……。
砕けていた骨が音を立てて繋がり、裂けた肩口が盛り上がっていく。
血は止まり、肉は不気味な速さで厚みを取り戻す。
家臣たちが目を逸らす。
同じ人間の肉が、あんなふうに“戻る”はずがない。
「がははははっ! もっと来い!」
獣のような咆哮が灰の空に響き、鉞が振るわれるたび、黒屍人の群れは灰となって散っていく。
館林の闇は、豪鬼の笑い声に震え、
その笑い声の奥で、佐野政親の瞳だけが冷たく光っていた。
十数体の黒屍人は、荒谷武蔵の黒鉄の鉞によって粉々に叩き壊された。
肉も骨も灰へと変わり、館林の街路には不気味な静けさだけが残った。
「ふん、拍子抜けだな」
武蔵は鉞を肩に担ぎ、吐き捨てるように笑った。
返り血に濡れたはずの肩口は、先ほど飲み干した酒のせいか、もう塞がっていた。
馬上の佐野政親は満足げに目を細めた。
「ご苦労であった、武蔵。おかげで道が開けた」
武蔵は答えず、ただ豪快に笑って歩みを進める。
家臣たちは互いに顔を見合わせながら、その背に怯えつつ従った。
出立の時は十名いた家臣は、今や六名に減っていた。
屍人に噛み殺され、灰と化した者の姿はもうない。
残された者もまた、蒼白な顔で震え、腰の刀を汗に濡らした手で必死に握っていた。
佐野はそんな彼らに一瞥をくれただけで、涼しい顔のまま扇を閉じた。
「……参るぞ。お菊様を探せ」
怯えながらも従う六人の家臣と、豪鬼のごとき武蔵。
館林の地獄に進む一行は、闇を引き裂く影の軍勢のようであった。
第六話 お菊の奮闘
館林城下は、すでに地獄と化していた。
灰は空から降り続け、昼であるのに陽は見えない。
町全体が薄闇に沈み、視界の端には常に灰の粒が舞っている。
焼け焦げた匂いと、生身の血の匂いが混じり、鼻の奥にねっとりと残った。
通りのあちこちで家屋が半ば崩れ、傾いた梁の隙間や割れた土壁の下から、黒い影がずるり、ずるりと這い出してくる。
それは人の形をしていながら、人の気配を持たなかった。
目は濁り、口は開いたまま。
唸りとも吐息ともつかぬ湿った音を洩らし、ただ生きている者へ向かって歩いてくる。
悲鳴が絶えない。
泣き叫ぶ子供の声。
女の喉が裂けるような叫び。
助けを求めて駆けた男が足を取られ、黒屍人に押し倒され、噛みつかれ――その体が、ほどなく黒く変色し、灰のように崩れていく。
崩れた灰は風にさらわれ、通りに薄い黒煙の筋を引いた。
町は灰と血で塗り潰されていた。
道の脇には倒れた者が折り重なり、まだ動く体もあれば、すでに崩れかけている体もある。
生と死の境が、ここでは意味を失っていた。
その混乱のただ中に、ひとり踏みとどまる女がいた。
白い小袖は煤と灰で汚れ、裾は何度も地を引きずって裂けている。
頬には涙と汗が筋をつくり、息は荒い。
それでも瞳だけは、折れた火のように揺らがなかった。
松平定信の妹、館林藩主奥方――お菊である。
「こちらへ! 川の方へ逃げなされ! 急げ!」
お菊は声が枯れるのも構わず叫び続けた。
震える老人の腕を引き、泣きじゃくる子を抱き上げ、動けない者の背に手を回して立たせる。
彼女の背中を追って人々が走り、転び、また起き、必死に逃げ惑う。
黒屍人の影が近づくたびに、お菊は懐から数珠を握り、胸の前で強く結んだ。
祈る暇などない。
だが彼女は、祈らねばならない血を持っていた。
「退け……退けぇっ!」
吐き出すような祈祷の声が、灰の闇に鋭く響く。
数珠の珠が朱にきらめき、脈打つように光を散らした。
その光に触れた黒屍人は、一瞬だけ足を止め、首を傾ける。
まるで熱を恐れる獣のように、動きが鈍る。
「今です、早く!」
お菊がそう促すと、人々はその隙を縫うように駆け抜けた。
彼女の祈りは盾ではない。
ほんの一息、命を繋ぐ隙をつくるだけのものだと、彼女自身が誰より知っていた。
お菊に武の力はない。
刀を振るうことも、敵を斬ることもできない。
黒屍人が本気で襲いかかれば、祈りだけでは防ぎきれぬ。
それでも――彼女は引かなかった。
背後にいるのは民だ。
逃げ惑い、足を縺らせ、怯えて立ち尽くす者たちだ。
奥方として、巫女として、ここで退けば、彼らの最後の灯が消える。
「かまわぬ……我が身はどうなろうとも……せめて、この者たちを!」
叫びは、祈りというより決意に近かった。
その声に応えるように、近くの寺の鐘楼が崩れ落ち、鈍い轟音が町に響いた。
舞い上がった灰煙が渦を巻き、視界が一瞬奪われる。
次の瞬間――灰の向こうから、黒屍人の群れが再び姿を現した。
先ほどよりも数が多い。
じりじりと距離を詰め、唸り声が低く重なっていく。
お菊は数珠を握り直し、息を整えた。
震えそうな腕に力を込め、真っ直ぐ前を見据える。
祈りは届くのか。
それとも、この城下すべてが灰に呑まれるのか。
答えはまだ、灰の闇の中にあった。
館林城の奥では、なおも混乱が渦を巻いていた。
広間から奥へ奥へと逃げ込む足音が重なり、襖は乱暴に開け放たれ、侍女の悲鳴が廊下に散る。
その中心で、藩主は蒼白な顔のままよろめき、まるで追い立てられる獣のように彷徨っていた。
「も、もう駄目だ……! 化け物どもが町を埋め尽くしておる!
誰か、誰か助けよ!」
叫びながら、彼は腰元を突き飛ばし、行く手を塞ぐ家臣の肩を乱暴に押しのける。
着衣は乱れ、髷はほどけ、額には脂汗が滲んでいた。
そこにあるのは主君の威厳ではなく、ただ“恐怖に飲まれた一人の男”の姿にすぎなかった。
重臣の一人が、必死に前へ出る。
膝をつき、言葉を選びながら声を張った。
「殿、どうか落ち着かれませ。
民は……城下の民は、いかがなされまする!」
だが藩主は、その言葉に応えるどころか、顔を歪めて叫び返した。
「知るものか! わしの命が惜しいのだ!
早く馬を引け! 城を捨てても構わん、わしをここから出せ!」
ひび割れた声が広間に響き、その瞬間、場にいた者たちの胸の奥に、ひやりと冷たい絶望が沈んだ。
誰もが悟ったのだ。
この城には、もはや主と呼べる者がいない、と。
家臣たちは顔を強ばらせたまま立ち尽くし、侍女たちは唇を噛み、涙を堪える。
その沈黙の重さだけが、崩れかけた城の奥に残った。
――一方その頃、城下では。
灰と瓦礫に塗れた通りを、お菊が走っていた。
小袖の裾は裂け、白かった生地は煤と血で黒ずんでいる。
それでも彼女は足を止めない。
倒れた者に肩を貸し、泣き叫ぶ子を抱き、
動けぬ老婆の背に腕を回して立たせると、すぐに前へ押し出した。
「怯まず、急ぎなされ!」
声は枯れ、喉は焼けるように痛むはずなのに、それでも彼女の叫びは途切れなかった。
黒屍人が横道から這い出すたび、彼女は身を翻し、民の前へ立つ。
数珠を握りしめ、震える息で祈りを放つ。
「退け……退くのです!」
朱のきらめきが闇に走り、黒屍人がほんの一瞬だけたじろぐ。
その刹那に、民が雪崩のように逃げていく。
小柄な体のどこに、これほどの胆力が宿っているのか。
民の目は、いつしか“城の奥の殿”ではなく、瓦礫の中で踏みとどまり続けるこの奥方へと集まっていた。
「お菊様……!」
「奥方様がいてくださる……!」
「お菊様のおかげで……!」
涙と灰にまみれた声が、次々と彼女の背中へ投げられる。
藩主を信じ切れぬ者たちが、知らぬ間に、お菊を“生きるための柱”として追い始めていたのだ。
城の奥では、守るべきものを捨てた主君が逃げ惑う。
城下では、武も持たぬ奥方が民の盾となって立ち続ける。
その対比はあまりに残酷で、
そして、この地の行く末を静かに決定づけていくようでもあった。
必要なら次はこの流れを受けて、**「佐野がなぜ黒屍人の海を“進軍”できたのか」と、「お菊の数珠(珠)が“反応”している理由」**を、説明しすぎずに“匂わせ”で繋げる形に整えていけます。
城下へ踏み入れた瞬間、街道の空気が変わった。
灰はここでは「降っている」のではなく、すでに地と家と人の上に“積もりきって”いた。
踏みしめるたび、靴裏が重く沈み、乾いた粉がふわりと舞い上がる。
夏のはずの湿り気も匂いも、すべて灰に塗り潰され、ただ焦げと腐臭だけが鼻に刺さった。
通りの両脇に立ち並んでいた家々は、屋根の半分を失い、柱だけが歪に残っている。
障子は破れ、土壁は崩れ、あたりは“町”というより、巨大な瓦礫の墓場だった。
ふと見れば、灰の下から腕が突き出している。
あるいは顔だけが覗き、目を閉じたまま動かない――いや、動かぬはずのものが、ゆっくりと、ぎこちなく起き上がろうとしている。
黒屍人(くろしびと)
一行がここへ来る途中、村人たちが口々にそう呼んでいたものだ。
噴火と灰のあと、死んだはずの人間が灰の中から起き上がり、虚ろな眼のまま生者へ噛みつく。
なぜそうなるのか、理由は誰にもわからない。
斬っても倒れず、血も痛みもなく、ただ飢えた獣のように群れで迫る。
“生き返った死体”が街を這い回るこの異様な地獄を、村人は震えながらそう説明していた。
黒屍人の数は、街道の先まで途切れない。
よろめきながら、だが確実に、湿った唸り声を漏らし、群れで押し寄せてくる。
佐野政親の一行は、その海のような黒の波に呑まれていた。
馬の腹まで黒い手が伸び、足を掴む。
刀を抜いた家臣が一人、二人と刃を振るうが、手応えはあるのに倒れない。
斬られた体はぐにゃりと崩れ、泥のように裂け、だが次の瞬間にはまた形を結び、虚ろな目でじりじりと迫ってくる。
悲鳴があがった。
黒屍人に馬から引きずり落とされた家臣が、腰のあたりへ噛みつかれ、灰の上に押し倒される。
助けに入ろうとした者が、背中を別の黒屍人に掴まれ、腕に食いつかれる。
噛まれた者の声は、短く潰れた。
やがて一人が膝から崩れた。
喉元を裂かれた血が灰を濡らし、しばし痙攣したのち、身体が黒ずみ、崩れる。
風が吹いた。
その肉は灰へ変わり、さらさらと宙に散って、地に落ちた。
「ひ、ひるむな! 構え直せ!」
家臣の一人が声を張り上げた。
だが、その声は自分の耳にも頼りなく、震えているのがわかる。
誰もが、斬っても斬っても減らない“死者の群れ”に、戦の理が通じないことを悟りかけていた。
そんな渦の中心で、佐野政親(さの まさちか)だけが異様に静かだった。
馬上の佐野は、灰の空を背に、ゆっくりと扇を閉じる。
家臣たちの狼狽も、噛み殺される悲鳴も、どこか遠い出来事のように見下ろしている。
「……愚かな。狼狽えるな」
冷ややかな声音が、返り血と灰にまみれた家臣たちの耳を刺す。
その言葉に励まされるより先に、背筋が冷える者さえいた。
佐野は“恐れていない”。
それが、何より不気味だった。
そして、佐野の横でただ一人、別の意味で世界の理から外れた男がいた。
隻眼にして巨躯、背に黒鉄の鉞を担ぐ怪物――荒谷武蔵。
鉞の刃に埋め込まれた赤黒い珠が、獣の心臓のように脈を打つ。
「ふん、やっと俺の出番か」
武蔵の口角が吊り上がる。
黒屍人の群れの中には、かつて武士であった者も混じっていた。
甲冑の名残を纏い、朽ちた刀を握り、無機質な目で味方だったはずの者へ斬りかかる。
家臣の一人が応戦し、胸を深々と裂いた。
だが相手は痛みも恐怖も知らず、裂けた胸をだらりと揺らしたまま、黙って突進してくる。
「おのれ……!」
家臣の刃が肩を削ぐ。
腕を斬る。
脚を斬る。
それでも黒屍人は倒れない。
ただ、倒れるべき理由を知らぬもののように、歩き続ける。
混乱の渦中、武蔵が一歩前へ出た。
足が灰を踏むたび、地面が沈み、圧が伝わる。
黒屍人が本能で距離を取ろうとした――のに、遅い。
「どけ。チンケな刃じゃ止まらん!」
黒鉄の鉞が、空を裂いた。
振り下ろされた一撃が地面を叩く瞬間、石畳が爆ぜる。
轟音。
衝撃波が灰を吹き上げ、周囲の黒屍人がまとめて砕け散った。
三体が、いや五体か。
肉が潰れ、骨が砕け、黒い泥へ崩れ――次の瞬間、灰となって消えた。
通りに一瞬、空白ができる。
武蔵の周囲だけ、風穴のように黒屍人が引き千切られた。
だがその直後、侍姿の黒屍人が横から滑り込むように迫り、武蔵の肩口へ刀を突き立てた。
肉が裂け、血がぱっと噴き上がる。
刃は深く入ったはずなのに、その黒屍人は次の瞬間、鉞の柄で叩き潰され、灰に戻った。
武蔵は振り向きもしない。
ただ笑う。
そして腰の袋を乱暴に引きちぎるように掴み、酒を喉へ流し込んだ。
ごきり、ごきり……。
砕けていた骨が音を立てて繋がり、裂けた肩口が盛り上がっていく。
血は止まり、肉は不気味な速さで厚みを取り戻す。
家臣たちが目を逸らす。
同じ人間の肉が、あんなふうに“戻る”はずがない。
「がははははっ! もっと来い!」
獣のような咆哮が灰の空に響き、鉞が振るわれるたび、黒屍人の群れは灰となって散っていく。
館林の闇は、豪鬼の笑い声に震え、
その笑い声の奥で、佐野政親の瞳だけが冷たく光っていた。
十数体の黒屍人は、荒谷武蔵の黒鉄の鉞によって粉々に叩き壊された。
肉も骨も灰へと変わり、館林の街路には不気味な静けさだけが残った。
「ふん、拍子抜けだな」
武蔵は鉞を肩に担ぎ、吐き捨てるように笑った。
返り血に濡れたはずの肩口は、先ほど飲み干した酒のせいか、もう塞がっていた。
馬上の佐野政親は満足げに目を細めた。
「ご苦労であった、武蔵。おかげで道が開けた」
武蔵は答えず、ただ豪快に笑って歩みを進める。
家臣たちは互いに顔を見合わせながら、その背に怯えつつ従った。
出立の時は十名いた家臣は、今や六名に減っていた。
屍人に噛み殺され、灰と化した者の姿はもうない。
残された者もまた、蒼白な顔で震え、腰の刀を汗に濡らした手で必死に握っていた。
佐野はそんな彼らに一瞥をくれただけで、涼しい顔のまま扇を閉じた。
「……参るぞ。お菊様を探せ」
怯えながらも従う六人の家臣と、豪鬼のごとき武蔵。
館林の地獄に進む一行は、闇を引き裂く影の軍勢のようであった。
第六話 お菊の奮闘
館林城下は、すでに地獄と化していた。
灰は空から降り続け、昼であるのに陽は見えない。
町全体が薄闇に沈み、視界の端には常に灰の粒が舞っている。
焼け焦げた匂いと、生身の血の匂いが混じり、鼻の奥にねっとりと残った。
通りのあちこちで家屋が半ば崩れ、傾いた梁の隙間や割れた土壁の下から、黒い影がずるり、ずるりと這い出してくる。
それは人の形をしていながら、人の気配を持たなかった。
目は濁り、口は開いたまま。
唸りとも吐息ともつかぬ湿った音を洩らし、ただ生きている者へ向かって歩いてくる。
悲鳴が絶えない。
泣き叫ぶ子供の声。
女の喉が裂けるような叫び。
助けを求めて駆けた男が足を取られ、黒屍人に押し倒され、噛みつかれ――その体が、ほどなく黒く変色し、灰のように崩れていく。
崩れた灰は風にさらわれ、通りに薄い黒煙の筋を引いた。
町は灰と血で塗り潰されていた。
道の脇には倒れた者が折り重なり、まだ動く体もあれば、すでに崩れかけている体もある。
生と死の境が、ここでは意味を失っていた。
その混乱のただ中に、ひとり踏みとどまる女がいた。
白い小袖は煤と灰で汚れ、裾は何度も地を引きずって裂けている。
頬には涙と汗が筋をつくり、息は荒い。
それでも瞳だけは、折れた火のように揺らがなかった。
松平定信の妹、館林藩主奥方――お菊である。
「こちらへ! 川の方へ逃げなされ! 急げ!」
お菊は声が枯れるのも構わず叫び続けた。
震える老人の腕を引き、泣きじゃくる子を抱き上げ、動けない者の背に手を回して立たせる。
彼女の背中を追って人々が走り、転び、また起き、必死に逃げ惑う。
黒屍人の影が近づくたびに、お菊は懐から数珠を握り、胸の前で強く結んだ。
祈る暇などない。
だが彼女は、祈らねばならない血を持っていた。
「退け……退けぇっ!」
吐き出すような祈祷の声が、灰の闇に鋭く響く。
数珠の珠が朱にきらめき、脈打つように光を散らした。
その光に触れた黒屍人は、一瞬だけ足を止め、首を傾ける。
まるで熱を恐れる獣のように、動きが鈍る。
「今です、早く!」
お菊がそう促すと、人々はその隙を縫うように駆け抜けた。
彼女の祈りは盾ではない。
ほんの一息、命を繋ぐ隙をつくるだけのものだと、彼女自身が誰より知っていた。
お菊に武の力はない。
刀を振るうことも、敵を斬ることもできない。
黒屍人が本気で襲いかかれば、祈りだけでは防ぎきれぬ。
それでも――彼女は引かなかった。
背後にいるのは民だ。
逃げ惑い、足を縺らせ、怯えて立ち尽くす者たちだ。
奥方として、巫女として、ここで退けば、彼らの最後の灯が消える。
「かまわぬ……我が身はどうなろうとも……せめて、この者たちを!」
叫びは、祈りというより決意に近かった。
その声に応えるように、近くの寺の鐘楼が崩れ落ち、鈍い轟音が町に響いた。
舞い上がった灰煙が渦を巻き、視界が一瞬奪われる。
次の瞬間――灰の向こうから、黒屍人の群れが再び姿を現した。
先ほどよりも数が多い。
じりじりと距離を詰め、唸り声が低く重なっていく。
お菊は数珠を握り直し、息を整えた。
震えそうな腕に力を込め、真っ直ぐ前を見据える。
祈りは届くのか。
それとも、この城下すべてが灰に呑まれるのか。
答えはまだ、灰の闇の中にあった。
館林城の奥では、なおも混乱が渦を巻いていた。
広間から奥へ奥へと逃げ込む足音が重なり、襖は乱暴に開け放たれ、侍女の悲鳴が廊下に散る。
その中心で、藩主は蒼白な顔のままよろめき、まるで追い立てられる獣のように彷徨っていた。
「も、もう駄目だ……! 化け物どもが町を埋め尽くしておる!
誰か、誰か助けよ!」
叫びながら、彼は腰元を突き飛ばし、行く手を塞ぐ家臣の肩を乱暴に押しのける。
着衣は乱れ、髷はほどけ、額には脂汗が滲んでいた。
そこにあるのは主君の威厳ではなく、ただ“恐怖に飲まれた一人の男”の姿にすぎなかった。
重臣の一人が、必死に前へ出る。
膝をつき、言葉を選びながら声を張った。
「殿、どうか落ち着かれませ。
民は……城下の民は、いかがなされまする!」
だが藩主は、その言葉に応えるどころか、顔を歪めて叫び返した。
「知るものか! わしの命が惜しいのだ!
早く馬を引け! 城を捨てても構わん、わしをここから出せ!」
ひび割れた声が広間に響き、その瞬間、場にいた者たちの胸の奥に、ひやりと冷たい絶望が沈んだ。
誰もが悟ったのだ。
この城には、もはや主と呼べる者がいない、と。
家臣たちは顔を強ばらせたまま立ち尽くし、侍女たちは唇を噛み、涙を堪える。
その沈黙の重さだけが、崩れかけた城の奥に残った。
――一方その頃、城下では。
灰と瓦礫に塗れた通りを、お菊が走っていた。
小袖の裾は裂け、白かった生地は煤と血で黒ずんでいる。
それでも彼女は足を止めない。
倒れた者に肩を貸し、泣き叫ぶ子を抱き、
動けぬ老婆の背に腕を回して立たせると、すぐに前へ押し出した。
「怯まず、急ぎなされ!」
声は枯れ、喉は焼けるように痛むはずなのに、それでも彼女の叫びは途切れなかった。
黒屍人が横道から這い出すたび、彼女は身を翻し、民の前へ立つ。
数珠を握りしめ、震える息で祈りを放つ。
「退け……退くのです!」
朱のきらめきが闇に走り、黒屍人がほんの一瞬だけたじろぐ。
その刹那に、民が雪崩のように逃げていく。
小柄な体のどこに、これほどの胆力が宿っているのか。
民の目は、いつしか“城の奥の殿”ではなく、瓦礫の中で踏みとどまり続けるこの奥方へと集まっていた。
「お菊様……!」
「奥方様がいてくださる……!」
「お菊様のおかげで……!」
涙と灰にまみれた声が、次々と彼女の背中へ投げられる。
藩主を信じ切れぬ者たちが、知らぬ間に、お菊を“生きるための柱”として追い始めていたのだ。
城の奥では、守るべきものを捨てた主君が逃げ惑う。
城下では、武も持たぬ奥方が民の盾となって立ち続ける。
その対比はあまりに残酷で、
そして、この地の行く末を静かに決定づけていくようでもあった。
必要なら次はこの流れを受けて、**「佐野がなぜ黒屍人の海を“進軍”できたのか」と、「お菊の数珠(珠)が“反応”している理由」**を、説明しすぎずに“匂わせ”で繋げる形に整えていけます。
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そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
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