十二輝の忍神 ーシノビガミ― 第一部

陵月夜白(りょうづきやしろ)

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15 三つの輝き

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第六章 三つの輝き
第一話 音羽鉄之介

 鉄之介の大槌が黒屍人を粉砕したことで、お菊の周囲に、ほんの束の間の“空き”が生まれた。

 だがそれは、潮が一瞬引いただけのようなものだった。
 砕かれたはずの影は、地に散った灰の中からなお蠢き、濁った四肢を組み直して、ずるり、ずるりと起き上がってくる。

 首が半ば潰れても、胴が裂けても、呻き声ひとつ上げぬまま前へ来る。
 あれが人だった名残など、どこにもない。

 鉄之介は歯を食いしばり、槌を構え直した。
 肩から腕へ、槌頭の珠が響かせる赤黒い鼓動が伝わる。

 熱い。重い。
それでも、ここで引けば背後の女と子が喰われる――ただそれだけが頭にあった。

「ちっ……ずいぶんしぶとい亡霊どもだな」
 振り下ろすたびに粉砕している。

 だが、数が減らない。
むしろ、音と匂いに引かれて外から外から集まってくるようだった。

 鉄之介ひとりでは押し返しきれぬ。
その事実が、槌の重みより先に彼の胸を圧した。
 ――その時。

「鉄之介!」
叫びとともに、灰煙を割って一つの影が駆け込んできた。

 金之助である。
息は荒く、額は汗と灰で濡れていた。

 だが眼は、まっすぐに戦場だけを見据えている。
 腰から抜いた短刀の刃が、鈍く朱色に脈動していた。

 黒屍人が一体、金之助へ跳ねるように迫った。
 腕を伸ばし、喉を狙って噛みつこうとする。

 金之助は、寸前で身を反らした。
灰を踏む足が滑る。
だが倒れない。

 すれ違いざま、低く体を沈め、そのまま短刀を突き立てた。

 朱の閃き。
刃が影の胸を裂いた瞬間――

 黒屍人は初めて苦しげに喉を歪め、言葉にならぬ声を漏らした。
 そして、ばさりと崩れる。

 骨も肉も残さず、ただ黒い灰へとほどけ、風に散っていった。

 鉄之介が目を見開く。
「……消えた?」

 金之助は短く息を吐き、構えを解かぬまま答える。
「……俺の刃なら、斬れるみたいだ」

 お菊も、思わず息を呑んでいた。
――今の光。
 短刀が朱に染まったのではない。

 あの少年自身の内から、刃へ力が流れ込んだように見えた。
 さらに、背後から武士たちの怒号が押し寄せてくる。

「殿を守れ!」
馬上から忠壽が鋭く声を張り、残る家臣たちが列を組み、黒屍人の群れへ踏み込んだ。

 息を合わせ、槍と刀で間合いを作り、押し返す。
 その動きは冷静で、死を見ても崩れぬ鍛えがあった。

 忠壽の手は、手綱を握りながらも、懐へ一瞬触れる。

 そこから淡い黄の光が洩れた。
珠が、焚き火の残り火のように脈を打っている。

 そして――
 忠壽の眼差しもまた、薄闇を裂く一条の刃のように強かった。

 あの眼がある限り、隊列は崩れぬ。
そう思わせる静かな圧があった。

 鉄之介の槌は紅の光を帯びて唸り、金之助の短刀は朱に煌めき、忠壽の懐からは黄の脈動が洩れる。

 灰に沈んだ館林の通りで、三つの光が交わった。

 赤黒い、獣のような暴勇。
 朱の、焦げつくような覚醒。
 黄の、揺るがぬ意志。

 それぞれが違う色でありながら、互いを拒まず、むしろ引き寄せ合うように響き合っていた。
 お菊は、民を庇いながら、その光景に胸の奥を震わせた。

 肌に触れる灰風とは別の、もっと深い“予感”が背筋を走る。

 ――これは、ただの武士や旅人ではない。
 ――この者たちは、何かに選ばれ、導かれている。

 彼女の手の数珠が、かすかに鳴った。
祈りを宿した珠が朱・紅・黄の光を受けて、まるで呼応するかのように細かく震える。

 お菊の喉が、知らずに言葉をこぼした。
「……十二輝に導かれし者たち……」

 その呟きは、戦の響きに消えそうなほど小さかった。
 しかし、お菊自身の胸には確かな重みで落ちた。

 いまここに、灰の地獄を割って立つ三つの光がある。

 それが偶然であるはずがない――と

 鮮やかな朱と赤黒い紅の光をまとい、黒屍人を薙ぎ払った鉄之介と金之助は、お菊のもとへ駆け寄った。

 粉雪のような灰が舞う通りで、二人の息は白く乱れ、肩はまだ戦の震えを残している。

「怪我はねぇか!」
鉄之介がまず、半ば覆いかぶさるように前へ出た。

 近くで泣きじゃくる子を抱え上げ、背に庇いながら目だけで周囲を睨む。
 その手の大槌は、なお紅の鼓動を宿し、獣が低く唸るような熱を放っていた。

 金之助は一歩遅れて、お菊の脇へ滑り込む。
 短刀はまだ朱の残光を帯び、少年の腕にも微かな震えが残っている。
だが声は震えず、ただ真っ直ぐに問う。

「お菊様……ご無事ですか」
 ――お菊様。
その呼び名に、ふとお菊の胸の緊がゆるみかけた。

 しかし、この地は誰が味方で誰が敵かも溶け合う地獄である。
 彼女は二人を見上げ、困惑と警戒を隠さず息を呑んだ。

「……あなた方は……?」
 見たことのない若い男たち。
けれど黒屍人を散らすその手際は、普通の旅人のものではない。

 驚きと疑いが、声にそのまま滲んだ。
そのとき――。

「お菊様!」
馬上から響いた声は、風の冷たさを裂くほどはっきりしていた。

 本多忠壽である。

 お菊の顔が、ぱっとほどけた。
土埃と灰で汚れた頬に、やっと人の温度が戻る。

「忠壽様……!」
彼女は足のもつれをこらえ、忠壽の方へ寄ろうとする。

 だが、その進路に――影が落ちた。
ずしり。
 地の底から立ち上がったような重さが、通りに沈む。

 黒鉄の鉞(まさかり)をぶら下げ、灰の中を立つ隻眼の巨躯。
 片目は獣のように細く吊り上がり、もう片目は闇に沈んでいる。

 ただ立っているだけで周囲の空気が粘つき、近づく黒屍人さえ無意識に距離を取る。

 荒谷武蔵。
「待ちな」
低い声が、石畳を這うように響いた。

 それは命令でも挑発でもなく、ただ“道を塞ぐもの”の声だった。

 お菊は足を止め、数珠を握り直す。
胸の鼓動が、嫌な速さで跳ね上がる。
「……あなたは?」

 武蔵は口角を持ち上げた。
笑みというより、腹を空かせた獣の歯ぐきが覗いたような形だ。

「俺かぁ?」
鉞を肩に担ぎ直し、わざとらしく首を鳴らす。

「俺は武蔵だ。荒谷武蔵」
その名が落ちた瞬間、忠壽の背筋が一段固くなった。

 馬上の姿勢は崩れない。
だが眼は、鋭く、冷たく、刃を研ぐように細まった。

「荒谷……?」
喉の奥で名を反芻し、次にくる言葉を抑えるように続ける。
「まさか貴様、伊賀の手先か」

「ほう」
武蔵は楽しげに鼻を鳴らした。
 問いを否定も肯定もせず、ただ腹底から湧くような笑いを混ぜる。

「よく知ってんな。――お前は何者だ」
忠壽は馬を一歩進め、揺るぎない声で返す。
 名乗りは武士の矜持であり、敵に向ける刃でもあった。

「拙者は白河藩士、本多忠壽と申す。松平定信公の命を受け、この地へ参った」

 武蔵は眉を動かしもせず、肩で笑った。
「本多ぁ? 聞いたこともねえな」
嘲りが、灰の中に鈍く落ちる。

「ま、どうでもいい。――そこを退け。巫女はこっちだ」
 お菊の背がひやりとする。

 “巫女”。
その言葉は、武蔵の口にのった途端、血の匂いに変わった。

 鉄之介が、ぴくりと眉を吊り上げる。
忠壽の言葉遣い、武蔵の態度、そして“巫女”という呼び方。

 大筋は一瞬で読めた。
「おい」
鉄之介は大槌を肩からずらし、前へ一歩踏み出した。

 地面が小さく鳴るほどの重さが、堂々と前に出る。

「そこのデカブツ。お姫様に用があるってのは聞き捨てならねぇな」
 軽口のようで、声の底は鋼だ。

「相手が欲しいなら、俺がしてやるよ」
武蔵は一瞬、目だけを鉄之介に向けた。

 まるで“やっと面白い獲物が出てきた”とでも言うような、鈍い光。
 次の瞬間、腹の底を揺らす笑いが爆ぜた。

「がはははは!」
鉞の柄を指で弾き、鉄之介を上から見下ろす。
「雑魚が粋がるな。目障りだ。すっこんでろ」
鉄之介の顔から、冗談の色が消えた。

 ぶ厚い頬の奥で歯が鳴り、首筋の血管が浮く。
「……雑魚だと?」

 大槌の紅が一段強く脈打ち、まるで怒りに反応するように唸った。
「言ったな、デカブツ。――ぶっ殺してやる」

 武蔵の笑みは消えない。
ただ、片目がわずかに細くなる。

 獣が獣を量るときの目だ。
忠壽が、低く、しかし割って入るように言った。

「鉄之介、早まるな」
だが制止と言うより、状況を一度“凍らせる”声だった。

「この男の狙いはお菊様だ。――焦点を外すでない」
 鉄之介は肩越しにちらりと忠壽を見た。

 お菊も固唾を呑む。
金之助は短刀を握り直し、武蔵の足運びをじっと読んでいる。

 灰の降る通りに、ひとときの静寂が落ちた。
 黒屍人の唸りすら遠のいたように感じる。

 その静けさの中心で、

 荒谷武蔵と音羽鉄之介――

 二つの巨躯が、互いの殺気を真正面からぶつけ合っていた。
 六尺を軽く超える鉄之介でも、その一回り大きく見える武蔵の巨躯は別格であったが、それでも並び立つと山がふたつあるような威圧感があった。

 次に動いた方が、ここを地獄に変える。
誰もがそれを理解したまま、刹那の境目で息を止めていた。


第二話 武蔵との死闘

 荒谷武蔵と音羽鉄之介。
巨躯と巨槌が正面からぶつかり合うたび、館林の通りは地面ごと唸り、降り積もった灰が爆ぜて舞い上がった。

 瓦礫の山が震え、倒れた柱が転がり、遠くで逃げ惑う民の悲鳴すら、その轟きに呑まれる。

「うおおおおッ!」
鉄之介が大槌を振り抜く。
 紅の脈動を宿した槌頭はひと息に風を割り、武蔵の鉞と真正面から噛み合った。

 ――ガァァン!
金属と金属が噛み砕き合うような音。
 火花が灰の雨の中で散り、二人の足下の石畳が蜘蛛の巣のように割れていく。

 最初の数合、鉄之介の勢いは凄まじかった。
 武蔵の鉞を押し返し、返す勢いで槌を横薙ぎに叩き込む。
 武蔵の肩口が裂け、黒い血が灰に濡れて跳ねた。

「どうしたデカブツ! その鉞、飾りかよ!」
鉄之介の吼え声が通りを震わせる。

 武蔵は、笑っていた。
裂けた肩を一瞥もしない。
むしろ、傷が増えるほど愉しげに、片目を歪めて鉞を持ち直す。

「がははは……いいぞ」
腹の底から響く声が、獣の唸りに近い。

「だがなぁ――」
次の瞬間、武蔵の一撃が“重さ”を変えた。

 鉞が落ちてくるだけで空気が潰れ、通りの灰が一斉に外側へ押し広げられる。
 ――ズドン!
 受けた鉄之介の体が、膝から沈んだ。
大槌がきしみ、肩と腕に痺れが走る。

「く……っ!」
歯を食いしばる。

 鉄之介は勢いで耐える男ではない。
踏ん張り、重心を低くし、わずかの呼吸で鉞の軌道を逸らし、反撃の槌を叩き込む。

 槌が武蔵の胸を抉った。
肉が裂け、骨が覗き、血が噴き上がる――はずだった。
 だが武蔵は、その痛みを“笑いに変える”ように喉を鳴らした。

「がははは! 足りねえ!」
腰の酒袋を引き裂く。
 ごくり、と喉が鳴った瞬間――裂けた胸の肉が、ぞわりと盛り上がった。

 骨の欠けた音が裏返るように繋がり、血が引き、皮膚が縫い合わされる。
 鉄之介の顔が、怒りから驚愕へ一瞬揺らぐ。

「な……何だよそれ……」
武蔵は干し肉を噛み砕き、肩で笑う。
 食うたびに、裂けた筋が戻り、薄闇の中で“怪物の回復”があまりにも露骨に起こる。

「俺ぁ食えば戻る。
 斬られても、砕かれても、腹が満ちりゃ終わりだ」
 その言葉通り、武蔵の鉞はさらに荒く、さらに重くなった。

 鉄之介の反撃が入るたびに傷は生まれる。
 だが次の一息で塞がり、武蔵の膂力だけが増していく。

 ――受けきれない。
 鉄之介は本能で悟った。

 こいつは“斬り倒す相手”じゃない。
“削っても削っても戻る壁”だ。
それでも鉄之介は引かない。

 踏み込み、横薙ぎ、叩き割り。
紅の脈動を槌に乗せ、隙を探し続ける。

 だが――
武蔵の一撃が、鉄之介の槌を弾き返した。

 ――ガンッ!
 腕が跳ね上がり、体ごと半歩退く。
その一瞬を逃さず、鉞が上段から叩き下ろされる。

「潰れるぞ、鉄之介!」
金之助が叫んだ。

 金之助も短刀で何度か踏み込む。
朱の刃は確かに黒屍人を灰に変える。

 だが武蔵の鉞の間合いは異様だった。
踏み込んだ瞬間、風圧だけで弾かれ、金之助の体が石畳を転がされる。

「ぐっ……!」
息が詰まる。
 立ち上がろうとするが、武蔵が振るうたびに地面が揺れ、脚が取られる。

「まとめて捻り潰してやる!」
武蔵の笑いが、灰の闇で大きくなる。
 鉄之介は歯を食いしばり、槌を構え直す。

 金之助は膝をつきながら短刀を握り直す。
 忠壽は馬上でその背を見つめていた。

(……このままでは、二人は斬り落とされる。お菊様も守りきれぬ)

 武蔵の鉞が振りかぶられる。
鉄之介の足が、わずかに沈む。
 金之助は立ち上がる前に、次の衝撃で吹き飛ばされかねない――。

 忠壽の中で、迷いが完全に焼き切れた。
「下がれ、鉄之介!」
 声は低く鋭い。

 命令であり、覚悟の宣告でもあった。
忠壽は鞍から滑り降りる。

 懐から取り出したのは、掌に収まる黄色の珠――午の珠。

 焚き火の火種を思わせる、温かな脈動を帯びている。
刀の柄に珠を押し当てた。

 ――じわり。
硬いはずの珠が、まるで水滴のようにほどけ、柄の木目へ吸い込まれていく。

 根を張るように絡み、金具の隙にまで溶け込み、ひとつの“芯”になっていった。

 次の瞬間。
忠壽の刀身が、淡い黄金に包まれる。
 光は派手に燃え上がるのではなく、鋭い刃が内側から冴え渡るような“透き通った輝き”だった。

 忠壽の腕に熱が走る。
背筋に芯が通り、足先まで力が巡る。
 視界が澄み、武蔵の重い呼吸のリズムすら手に取るようにわかる。

(――これが、午の力か)
 忠壽は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。

 誇りが声に混じる。だが驕りはない。
戦場を見据える武士の落ち着きだけがある。

「荒谷武蔵」
 刀を構え、足を半歩前へ。
「次は拙者が相手をする。
 ……ここから先、好きにはさせぬ」

 武蔵の笑みが、ふっと止まった。
片目が忠壽の刀を捉え、鉞をわずかに下げる。

「へえ……やっと本命が出たか」
嬉しそうに息を吐き、鉞を肩に担ぎ直す。

「いいぜ。――喰いでのある相手だ」
灰の闇の中、黄金の刃が静かに鳴った。

 館林の地獄に、第四の光が立つ。
次の一合で戦の形が変わる――
 
 館林の地獄に、黄色と血の光が交錯した。
 忠壽が踏み込む。
その一歩は静かだった。だが、踏み締めた石畳の灰が、輪を描いて押しのけられる。

 刀の切っ先がわずかに沈み、次の瞬間、黄金の軌跡が“地を走った”。

 ――キィン!
 忠壽の横薙ぎは、ただ受けるためのものではない。

 鉞の腹を弾き、武蔵の重心を半寸だけずらす。
 その“半寸”が致命の間になる。
武蔵の鉞が、忠壽の肩口を叩き潰すはずの角度から外れ、石畳をえぐって深い溝を刻む。

 灰の柱が噴き上がり、黒屍人が巻き込まれて粉々に散った。

「はっ……!」
 忠壽は溝の縁を踏み、身を沈めたまま武蔵の懐へ滑り込む。

 刀が下から逆袈裟に走る。
 ――ザンッ!
武蔵の腹の上で、肉が一直線に裂けた。

 血が噴き出し、灰に濃い赤が滲む。
巨体がわずかにのけぞった。

「おお、やるじゃねえか……!」
武蔵は笑っている。
笑いながら、次の一撃をもう振りかぶっている。

 鉞が振り下ろされる。
大木を倒すような一撃。

 忠壽は受けない。
半歩、いや“半足”だけ軸をずらし、鉞の影の内側へ潜り込む。

 鉞は忠壽の背後の瓦礫を砕いた。
その勢いが抜けた瞬間、忠壽の刀が喉元へ突き上がる。

 ――しかし、武蔵は首を引かない。
喉を裂かれる刹那、鉞の柄を横に払って忠壽を弾く。

 忠壽の体が灰の上を滑った。
だが倒れない。
 刀を床に引き、黄金の線で地面を刻みながら態勢を立て直す。

 鉄之介が目を剥いていた。
あの怪物の巨力を、正面から受けずに“捌いている”。

 しかも、斬撃が入るたび、武蔵の動きが一瞬止まるのが見える。

「……お侍、速ぇ……!」
 金之助が息を呑む。

 忠壽は速さだけで勝負していない。
武蔵の呼吸、腕の張り、鉞の重みが乗る瞬間を読み抜き、そこに刃を差し込んでいる。

 行動の“前”を切る剣だ。
武蔵の口角が上がったまま、眉の奥だけが少しだけ鋭くなる。

「いいなぁ……久しぶりだ。
 “斬られる前提”で動いてる奴はよ」
 武蔵は腹の裂け目に手を当て、血まみれのまま干し肉を引きちぎる。

 噛み砕く。
ごきり、と肉が盛り上がり、裂けた腹が塞がっていく。

 忠壽はそれを見ても顔色一つ変えない。
むしろ、静かに息を整えた。
(削っても戻る。
 ならば――戻る前に“動けぬ箇所”を断つ)

 忠壽は足の運びを変える。
正面ではなく、半円を描くように左右へ。
 武蔵の鉞の“振り終わり”に狙いを定め、じり、と間合いを削る。

 武蔵が鉞を振るうたび、忠壽はそこにいない。
 影の外へ抜け、刃を一閃だけ入れて去る。

 肩を裂く。
 膝裏を浅く削る。
 脇腹に光の線を刻む。

 致命ではない。
だが“動作の要”を的確に狙っている。

「ちっ……」
武蔵の笑い声が、少しだけ低くなる。
巨体がわずかに鈍る。

 鉞の振りがほんの僅かに遅れる。
その遅れを、忠壽は逃さない。
「……そこだ」
 忠壽が踏み込んだ。

 黄金の光が、刀身からまっすぐ伸びる。
武蔵の鉞が上がる前――肘の内側へ、鋭く食い込んだ。

 ――ブシュッ!
血が噴いた。
 肘が裂け、鉞を振り下ろす力の通り道が一瞬止まる。

「ぐっ……!」
 武蔵の体が揺らぐ。
その隙を、忠壽は“逃がさず広げる”ように、次の刃を重ねた。

 ――ザン!
 ――ザン!
 光の線が二本、三本。

 武蔵の胸と肩に走り、上体が大きくのけぞる。
 だが、武蔵は倒れない。
足を踏ん張り、獣のように笑った。

「……いいぞ、もっとだ」
 笑いながら、酒袋を噛み破る。

 ごくり、と喉が鳴る。
傷がまた塞がる。
肉が戻る。
骨が繋がる。
 ――だが、さっきより戻りが“遅い”。

 忠壽は確信した。
午の珠の光が、武蔵の“再生の律”に干渉している。
 斬られた場所が、すぐには戻らない。

「……なるほど」
忠壽の声は低く、冷たい熱を帯びた。

「戻るのが遅れるなら、
 次は――戻る前に断つだけだ」
武蔵の片目がぎらりと細くなる。

「おもしれえ……!」
鉞を振りかぶる。

 今までよりさらに重い。
灰が巻き上がり、空気が潰れる。

 忠壽は正面へ出る。
逃げない。
ぶつかるのではなく、“切りに行くために”。

 鉄之介が喉を鳴らす。
金之助が息を呑む。

 黒屍人たちでさえ、その二人の間に流れる気配に飲まれて、わずかに後ずさった。

 鉞と刀が、次の瞬間に交わる。

 黄金と血の光が、灰の闇に十字を刻む。
――勝負は、ここからだ。
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