十二輝の忍神 ーシノビガミ― 第一部

陵月夜白(りょうづきやしろ)

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25 死体の発見

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第五話 死体の発見

 鉄之介と忠壽は家臣に導かれ、小屋の裏手に回った。

 そこには古びた納屋があり、その影に一人の男が無残に横たわっていた。
 着物は血に染まり、全身に無数の刀傷が走っている。すでに息絶えて久しく、眼は虚ろに開かれている。

 しかし、その腰にあるはずの大小はなく、周囲を探しても影も形も見えなかった。

「まさか……?」
鉄之介が低く呟いた。

 忠壽は眉をひそめる。
「……鉄之介。お前、百姓どもに討たれたとでも思っているのか?」

「ならば誰がやった! いや……お姫様が危ねぇ!」
鉄之介は顔色を変え、走り出した。

 忠壽も慌てて小屋へ駆け戻った。
 
 戸を開けると、中ではお菊と女中が金之助の枕元に付き添っていた。
 二人とも無事な姿に、忠壽は思わず小さく息をつく。

「……良かった」
だが鉄之介は老夫婦に詰め寄る。

「おい、貴様ら! 裏の侍姿の死体はなんだ!」
老夫婦は怯え、震えながら顔をそむけるばかり。

 代わりに三平が前へ出て答えた。
「あれは……今朝、ここへやって来た侍です。来た時には、もう手遅れで……」

 忠壽が険しい声を投げた。
「ではなぜ、裏に置き捨てておいた?」

「違います。穴を掘って弔ってやろうと思ったのです。その矢先に、あなた方がお越しになった……」

 鉄之介が鋭く割り込む。
「なら、あの侍の大小はどこへいった! 長いのと短いの、腰に差してたはずだろうが!」

 三平は一瞬目を泳がせた。
「……存じません。あのままの姿で見つけたのです」

「嘘をつくな!」
鉄之介が畳を踏み鳴らす。

「身ぐるみ剥いで売り払った口だろう!」
老夫婦はますます怯え、震えて目を逸らすばかり。

 その様子を見て、忠壽が制した。
「よい、鉄之介。見なかったことにしてやれ。餓えた百姓が死人の刀を奪っても、不思議ではない」

 鉄之介は舌打ちし、鼻を鳴らした。
「ま、売ればいくらか金になるからな……まあいい」

 だが忠壽はなおも問いを重ねる。
「待て。おい三平……あの侍、刀のほかに何か持ってはいなかったか?」

「……何かとは?」

「珠だ」
忠壽の声が低く響いた。

「光を放つ珠だ。見なかったか?」
その言葉に、三平はわずかに顔を強張らせ、沈黙した。

 やがて視線を忠壽に向け、その眼に――確かに「何かを知っている」色を浮かべた。
 三平は苦しげに沈黙し、その拳をぎゅっと握りしめた。

 忠壽の低い声が部屋に響く。
「貴様……見ていないのではあるまい。見てしまったのだろう?」

 三平は肩を震わせ、ついに観念したように唇を噛んだ。
「……侍の懐から、巾着が転がり落ちていました。開けたら……赤い光の珠が、脈打ってて……怖くて……」

 鉄之介と忠壽が目を見交わした。
「珠……!」

 三平はすぐに首を振る。
「お、俺は触ってません! 布で包んで戻そうとしたんです。でも……」

「でも?」
忠壽が一歩近づく。

 三平は唇を震わせ、うつむいた。
「……弟の平八が、先に拾ってしまったんです」
 空気が硬直した。

「平八が……?」
鉄之介の声が低くなる。

「兄ちゃん、兄ちゃんって……何度も止めたんです。でもあいつ……“売れば金になる”って。
 家には米もなくて……母ちゃんも体がよわくて……だから……!」

「どこへ行った!」
鉄之介が吠えた。

「町です! 壬生の町へ……朝早く、裏山の近道から……!」

 その時だった。
背後から静かながら鋭い声が響く。

「それは――いけません」
お菊だった。

金之助の枕元にいた彼女は、白い指で数珠を握りしめ、蒼ざめた顔で三人に向き直った。

 「その、平八と申すものは、幾つなのです?」
お菊の目は真剣だった。

 「じゅ、十二になります。」
三平は慌てて答えた。

「忍神〈シノビガミ〉の珠は、器でない者が持てば……その心と命を削ります。
 欲、恐れ、怒り……珠は持つ者の“内にあるもの”と反応し、時に暴れ出すのです」

 三平が怯えたように目を見開く。
「ま、まさか平八が……」

「年端もいかぬ子は、まだ魂が定まりません。
 “売って金にしたい”という思いは、珠を最も不安定に揺らします」

 お菊は震える息で続けた。
「このままでは……珠に呑まれ、命を失うかもしれません」

 鉄之介は舌打ちし、大槌を担ぎ直した。
「ちくしょう……ガキが、よりにもよってそんな危ねぇもんを……!」

 突然、身を起こした金之助に枕元にいたお菊が驚いて背中を支えるように手を差しのべた。
「いけません、金之助殿。まだ、その体では…」

 金之助はお菊の目を見つめて言う。
「いや、大丈夫です。珠が、辰の珠が呼んでいます。はやくその珠を取り戻さないと…」

 ゆっくりと金之助は立ち上がり、拳を握りしめた。
「行こう! 平八を助けなきゃ……!」

 忠壽は、黙ってうなずき、すぐに馬へ向かい、鋭く指示を飛ばす。
「半刻もすれば町に着く。珠が暴れ出す前に追いつくぞ!」

 お菊は胸元で数珠をぎゅっと握り、祈るように呟く。
「……どうか、間に合って……」

 灰混じりの風が吹き込み、戸が揺れた。
三平を加えた七人の影は一斉に外へ飛び出し、壬生の町へ向かって駆け出した。

第六話 壬生の町にて

 壬生の町に入った一行は、昼の雑踏の中を急いで歩いた。
 だが金之助の顔色はみるみる蒼白になり、足取りもふらつく。

「金之助殿……!」
お菊様がその身体を支える。

 忠壽が振り返り、厳しい声で言った。
「――斎藤。金之助殿とお菊様を宿へお連れしろ。
 医者を呼べ。急げ」

「はっ!」
斎藤と呼ばれた年配の家臣がすぐに動き、二人を支えて町外れの宿へ向かった。

 残されたのは、忠壽、鉄之介、若い家臣・吉村、三平の四名。

 三平は息を切らしながら、恐縮しきった声で言った。
「ど、どうか……弟を……助けてください……。平八は……悪い子じゃないんで……」

 忠壽は横目で三平を見ただけで、前を向いたままだ。
「とにかく、捜す。おとなしくついて来い」

「は、はい……!」
四人は町中を走り回った。

 やがて、怒鳴り声と人だかりが目についた。
「む……?」

 忠壽が足を止める。
三平の顔が真っ青になった。
「だ、旦那様……! あれ……平八で……!」

 質屋の前で、平八が店主に突き飛ばされ、土埃の上に転がっていた。
 足をばたつかせながら喚いている。

「話が違ぇだろ! 一両って言ったのに、なんだよ二朱ってぇのは!」

 店主は唾を吐き捨てた。
「うるせぇ小僧! どうせ盗っ人の品だろうが! 二朱でももらえりゃ御の字だ!」

「盗んでねぇ! 死んだ侍が持ってたんだ!
 ほら、綺麗な珠もある! 一両よこせって言ってんだ!」

 平八が握りしめた巾着の中、赤い珠が脈打つ。

 三平が震え声で叫んだ。
「へ、平八!」

 店主は平八の胸倉をつかんで顔を寄せる。
「ガキ、これ以上ごねるなら――」

 その瞬間だった。
「――おいおい、ずいぶんひでぇ商売してんじゃねぇか」

 群衆がどよめき、鉄之介が人垣を割って現れた。

 肩の大槌が鈍い光を帯びる。
店主は一瞬たじろいだ。
「な……なんだてめぇは!」

 鉄之介は鼻で笑った。
「そいつは俺たちの“仲間”だ。
 ガキに盗人呼ばわりして、値切り倒すとはいい根性だな」

 平八は信じられないものを見るように鉄之介を見上げた。
「に、兄ちゃん……!」

 忠壽が前へ出る。
その眼差しは冷たく、町の喧噪すら凍るようだった。

「平八。その巾着を渡せ。
 ――それはお前が持ってよい物ではない」
 その声音は静かだが、決して逆らえぬ威を帯びていた。

 忠壽が手を差し出したまま、平八を鋭い眼で見据える。

 平八は巾着を胸に抱え、後ずさりした。
「……嫌だ! これは俺のもんだ!」

「平八、駄目だ!」
三平が慌てて駆け寄る。

 平八の肩を掴み、必死に言い聞かせた。
「旦那様に渡すんだ! それはお前みてぇなガキが持っていいもんじゃねえ!」

「だ、だって兄ちゃん……!」

「だって、じゃねぇ! 渡せ!」
平八は悔しそうに唇を噛んだ。

 忠壽はその様子をじっと見つめ、静かに手を差し出したまま言う。

「――さあ。渡せ」
その声音は荒げてはいない。
 だが有無を言わせぬ威が宿り、そこにいた誰もが背筋を伸ばすような気配だった。

 その横で、鉄之介が質屋の主人を睨みつける。
「おい、親父。刀は売らねぇ。ほらよ、さっきの二朱を返すぜ」

 鉄之介は腰の袋から二朱を取り出し、無造作に放ってよこした。

 銭は店主の足元に転がる。
「ちっ……!」
 店主は渋々それを拾い、奥から刀を持って来る。

「へいへい、もう勝手にしな!」
投げつけるように鉄之介へ渡すと、舌打ちしながら店の奥へ引っ込んでいった。

 鉄之介は刀を片手に肩をすくめる。
「けっ、こすっからい野郎だ」

 忠壽は刀には目もくれず、ただ平八だけを見据えている。
「――ほら。早く」

 平八は悔しさと恐れで顔をゆがめながらも、
ゆっくりと巾着を差し出した。

 忠壽はそれを両手で受け取り、懐へとしまい込む。
「……よし。これでようやく安心だ」

 平八の肩から力が抜け、三平は胸を押さえながら深く頭を下げた。
「た、旦那様……! 本当に……有り難うございます……!」

 忠壽は三平を見ず、ただ短く言った。
「礼はよい。後で話すことがある。――行くぞ」

 その凛とした背に、町人たちも息を呑んで道を開けた。
 
 質屋を離れた一行は、三平と平八を連れて宿へ急いだ。
 金之助の容態が悪いことを思うと、忠壽は歩を早めざるを得なかった。

 宿に着くと、斎藤が用意していた部屋へ通される。
 戸を開けると、金之助は敷かれた布団の上に横たえられ、その傍らにはお菊様と斎藤が控えていた。

 白髪の医者が金之助の胸元に手を当て、
小さく首をかしげていた。
「先生、金之助殿の具合は……?」

 お菊様が控えめに問いかける。
医者は、頬の皺を深く刻みながら首を振った。
「いやあ……なんとも不思議でなぁ」

「不思議……?」

「熱は確かにある。息も荒い。
 なのに――脈は実に正常なんじゃ」

「脈が……正常?」

「そうよ。脈だけで見れば、まるで健康体。
 こんな例は、わしは初めてじゃて」

 お菊様は戸惑いに目を伏せた。
「風邪などではないのですか?」

「風邪ならもっと脈が乱れるはずじゃ。
 こりゃあ……わしには、さっぱりわからん」

 医者は申し訳なさそうに頭を下げた。
「熱を下げる薬を処方する。
 町の薬屋でこれを買って飲ませるとよい」

 薬名を書いた紙を差し出す。
斎藤が立ち上がり、深く礼をして謝礼を渡した。
「お世話になりました」

「むう……なんとも役に立てんでな。すまなんだ」
 医者は肩を落としながら部屋を出ていった。

 戸が閉まると同時に、斎藤が忠壽へ向き直る。
「殿、外は問題ありませんでしたか?」

「ああ」
忠壽は短く答えた。

「平八を見つけ出し、珠も返してもらった。心配いらん」

「それは……ようございました」

 お菊様が胸に手を当て、ほっと息をついた。
 忠壽は金之助を一瞥し、眉を寄せた。
「――金之助殿の具合は、どうだ?」

 斎藤が困ったように言葉を濁す。
「それが……その……」

 鉄之介が苛立った口調で割って入る。
「なんだよ、なんだよ。医者に診せたんだろうが。
 あれはやぶ医者だったか?」

「い、いえ……そうではなく……」
 お菊様が静かに続ける。

「……異常がない、と申されました」

 鉄之介が目をむいた。
「はあ? こんだけ具合悪くて、熱まで出してて、異常がねぇわけねえだろうが」

「それが……脈だけは、まったく乱れておらぬと……」
 お菊様は困り果てたように言った。

「私にも、理解できません」
部屋には不気味な沈黙が落ちた。

 金之助の浅い呼吸だけが、かすかに聞こえている。

第七話 宿の闇と辰の脈動

 部屋に沈黙が落ちたまま、しばし時が過ぎた。
 障子の向こうでは、壬生の町の喧噪が次第に薄れ、夕闇が宿の廊下を満たしていく。

 金之助殿はなおも布団の上で苦しげに息を吐いていた。
 額の汗は引かず、肩が小刻みに震える。
それでも脈は、医者の言う通り不思議なほど整っている。

 お菊様は膝を揃えたまま、金之助殿の額に手を添え、細く息を吐いた。
「……熱は高いのに……」

 斎藤が眉を寄せる。
「殿、もしや……珠の影響では」

 忠壽は答えず、懐にしまった巾着の位置へ、わずかに手を当てた。
その指先に、微かな温みが伝わる。

 ――脈打っている。
鉄之介が苛立たしげに鼻を鳴らした。
「珠、珠って言うけどよ。金之助の具合がこんななのに、脈が平気ってのが一番気味悪ぃ」

「……恐らく、辰の珠が“深く宿ろうとしておる”」
お菊様は静かに言った。

「器に完全に馴染む前は、身体が拒むような熱を出すことがあります。
 けれどこの熱は病ではなく……“変化の兆し”です」

「変化だぁ?」
 鉄之介が眉をひそめる。

「……はい。
もし金之助殿の心が弱れば、辰の珠はその隙へ入り込みます。

 力は増すでしょう。けれど――そのぶん、代償も大きい」
忠壽が低く言葉を足した。

「今夜は警戒を固める。斎藤、吉村。廊下と裏口を見張れ」

「はっ」
 若い家臣・吉村が頭を下げ、斎藤と共に外へ出る。

 三平と平八は部屋の隅で縮こまり、息を殺していた。
 平八は先ほどまでの勢いが嘘のように青ざめ、巾着のあった胸元を握りしめている。

「……すまねぇ、兄ちゃん……」
 小さな声が漏れた。

 三平は震える手で弟の頭を押さえた。
「いい……もういい……。生きてりゃそれで……」

 お菊様は二人に目を向け、少しだけ声音を和らげた。
「今は休みなさい。
 あなたたちのせいではありません。珠の宿命が……人を巻き込むのです」

 その言葉に、三平は畳に額を擦りつけるように頭を下げた。
「お、奥方様……ありがとうございます……」

 やがて灯が落とされ、夜が宿を包んだ。
外は灰混じりの風が唸り、どこかで犬が遠吠えをしている。

 その時だった。

 ――とん。
 廊下の向こうで、木板が鳴る音。
忠壽の眼が鋭く開く。

 鉄之介も大槌に手をかけ、気配を殺した。

 ――とん、とん。
 今度は、裏手へ回る足音。
宿の常連の歩き方ではない。

 忍びの、地を舐めるような足運び。
忠壽は息を吐き、低く呟いた。
「……来たか」

 障子の向こうから、吉村のひそめた声が届く。
「殿、裏手に二つ……いや、三つの影。
 伊賀者の装束にございます」

 鉄之介が歯を食いしばった。
「ちっ、しつけぇ連中だ」

 お菊様が数珠を握る。
その数珠が、かすかに鳴った。

 朱・紅・黄の珠と同じように、微かに震えている。

「皆、下がって」
 お菊様の声が凛と響く。

「三平、平八を連れて部屋の奥へ。
 金之助殿の側から離れないように」

「な、はい!」
 三平は弟を抱えるようにして奥へ退く。

 忠壽は静かに刀に手を置いた。
「鉄之介、廊下。
 俺は裏から入る者を斬る」

「合点だ」
鉄之介が障子を開け放ち、廊下へ出る。
 同時に――裏手の窓が、音を立てずに開いた。

 黒装束が三つ。
闇と同化したような影が滑り込む。
闇が滑った。

 忠壽が振り返るより早く、黒装束の指が懐へ潜り込み、巾着を奪い取った。
「――もらうぞ」

 忍びは屋根へ跳ね、灰の夜気を裂いて走る。 

「止まれ!」
 忠壽が追う。

 鉄之介も大槌を肩に、地面を蹴った。
宿の裏庭へ躍り出たとき、距離はすでに詰まっていた。

 伊賀は塀へ飛び移ろうとする。
その足元へ――

「逃がすかよ!
鉄之介が先回りするように踏み込み、
 大槌を横薙ぎに振るった。

 ごうっ!
空気が裂け、塀の一部が粉のように砕け散る。
 伊賀は跳び上がる暇もなく、真横へ転がった。
「……っ!」

 鉄之介は続けざまに一歩踏み込み、
槌の柄で塀の逃げ道を塞ぐように突き立てる。

 どん。
地が鳴り、灰が跳ねた。

 裏庭に「逃げ場のない円」ができる。
「おい伊賀ぁ。
 それ以上動きゃ、潰すぞ」

 鉄之介の声は、夜の底へ沈むように低い。
 伊賀は巾着を握りしめたまま、息を荒くして後ずさった。

 視線は鉄之介の大槌、忠壽の刀、そして逃げ道のない闇を行き来する。
「……ちっ」

 忠壽が一歩前へ出る。
「巾着を置け。
 貴様の手に余る」

 伊賀は歯を剥き、巾着を胸に抱え込んだ。
「黙れ……! 俺は命じられている。
 この珠を持ち帰れば――」

 言いかけた瞬間、伊賀は鉄之介の圧に耐えきれず、最後の逃走へ賭けた。
 巾着を握り直し、塀の影へ身を躍らせる。

「――逃げるぞ!」
鉄之介が槌を振り上げる、その直前。

 巾着の中で、鼓動がひとつ跳ねた。
伊賀の手の内で、布が どくん と膨らむ。
 伊賀が力を込めたわけではない。
むしろ、握る手が緩んだのに、内側から勝手に震えだした。

「……ッ? な、なんだ……」
伊賀は空中で体勢を崩した。

 逃げようとした足が、半歩遅れる。
どくん, どくん。
脈動が速まり、巾着の口の結び目が、指も触れていないのにほどけていく。

「お、おい……やめろ……!」
伊賀の声は、恐怖で裏返る。

 結び目が落ちた。
ころり、と珠が砂利の上へ転がる。

 鉄之介が思わず息を呑む。
「……勝手に出やがったぞ」

 珠は止まらない。
ころころと転がり、ふいに 跳ねた。

 ――生き物のように。
次の瞬間、珠が ふわり と宙へ浮かぶ。

 糸も風もないのに、まるで自分の意志で身体を起こすように。

 珠の色が変わりはじめた。
赤黒い濁りが剥がれ、深い朱が滲み出す。

 宿の中――
金之助殿の胸が大きく上下した。
「……ッ」

 朱の脈動が布団越しに強くなる。
裏庭の珠の鼓動と、ぴたりと重なる。

 呼応。
空気が沈み、灰が舞い上がった。

 珠は伊賀の方へ、ゆっくり“向き直る”。
伊賀は、動けない。
「な……なんだこれは……!
 俺は……俺は何も――!」

 珠が すっ と間合いを詰め、
伊賀の胸へ触れた。

 音は小さい。
だが衝撃は内側から雷のように炸裂した。
「ぐああああっ!」

 器なき身体が、朱の奔流に耐えきれず壊れていく。
 血管が浮き、肉が裂け、骨が軋む。

 珠は離れない。
まるで“噛みついた獣”のように鼓動を打ち込み続ける。

 どくん。
伊賀の背がのけ反り、次の瞬間、灰の上へ崩れ落ちた。

 静寂。
朱の珠だけが宙に残り、ゆっくりと旋回する。

 ――まるで、敵を掃除し終えた意志あるもののように。
伊賀の忍びが喉を裂かれ、灰の上へ崩れ落ちた。

 朱の珠だけが、ゆっくりと旋回をつづけている。

 その光景を、残る二つの黒装束が呆然と見つめた。
「……っ、なにが……起きた……」

 ひとりが声を絞り出す。
もうひとりは、言葉すら失っていた。

 仲間は、珠に触れたわけでもない。使おうとしたわけでもない。
 ただ奪って逃げようとしただけで――内側から壊された。

 朱の鼓動が、夜気を押し潰すように重く響く。

 珠は静かだ。
だがその静けさが、獣の前の沈黙のように不気味だった。
「……や、やめろ……」

 忍びのひとりが、かすれた声で後ずさる。
「こんな……こんなはずじゃ――」
次の瞬間、二人は同時に身を翻した。

 逃げる。
珠が何をするか分からない。

 忠壽と鉄之介に挟まれていることすら、一瞬忘れたように。
「引け! 引けぇ!」
 黒装束が裏庭の闇へ滑り出す。

 だが――
「逃がすかよ」
鉄之介の低い声が背骨を貫いた。

 大槌が唸りを上げる。
横薙ぎではない。
逃げ道を断つための、地を抉る一撃。

 ごうん!
槌が地面を叩くと、灰と砂利が爆ぜ、
黒装束の足元が跳ね上がった。
「うわっ――!」
体勢を崩した忍びが転がる。

 そこへ、鉄之介が踏み込み――槌の影が覆いかぶさる。
「ちっ……!」

 忍びは必死に転がって避けた。
だが、その一瞬の遅れが命取りだった。

 ――すぱり。
忠壽の刀が夜を裂いた。
 逃げかけたもうひとりの忍びの背へ、無駄のない一閃。

 黒装束が口を開く暇もなく、血が霧となって散る。
「……っ!」
忍びは膝をついた。

 忠壽は容赦しない。
追いすがり、喉元へ鋭い二の太刀。

 ずん。
息が途切れ、影は倒れた。
 残った一人がそれを見て、目を見開く。

 武士の剣の冴え。
怪物のような大槌の圧。
そして、宙に浮く朱の珠の“意思”。

 退くべき時など、とっくに過ぎていた。
「く、くそ……!」
 忍びは最後の賭けに、塀へ飛びつく。

 だが――
「おせぇんだよ」
鉄之介が半身で追いつき、
大槌の柄で塀の上を薙いだ。

 ばきん!
木が砕け、忍びの腕が折れる音がした。
忍びは悲鳴も上げられず落下する。

 地に落ちた影へ、忠壽が静かに踏み込んだ。
「――伊賀の影は、ここまでだ」

 刃が走る。
忍びの胸から腹へ、真っ直ぐに貫く一刺し。
 黒装束の身体が跳ね、喉の奥で空気が抜けた。
「……ぐ……」
そのまま、灰の庭へ崩れ落ちる。

 夜が戻った。
残ったのは、血の匂いと、宙に浮く朱の珠の鼓動だけ。

 珠は一度だけ脈を落とし、
まるで「役目は終わった」とでも言うように、ゆっくり宿の方へ向き直った。

 宿の中で、金之助殿の熱の鼓動が、同じ速さで鳴っていた。
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アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

元亀戦記 江北の虎

西村重紀
歴史・時代
浅井長政の一代記です

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

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