42 / 43
42 決戦、武蔵と忠壽
しおりを挟む
第四話 決戦、武蔵と忠壽
廃村の入口で、灰がひときわ深く積もっている。
足を置いた瞬間、沈む音が鈍く返った。
闇の奥から現れた岩のような巨体。
そして、その影に寄り添うように立つ女。
武蔵。
お蘭。
鉄之介が大槌を肩から外した。
いつもの乱暴な呼吸ではない。
鼻の奥で、火が燃えている。
「……俺が行く」
その一歩が出かけた瞬間、忠壽の刀が鞘の中で鳴った。
――す、と。
忠壽が鉄之介の前へ出る。
それは“止めた”というより、当然の順番を取り戻したような動きだった。
「ここは、俺が斬る」
鉄之介が口を開く。
反発ではない。ただ、確認だ。
「……忠壽…」
鉄之介は、はじめて忠壽を名で呼んだ。
「…死ぬなよ」
忠壽は振り返らない。
代わりに、刀の柄に指を添え直すだけで返した。
武蔵が笑った。
喉の奥が鳴るような、獣の笑いだ。
「へえ……侍の方が出てくるか」
武蔵の肩が揺れる。
右腕がついている。
だが――
布の下で、縫い目のような黒い筋が脈打っていた。
武蔵は鉞を地面へ落とすように構える。
刃が灰を切り裂き、微かな火花が散った。
「どっちでも同じだ」
武蔵が吐き捨てる。
「お前を潰したら――次はそっちだ」
鉞の先が、鉄之介を指す。
「待ってろよ、うすのろの坊主」
鉄之介の目が細くなる。
だが、前へは出ない。
忠壽の背を信じている。
忠壽は、武蔵を見たまま言った。
「……貴様、たしか武蔵と名乗ったな」
武蔵が口を歪める。
「覚えてもらえて光栄だぜ。
甲賀の野郎」
忠壽が、ほんの僅かに刃を抜く。
鈍い光が闇に走った。
「では――」
声が落ちる。
「相手を願おう」
その瞬間。
忠壽の刀が、眩しく光った。
――ぎん。
刃の輝きが、灰の空気を裂く。
武蔵の笑みが一瞬だけ薄れた。
お蘭が、後ろでくすっと笑う。
指先で口元を隠しながら、目だけが冷たい。
「……あんた、やるじゃない」
言い方は軽い。
でも視線は、忠壽の“刀の動き”に釘付けだ。
忠壽が踏み込む。
音がしない。
いや――
忠壽の耳に“音が入ってこない”だけなのかもしれない。
しかし、刃は正確だった。
武蔵の鉞が跳ね上がる。
――どんッ!!
地面が沈む。
灰が爆ぜ、空気が潰れる。
忠壽は刃を滑らせ、鉞の柄を削りながら横へ抜けた。
紙一重。
武蔵の巨体の横を、影のようにすり抜ける。
武蔵の目が血走る。
「――ちょこまかとォ!!」
鉞が横薙ぎ。
廃屋の柱が巻き込まれ、木が裂けて宙を舞った。
鉄之介が思わず息を呑む。
「……あぶねえ」
だが忠壽は動じない。
刃を下げる。
――す、と。
武蔵の鉞が空を切った瞬間、忠壽は“そこ”へ刃を刺し込んだ。
ぎんッ!!
金属と金属が噛み合い、火花が散る。
武蔵が押し込む。
忠壽が受ける。
体格差が、あまりにも残酷だ。
武蔵の鉞がじわじわと忠壽を押し潰しにかかる。
そのとき。
武蔵の右腕が、ぴくりと痙攣した。
傷跡が、波打つ。
まるで肉が“ずれて戻ろう”としているみたいに。
武蔵自身も、ほんの一瞬だけ眉を寄せる。
だがすぐ、歯を剥くように笑って押し込んだ。
「どうしたァ、甲賀ァ!!」
忠壽の足が、灰の中で沈んだ。
だが――
沈んだ分だけ、忠壽の刃が鋭くなる。
「……押すな」
忠壽が呟いた。
次の瞬間。
忠壽の刀が、鉞の“重さ”を受け流した。
押し返すのではない。
外へ流す。
武蔵の重心が、僅かにズレる。
その一瞬を、忠壽は逃さない。
――しゃっ!!
刃が走る。
武蔵の胸元を浅く裂き、
布と皮膚が一筋、赤く割れた。
武蔵の目が見開かれる。
「……ッ!!」
血が滲む。
だが武蔵は痛みより先に、怒りを燃やした。
「舐めんなッ!!」
武蔵は鉞を引き戻し、
今度は“叩き潰す”角度で振り下ろす。
――ぶおんッ!!
空気が鳴く。
廃村の闇が、揺れる。
忠壽が踏み込む。
刃を低く構え、武蔵の懐へ――
そのとき、お蘭が笑った。
「武蔵、気をつけな」
軽い口調。
「その人、目が死んでないよ」
武蔵の鉞が一瞬だけ止まる。
いや、止まったのは武蔵の“心”だった。
忠壽の刃が、そこへ滑り込む。
――ぎらッ!!
武蔵の鉞の柄が、削られた。
木屑が飛ぶ。
武蔵の右腕がまた痙攣する。
布の下で、何かが“裂ける”感触。
武蔵が舌打ちした。
「……チッ」
鉞を引き戻し、肩で呼吸をする。
その間にも、右腕の縫い筋が脈打ち、“繋がったもの”がまだ安定していないのが見て取れた。
鉄之介が、思わず低く言った。
「……武蔵、変だぞ」
忠壽は何も言わない。
ただ、刀を構え直す。
武蔵が歪んだ笑みを作る。
「変でも強ぇ」
鉞が上がる。
「お前を叩き割ってから――食って治すだけだ」
忠壽の刃が、もう一度光った。
静かに言う。
「……食う暇を与えぬ」
次の瞬間、忠壽が消えた。
灰が舞う。
武蔵が振り下ろす。
忠壽の刃が走る。
闇と火花が、廃村を裂いた。
武蔵が一歩、下がった。
巨体が退く――それだけで、廃村の空気がわずかに緩む。
だが忠壽は、緩ませない。
間合いが開く前に、忠壽が詰めた。
――す、と。
足音がない。
灰の上を滑るように、距離だけを奪っていく。
武蔵が鉞を持ち直しながら、舌打ちする。
「……ちっ」
息が荒い。
さっき裂かれた胸元から血が滲む。
だが武蔵の視線は、その傷ではない。
右腕。
布の下で、傷跡がまた波打った。
皮膚が勝手に裂けようとしている。
指が一瞬、言うことをきかない。
武蔵は気づかれぬように、拳を握り直す。
その仕草が、怒りより先に“焦り”を滲ませた。
鉄之介が、息を詰めたまま見ている。
口を挟めない。茶化せない。
忠壽の背に、迷いがないからだ。
「……下がるな」
忠壽が言った。
低く、淡々と。
「何だと」
武蔵が歯を剥く。
忠壽は刀を少しだけ下げ、刃先を武蔵の喉元へ向けたまま続ける。
「貴様は一度、距離を取ると――喰う」
一拍。
「ならば、取らせぬ」
武蔵の目が、ぴくりと動く。
図星だ。
鉄之介が口の中で、短く舌打ちした。
忠壽は、見ていた。
武蔵が“回復”するために、わざと退く癖を。
武蔵が笑おうとした。
だが笑いが形にならない。
右腕の縫い筋が、また脈を打ったからだ。
布の下で、肉がずれている。
縫い合わせたはずのものが、勝手に“ほどけたがっている”。
武蔵はそれを、左手で無意識に押さえた。
忠壽の目が、そこへ落ちる。
ほんの一瞬。
その一瞬で、武蔵は悟った。
――見抜かれた。
「……うるせえ」
武蔵の声が低くなる。
怒りではない。
獣が、縄張りを脅かされたときの声だ。
「喰う暇を与えねえって?」
武蔵が鉞を肩に担ぎ直す。
重さが、風を押し潰す。
「ならよォ――」
武蔵が前へ出る。
踏み込みだけで、地面が沈む。
「一撃で終わらせりゃいいんだろ」
鉞が上がる。
刃が闇を裂き、鈍い月明かりを反射した。
その瞬間。
お蘭の目が、わずかに光った。
口元は笑っているのに、目だけが冷たく細い。
「……武蔵。派手にやりすぎ」
小声。
忠壽には届かない距離だが、鉄之介には聞こえた。
鉄之介が、目だけでお蘭を睨む。
だが、お蘭は気にしない。
口の中で、何かを噛んだ。
舌の上で砕ける。
毒だ。
――だが吐かない。
美貌を崩さぬために。
体内に留めるために。
それが、お蘭の癖だ。
そして、戦いの幅を縛る鎖でもある。
「……使えよ」
鉄之介が低く呟いた。
お蘭は軽く肩をすくめる。
「嫌だねえ。顔が崩れる」
笑って言いながら、手は袖の奥で震えた。
自分でも分かっている。
それが“半分の力”でしかないことを。
武蔵の鉞が振り下ろされる。
――ぶおんッ!!
風が鳴いた。
闇が裂けた。
灰が巻き上がり、廃屋の壁が一枚、吹き飛んだ。
忠壽は、踏み込む。
正面から受けない。
刃が、鉞の落ちる軌道の外へ滑る。
そして――そのまま、武蔵の懐へ入った。
武蔵が咆える。
「――ちょこまかァ!!」
鉞の柄が横に返り、忠壽を薙ごうとする。
忠壽が半歩だけ遅らせ、柄を刃で擦りながら抜ける。
火花。
ぎぎぎ、と金属音。
そのとき、忠壽の表情がほんの僅かに歪んだ。
――音が、遅れた。
耳の中で、世界の手応えが一瞬だけ薄くなる。
鉞の風切り。
砂の散る音。
鉄之介の息。
それらが、遠い。
忠壽の足が、ほんの僅かに止まった。
武蔵は見逃さない。
鉞が返る。
――どんッ!!
忠壽の肩口を、鉞の柄が掠めた。
骨が鳴った。
血が散った。
鉄之介の喉が鳴る。
「……忠壽!!」
叫びそうになって、飲み込んだ。
叫べば、忠壽の集中を乱す。
忠壽は、肩の痛みを“なかったこと”にするように息を吐く。
そして、武蔵の目をまっすぐ見た。
「……今のは」
一拍。
「聞こえなかった」
武蔵が鼻で笑う。
「はは。耳が死んでるって噂は本当かよ」
忠壽は答えない。
答える必要がない。
刀が答える。
忠壽の刃が、武蔵の鉞の柄をもう一度削った。
今度は深い。
木が裂け、芯が見えた。
武蔵の目が変わる。
「……この野郎」
怒りが、ようやく形になる。
右腕がまた痙攣した。
傷跡が波打つ。
指が止まる。
武蔵の喉が、ぐ、と鳴る。
喰わないと――
鉄之介が、思わず拳を握り締めた。
武蔵の“癖”が見えた。
あの一瞬の、目の泳ぎ。
忠壽は、さらに一歩詰める。
「喰うな」
武蔵が唾を吐く。
「喰うさ」
忠壽の刃が、静かに構え直された。
「喰わせぬ」
言葉が落ちた瞬間、
忠壽の身体が、影のように低く沈む。
次の瞬間――
忠壽が、武蔵の右腕を狙った。
傷跡。
繋ぎ目。
そこへ、刃が走る。
――ぎらッ!!
武蔵が鉞を振り戻して防ぐ。
だが間に合わない。
忠壽の刃先が、布を裂いた。
布の下の傷跡が、一瞬露出する。
肉が黒く脈打ち、裂け目が開きかける。
武蔵が、初めて“恐れ”を見せた。
「……ッ!!」
ほんの一瞬の恐れ。
それだけで、忠壽の刃はさらに鋭くなる。
鉄之介が、焚き火もない闇の中で小さく呟いた。
「……いける」
茶化さない声。
本気の声。
お蘭の笑みが、消えた。
目だけが細くなる。
「……ちょっと、まずいねえ」
袖の奥で、指が動く。
毒を、吐くか。
――吐けば、美貌が崩れる。
でも吐かなければ、武蔵が斬られる。
その葛藤が、お蘭の唇を歪ませた。
武蔵は歯を剥き、鉞を振り上げる。
――ぶおんッ!!
今度は、逃げずに振る。
守りではない。
“切り返し”でもない。
命を賭けた、ただの破壊。
忠壽は、肩口の血を垂らしたまま、踏み込んだ。
刃が光る。
武蔵の鉞が落ちる。
忠壽の刃が、先に届く。
闇が裂ける。
火花が散る。
そして――
武蔵の右腕の傷跡が、ぶつりと波打った。
武蔵の顔が、ほんの僅かに歪む。
繋がっている。
だが、繋がりきっていない。
崩れる。
喰わなければ、保てない。
忠壽の刃が、そこへ――
武蔵が鼻で息を吐いた。
胸元から滲む血よりも――
意識が向いているのは、右腕だ。
失われたはずの右腕は、確かにそこにある。
動く。握る。鉞を振れる。
だが――
腕に残る黒い線が、夜目にも浮いていた。
線は繋がった跡。
傷ではない。
“境目”だ。
そこだけ、肉と骨が、まだ完全に馴染みきっていない。
うっすらと脈を打ち、
皮膚の奥で、何かが勝手に崩れようとする。
指が一瞬、言うことをきかない。
武蔵は気づかれぬように拳を握り直し、肩を強く鳴らした。
――喰わねえと、保たねえ。
その焦りが、怒りより先に滲んだ。
忠壽の目が、そこへ落ちる。
ほんの一瞬。
だが、それで十分だった。
武蔵は悟った。
――絶体絶命かぁ。
忠壽はさらに一歩詰めた。
刃先が、武蔵の右腕――肘先の黒い線へ吸い寄せられるように滑る。
武蔵が鉞を返す。
「狙ってんじゃねえぞ、甲賀ァ!!」
――ぶおんッ!!
鉞の風圧が、忠壽の頬を叩いた。
廃屋の壁が軋み、灰が巻き上がる。
だが忠壽は、退かない。
退くどころか、さらに踏み込む。
武蔵の懐。
鉞が最も重く、最も遅れる場所。
忠壽の刃が、闇を割った。
ぎらッ。
武蔵が歯を剥く。
鉞の柄で受けに来る――
その動きが、ほんのわずかに鈍い。
右手の指が、また止まった。
武蔵の目尻が引きつる。
怒りの歪みじゃない。
“崩れ”を抑える歪みだ。
忠壽はそこを見逃さない。
「……今のは」
一拍。
「崩れたな」
武蔵が吼えた。
「うるせえ!!」
鉞が落ちる。
――どんッ!!
地面が沈む。
石が砕ける。
忠壽の足元の灰が爆ぜた。
だが忠壽は、その落ちた鉞の“外”へ出ない。
武蔵の足元へ潜り、右肘先の黒い線へ――刃を走らせる。
武蔵の目が、初めて揺れた。
「……ッ!!」
黒い線が、わずかに裂けかけた。
血ではない。
肉が“ほどける前兆”のように、皮膚が不気味に波打つ。
武蔵は反射で右腕を引いた。
肘先を押さえ込む。
その瞬間。
忠壽の刃が、さらに深く入った。
――ぎりッ!!
境目の上を、刃が滑る。
肉が鳴る。
武蔵の右腕が、ぶるりと震えた。
鉄之介が、息を飲んだ。
茶化す声は出ない。出せない。
忠壽が“勝てる筋”を掴んだのが分かったからだ。
お蘭の笑みが消えた。
「……ちょっと、まずいねえ」
袖の奥で、指が動く。
毒を吐く準備だ。
だが、吐かない。
吐けば顔が崩れる。
吐けば女が終わる。
お蘭の中で、計算が走る。
――まだ。
――まだ吐かない。
――武蔵が持ちこたえるなら。
武蔵は、忠壽の刃を振り払うように鉞を引き上げた。
左腕だけで。
大鉞が持ち上がる。
筋肉が浮き、背の皮が裂けるように盛り上がる。
武蔵の右腕――肘先の黒い線が、さらに波打った。
裂けそうになる。
武蔵の喉が、ぐ、と鳴った。
喰う。
喰えば保つ。
喰わなきゃ崩れる。
その衝動が、顔に出る。
忠壽が踏み込む。
武蔵が笑った。
武蔵の鉞が、今度は――
忠壽の頭上へ落ちた。
忠壽は避けない。
避けずに、前へ。
刃が光る。
鉞が落ちる。
忠壽の刃が先に届く。
闇が裂けた。
火花が散る。
その瞬間――
武蔵の右肘先の黒い線が、ぶつりと“切れかけた”。
武蔵の顔が、歪む。崩れる。
「……くそがァァァ!!」
武蔵は、忠壽を押し潰すのではなく――
“距離を作る”ために鉞を振った。
忠壽の身体が、弾かれる。
――どんッ!!
石畳が跳ね、灰が舞い、忠壽が数歩滑った。
武蔵は、その隙に――
口元を歪めて、地面の何かを掴みにいく。
鉄之介の目が、完全に変わった。
「……喰う気だ」
鉄之介は一歩踏み出しかけ――
忠壽の背が、静かに手を上げて止めた。
行くな。
これは、俺が斬る。
その合図だった。
鉄之介は拳を握り締め、歯を食いしばる。
お蘭が、ついに舌の奥で毒を噛み砕いた。
――吐くか。
お蘭の目が、忠壽ではなく――
武蔵の“崩れかけた肘先”へ向く。
「……しゃあないね」
小さく呟いた。
その瞬間だった。
武蔵は、地面へ手を伸ばした。
廃村の地面は、灰と泥と血で濡れている。
そこに転がっていた――人の腕。
乾きかけた肉。
誰のものか分からない、半端な死体の欠片。
武蔵は迷わない。
掴んで、口へ突っ込む。
ぐちり。
骨が砕け、歯が鳴り、喉が動く。
武蔵は嚥下しながら、右肘先を強く握り締めた。
――治れ。
喰った。
だから治る。
いつもそうだった。
武蔵の目が、右腕を見る。
黒い境目が――
じわり、と蠢いた。
肉が寄る。
骨が繋がろうとする。
皮膚が張り直す。
武蔵の口角が上がりかけた。
「……ほらよ」
だが。
次の瞬間。
ぶつり。
“繋がりかけたもの”が、また勝手にほどけた。
右手の指が――
一瞬で、指先から砂みたいに崩れた。
血が出るのではない。
肉が裂けるのでもない。
“壊れる”。
武蔵の瞳が、初めて大きく見開かれた。
「……ッ、は?」
右手が、握れない。
鉞の柄を持つ指が、力を失っていく。
爪が剥がれ、皮膚が乾き、
骨の輪郭だけが浮いて、また肉が落ちる。
武蔵は舌打ちし、喉の奥に残った肉を無理やり飲み込んだ。
――足りねえ。
武蔵はさらに掴む。
さらに喰う。
喰えば、戻る。
喰えば、治る。
そのはずだ。
忠壽は動かない。
武蔵が喰うのを、止めない。
ただ、目だけを細めている。
“治っていない”ことを――
もう確信している目だった。
鉄之介が、息を吐いた。
「……おい」
声が低い。
いつもの荒さがない。
「……武蔵。おめえ……」
言葉が続かない。
お蘭が、小さく笑おうとして――
笑えなかった。
武蔵の右腕を見たからだ。
武蔵は、喰った。
何度も喰った。
喉が裂けそうになるほど喰った。
だが、右腕は戻らない。
戻りかけては崩れ、崩れかけては寄り、寄ったそばから、また壊れる。
まるで、肉の中に
“治るな”という命令が埋め込まれているみたいに。
武蔵の額に汗が滲む。
歯を食いしばる。
だが、それでも――焦りが抑えられない。
「……なんだよこれ」
武蔵の声が、初めて掠れた。
「喰ったのに……」
忠壽が、静かに言った。
「……喰っているのに」
一拍。
「……追いついておらぬ」
武蔵の顔が歪む。
怒りだ。
しかし、怒りの奥に――恐れが混じった。
武蔵は吼えた。
「うるせえ!」
吼えながら、左手で鉞を振り上げる。
右手が握れない。
だから左だ。
だが鉞は重い。
武蔵の巨体でも、片腕では“鈍る”。
忠壽の身体が、ふっと消えた。
前ではない。横でもない。
武蔵の“右”へ。
崩れかけた右腕側へ。
武蔵が目で追う。
遅い。
忠壽の刃が、黒い境目へ滑り込んだ。
ぎら。
武蔵の右腕の“黒線”を、なぞるように。
武蔵の喉が鳴る。
「やめ――」
言葉が終わる前に、忠壽の刃が走った。
――すぱん。
音は軽い。
肉が斬れた音じゃない。
骨が折れた音でもない。
“繋がっていたもの”が、繋がっていなかったと証明される音。
武蔵の右腕――
肘先から下が、落ちた。
ぼとり。
前腕と手が、灰の地面へ転がる。
武蔵の目が、落ちた腕を見る。
その目が、一瞬だけ子供みたいに揺れた。
「……あ?」
武蔵は左手で鉞を持ったまま、落ちた前腕を拾おうとする。
だが。
拾えない。
指が無いからじゃない。
拾う前に、腕そのものが崩れ始めた。
砂みたいに。
肉が、骨が、灰へ混じっていく。
武蔵の目が震える。
「……戻れ」
命令のように呟く。
「戻れよ……!」
喰えば戻る。
喰えば治る。
それが武蔵の世界だった。
なのに――戻らない。
武蔵は、初めて焦った。
初めて、恐れた。
忠壽は、そんな武蔵を見下ろし、息を吐いた。
「……武蔵」
武蔵が顔を上げる。
忠壽の刃は、もう揺れていない。
静かで、冷たい。
「貴様は、喰うことで生きてきた」
一拍。
「……だが」
忠壽の目が細くなる。
「喰うことで、死ぬ身体になった」
武蔵が吼えた。
「ふざけんなァァァ!!」
左腕で鉞を振る。
無茶だ。
乱暴だ。
だが、武蔵はそれしか出来ない。
忠壽は、その鉞の軌道を――
“読んだ”わけではない。
“遅い”だけだった。
忠壽が踏み込み、
刃が武蔵の胴へ入った。
――ずん。
武蔵の巨体が、止まる。
鉞が落ちる。
武蔵の口が開き、声にならない息が漏れた。
忠壽は、もう一歩近づき、武蔵の胸元へ刃を深く押し込んだ。
「……終わりだ」
武蔵の目が、忠壽を見上げる。
怒りじゃない。
憎しみじゃない。
理解できないものを見る目だ。
「……喰えば……」
武蔵の唇が動く。
「……喰えば、治る……」
忠壽は、答えなかった。
刃を引き抜く。
武蔵の身体が、膝から落ちた。
どん。
灰が舞い上がる。
武蔵の肉が、崩れ始めていた。
右腕だけではない。
肩、胸、腹、脚――
喰って繋ぎ止めていたはずの命が、いま、まとめてほどけていく。
お蘭が、息を呑む。
「……嘘でしょ」
鉄之介が、唇を噛んだまま言った。
「……あんな化け物でも」
一拍。
「……死ぬんだな」
忠壽は武蔵の亡骸を見下ろし、
その場に残る“匂い”を吸い込んだ。
肉の匂い。
血の匂い。
そして――
“喰い続けた末路”の匂い。
忠壽は小さく息を吐き、
刃についた血を払った。
それが合図のように、廃村の闇が――
さらに深く、静かに沈んだ。
廃村の入口で、灰がひときわ深く積もっている。
足を置いた瞬間、沈む音が鈍く返った。
闇の奥から現れた岩のような巨体。
そして、その影に寄り添うように立つ女。
武蔵。
お蘭。
鉄之介が大槌を肩から外した。
いつもの乱暴な呼吸ではない。
鼻の奥で、火が燃えている。
「……俺が行く」
その一歩が出かけた瞬間、忠壽の刀が鞘の中で鳴った。
――す、と。
忠壽が鉄之介の前へ出る。
それは“止めた”というより、当然の順番を取り戻したような動きだった。
「ここは、俺が斬る」
鉄之介が口を開く。
反発ではない。ただ、確認だ。
「……忠壽…」
鉄之介は、はじめて忠壽を名で呼んだ。
「…死ぬなよ」
忠壽は振り返らない。
代わりに、刀の柄に指を添え直すだけで返した。
武蔵が笑った。
喉の奥が鳴るような、獣の笑いだ。
「へえ……侍の方が出てくるか」
武蔵の肩が揺れる。
右腕がついている。
だが――
布の下で、縫い目のような黒い筋が脈打っていた。
武蔵は鉞を地面へ落とすように構える。
刃が灰を切り裂き、微かな火花が散った。
「どっちでも同じだ」
武蔵が吐き捨てる。
「お前を潰したら――次はそっちだ」
鉞の先が、鉄之介を指す。
「待ってろよ、うすのろの坊主」
鉄之介の目が細くなる。
だが、前へは出ない。
忠壽の背を信じている。
忠壽は、武蔵を見たまま言った。
「……貴様、たしか武蔵と名乗ったな」
武蔵が口を歪める。
「覚えてもらえて光栄だぜ。
甲賀の野郎」
忠壽が、ほんの僅かに刃を抜く。
鈍い光が闇に走った。
「では――」
声が落ちる。
「相手を願おう」
その瞬間。
忠壽の刀が、眩しく光った。
――ぎん。
刃の輝きが、灰の空気を裂く。
武蔵の笑みが一瞬だけ薄れた。
お蘭が、後ろでくすっと笑う。
指先で口元を隠しながら、目だけが冷たい。
「……あんた、やるじゃない」
言い方は軽い。
でも視線は、忠壽の“刀の動き”に釘付けだ。
忠壽が踏み込む。
音がしない。
いや――
忠壽の耳に“音が入ってこない”だけなのかもしれない。
しかし、刃は正確だった。
武蔵の鉞が跳ね上がる。
――どんッ!!
地面が沈む。
灰が爆ぜ、空気が潰れる。
忠壽は刃を滑らせ、鉞の柄を削りながら横へ抜けた。
紙一重。
武蔵の巨体の横を、影のようにすり抜ける。
武蔵の目が血走る。
「――ちょこまかとォ!!」
鉞が横薙ぎ。
廃屋の柱が巻き込まれ、木が裂けて宙を舞った。
鉄之介が思わず息を呑む。
「……あぶねえ」
だが忠壽は動じない。
刃を下げる。
――す、と。
武蔵の鉞が空を切った瞬間、忠壽は“そこ”へ刃を刺し込んだ。
ぎんッ!!
金属と金属が噛み合い、火花が散る。
武蔵が押し込む。
忠壽が受ける。
体格差が、あまりにも残酷だ。
武蔵の鉞がじわじわと忠壽を押し潰しにかかる。
そのとき。
武蔵の右腕が、ぴくりと痙攣した。
傷跡が、波打つ。
まるで肉が“ずれて戻ろう”としているみたいに。
武蔵自身も、ほんの一瞬だけ眉を寄せる。
だがすぐ、歯を剥くように笑って押し込んだ。
「どうしたァ、甲賀ァ!!」
忠壽の足が、灰の中で沈んだ。
だが――
沈んだ分だけ、忠壽の刃が鋭くなる。
「……押すな」
忠壽が呟いた。
次の瞬間。
忠壽の刀が、鉞の“重さ”を受け流した。
押し返すのではない。
外へ流す。
武蔵の重心が、僅かにズレる。
その一瞬を、忠壽は逃さない。
――しゃっ!!
刃が走る。
武蔵の胸元を浅く裂き、
布と皮膚が一筋、赤く割れた。
武蔵の目が見開かれる。
「……ッ!!」
血が滲む。
だが武蔵は痛みより先に、怒りを燃やした。
「舐めんなッ!!」
武蔵は鉞を引き戻し、
今度は“叩き潰す”角度で振り下ろす。
――ぶおんッ!!
空気が鳴く。
廃村の闇が、揺れる。
忠壽が踏み込む。
刃を低く構え、武蔵の懐へ――
そのとき、お蘭が笑った。
「武蔵、気をつけな」
軽い口調。
「その人、目が死んでないよ」
武蔵の鉞が一瞬だけ止まる。
いや、止まったのは武蔵の“心”だった。
忠壽の刃が、そこへ滑り込む。
――ぎらッ!!
武蔵の鉞の柄が、削られた。
木屑が飛ぶ。
武蔵の右腕がまた痙攣する。
布の下で、何かが“裂ける”感触。
武蔵が舌打ちした。
「……チッ」
鉞を引き戻し、肩で呼吸をする。
その間にも、右腕の縫い筋が脈打ち、“繋がったもの”がまだ安定していないのが見て取れた。
鉄之介が、思わず低く言った。
「……武蔵、変だぞ」
忠壽は何も言わない。
ただ、刀を構え直す。
武蔵が歪んだ笑みを作る。
「変でも強ぇ」
鉞が上がる。
「お前を叩き割ってから――食って治すだけだ」
忠壽の刃が、もう一度光った。
静かに言う。
「……食う暇を与えぬ」
次の瞬間、忠壽が消えた。
灰が舞う。
武蔵が振り下ろす。
忠壽の刃が走る。
闇と火花が、廃村を裂いた。
武蔵が一歩、下がった。
巨体が退く――それだけで、廃村の空気がわずかに緩む。
だが忠壽は、緩ませない。
間合いが開く前に、忠壽が詰めた。
――す、と。
足音がない。
灰の上を滑るように、距離だけを奪っていく。
武蔵が鉞を持ち直しながら、舌打ちする。
「……ちっ」
息が荒い。
さっき裂かれた胸元から血が滲む。
だが武蔵の視線は、その傷ではない。
右腕。
布の下で、傷跡がまた波打った。
皮膚が勝手に裂けようとしている。
指が一瞬、言うことをきかない。
武蔵は気づかれぬように、拳を握り直す。
その仕草が、怒りより先に“焦り”を滲ませた。
鉄之介が、息を詰めたまま見ている。
口を挟めない。茶化せない。
忠壽の背に、迷いがないからだ。
「……下がるな」
忠壽が言った。
低く、淡々と。
「何だと」
武蔵が歯を剥く。
忠壽は刀を少しだけ下げ、刃先を武蔵の喉元へ向けたまま続ける。
「貴様は一度、距離を取ると――喰う」
一拍。
「ならば、取らせぬ」
武蔵の目が、ぴくりと動く。
図星だ。
鉄之介が口の中で、短く舌打ちした。
忠壽は、見ていた。
武蔵が“回復”するために、わざと退く癖を。
武蔵が笑おうとした。
だが笑いが形にならない。
右腕の縫い筋が、また脈を打ったからだ。
布の下で、肉がずれている。
縫い合わせたはずのものが、勝手に“ほどけたがっている”。
武蔵はそれを、左手で無意識に押さえた。
忠壽の目が、そこへ落ちる。
ほんの一瞬。
その一瞬で、武蔵は悟った。
――見抜かれた。
「……うるせえ」
武蔵の声が低くなる。
怒りではない。
獣が、縄張りを脅かされたときの声だ。
「喰う暇を与えねえって?」
武蔵が鉞を肩に担ぎ直す。
重さが、風を押し潰す。
「ならよォ――」
武蔵が前へ出る。
踏み込みだけで、地面が沈む。
「一撃で終わらせりゃいいんだろ」
鉞が上がる。
刃が闇を裂き、鈍い月明かりを反射した。
その瞬間。
お蘭の目が、わずかに光った。
口元は笑っているのに、目だけが冷たく細い。
「……武蔵。派手にやりすぎ」
小声。
忠壽には届かない距離だが、鉄之介には聞こえた。
鉄之介が、目だけでお蘭を睨む。
だが、お蘭は気にしない。
口の中で、何かを噛んだ。
舌の上で砕ける。
毒だ。
――だが吐かない。
美貌を崩さぬために。
体内に留めるために。
それが、お蘭の癖だ。
そして、戦いの幅を縛る鎖でもある。
「……使えよ」
鉄之介が低く呟いた。
お蘭は軽く肩をすくめる。
「嫌だねえ。顔が崩れる」
笑って言いながら、手は袖の奥で震えた。
自分でも分かっている。
それが“半分の力”でしかないことを。
武蔵の鉞が振り下ろされる。
――ぶおんッ!!
風が鳴いた。
闇が裂けた。
灰が巻き上がり、廃屋の壁が一枚、吹き飛んだ。
忠壽は、踏み込む。
正面から受けない。
刃が、鉞の落ちる軌道の外へ滑る。
そして――そのまま、武蔵の懐へ入った。
武蔵が咆える。
「――ちょこまかァ!!」
鉞の柄が横に返り、忠壽を薙ごうとする。
忠壽が半歩だけ遅らせ、柄を刃で擦りながら抜ける。
火花。
ぎぎぎ、と金属音。
そのとき、忠壽の表情がほんの僅かに歪んだ。
――音が、遅れた。
耳の中で、世界の手応えが一瞬だけ薄くなる。
鉞の風切り。
砂の散る音。
鉄之介の息。
それらが、遠い。
忠壽の足が、ほんの僅かに止まった。
武蔵は見逃さない。
鉞が返る。
――どんッ!!
忠壽の肩口を、鉞の柄が掠めた。
骨が鳴った。
血が散った。
鉄之介の喉が鳴る。
「……忠壽!!」
叫びそうになって、飲み込んだ。
叫べば、忠壽の集中を乱す。
忠壽は、肩の痛みを“なかったこと”にするように息を吐く。
そして、武蔵の目をまっすぐ見た。
「……今のは」
一拍。
「聞こえなかった」
武蔵が鼻で笑う。
「はは。耳が死んでるって噂は本当かよ」
忠壽は答えない。
答える必要がない。
刀が答える。
忠壽の刃が、武蔵の鉞の柄をもう一度削った。
今度は深い。
木が裂け、芯が見えた。
武蔵の目が変わる。
「……この野郎」
怒りが、ようやく形になる。
右腕がまた痙攣した。
傷跡が波打つ。
指が止まる。
武蔵の喉が、ぐ、と鳴る。
喰わないと――
鉄之介が、思わず拳を握り締めた。
武蔵の“癖”が見えた。
あの一瞬の、目の泳ぎ。
忠壽は、さらに一歩詰める。
「喰うな」
武蔵が唾を吐く。
「喰うさ」
忠壽の刃が、静かに構え直された。
「喰わせぬ」
言葉が落ちた瞬間、
忠壽の身体が、影のように低く沈む。
次の瞬間――
忠壽が、武蔵の右腕を狙った。
傷跡。
繋ぎ目。
そこへ、刃が走る。
――ぎらッ!!
武蔵が鉞を振り戻して防ぐ。
だが間に合わない。
忠壽の刃先が、布を裂いた。
布の下の傷跡が、一瞬露出する。
肉が黒く脈打ち、裂け目が開きかける。
武蔵が、初めて“恐れ”を見せた。
「……ッ!!」
ほんの一瞬の恐れ。
それだけで、忠壽の刃はさらに鋭くなる。
鉄之介が、焚き火もない闇の中で小さく呟いた。
「……いける」
茶化さない声。
本気の声。
お蘭の笑みが、消えた。
目だけが細くなる。
「……ちょっと、まずいねえ」
袖の奥で、指が動く。
毒を、吐くか。
――吐けば、美貌が崩れる。
でも吐かなければ、武蔵が斬られる。
その葛藤が、お蘭の唇を歪ませた。
武蔵は歯を剥き、鉞を振り上げる。
――ぶおんッ!!
今度は、逃げずに振る。
守りではない。
“切り返し”でもない。
命を賭けた、ただの破壊。
忠壽は、肩口の血を垂らしたまま、踏み込んだ。
刃が光る。
武蔵の鉞が落ちる。
忠壽の刃が、先に届く。
闇が裂ける。
火花が散る。
そして――
武蔵の右腕の傷跡が、ぶつりと波打った。
武蔵の顔が、ほんの僅かに歪む。
繋がっている。
だが、繋がりきっていない。
崩れる。
喰わなければ、保てない。
忠壽の刃が、そこへ――
武蔵が鼻で息を吐いた。
胸元から滲む血よりも――
意識が向いているのは、右腕だ。
失われたはずの右腕は、確かにそこにある。
動く。握る。鉞を振れる。
だが――
腕に残る黒い線が、夜目にも浮いていた。
線は繋がった跡。
傷ではない。
“境目”だ。
そこだけ、肉と骨が、まだ完全に馴染みきっていない。
うっすらと脈を打ち、
皮膚の奥で、何かが勝手に崩れようとする。
指が一瞬、言うことをきかない。
武蔵は気づかれぬように拳を握り直し、肩を強く鳴らした。
――喰わねえと、保たねえ。
その焦りが、怒りより先に滲んだ。
忠壽の目が、そこへ落ちる。
ほんの一瞬。
だが、それで十分だった。
武蔵は悟った。
――絶体絶命かぁ。
忠壽はさらに一歩詰めた。
刃先が、武蔵の右腕――肘先の黒い線へ吸い寄せられるように滑る。
武蔵が鉞を返す。
「狙ってんじゃねえぞ、甲賀ァ!!」
――ぶおんッ!!
鉞の風圧が、忠壽の頬を叩いた。
廃屋の壁が軋み、灰が巻き上がる。
だが忠壽は、退かない。
退くどころか、さらに踏み込む。
武蔵の懐。
鉞が最も重く、最も遅れる場所。
忠壽の刃が、闇を割った。
ぎらッ。
武蔵が歯を剥く。
鉞の柄で受けに来る――
その動きが、ほんのわずかに鈍い。
右手の指が、また止まった。
武蔵の目尻が引きつる。
怒りの歪みじゃない。
“崩れ”を抑える歪みだ。
忠壽はそこを見逃さない。
「……今のは」
一拍。
「崩れたな」
武蔵が吼えた。
「うるせえ!!」
鉞が落ちる。
――どんッ!!
地面が沈む。
石が砕ける。
忠壽の足元の灰が爆ぜた。
だが忠壽は、その落ちた鉞の“外”へ出ない。
武蔵の足元へ潜り、右肘先の黒い線へ――刃を走らせる。
武蔵の目が、初めて揺れた。
「……ッ!!」
黒い線が、わずかに裂けかけた。
血ではない。
肉が“ほどける前兆”のように、皮膚が不気味に波打つ。
武蔵は反射で右腕を引いた。
肘先を押さえ込む。
その瞬間。
忠壽の刃が、さらに深く入った。
――ぎりッ!!
境目の上を、刃が滑る。
肉が鳴る。
武蔵の右腕が、ぶるりと震えた。
鉄之介が、息を飲んだ。
茶化す声は出ない。出せない。
忠壽が“勝てる筋”を掴んだのが分かったからだ。
お蘭の笑みが消えた。
「……ちょっと、まずいねえ」
袖の奥で、指が動く。
毒を吐く準備だ。
だが、吐かない。
吐けば顔が崩れる。
吐けば女が終わる。
お蘭の中で、計算が走る。
――まだ。
――まだ吐かない。
――武蔵が持ちこたえるなら。
武蔵は、忠壽の刃を振り払うように鉞を引き上げた。
左腕だけで。
大鉞が持ち上がる。
筋肉が浮き、背の皮が裂けるように盛り上がる。
武蔵の右腕――肘先の黒い線が、さらに波打った。
裂けそうになる。
武蔵の喉が、ぐ、と鳴った。
喰う。
喰えば保つ。
喰わなきゃ崩れる。
その衝動が、顔に出る。
忠壽が踏み込む。
武蔵が笑った。
武蔵の鉞が、今度は――
忠壽の頭上へ落ちた。
忠壽は避けない。
避けずに、前へ。
刃が光る。
鉞が落ちる。
忠壽の刃が先に届く。
闇が裂けた。
火花が散る。
その瞬間――
武蔵の右肘先の黒い線が、ぶつりと“切れかけた”。
武蔵の顔が、歪む。崩れる。
「……くそがァァァ!!」
武蔵は、忠壽を押し潰すのではなく――
“距離を作る”ために鉞を振った。
忠壽の身体が、弾かれる。
――どんッ!!
石畳が跳ね、灰が舞い、忠壽が数歩滑った。
武蔵は、その隙に――
口元を歪めて、地面の何かを掴みにいく。
鉄之介の目が、完全に変わった。
「……喰う気だ」
鉄之介は一歩踏み出しかけ――
忠壽の背が、静かに手を上げて止めた。
行くな。
これは、俺が斬る。
その合図だった。
鉄之介は拳を握り締め、歯を食いしばる。
お蘭が、ついに舌の奥で毒を噛み砕いた。
――吐くか。
お蘭の目が、忠壽ではなく――
武蔵の“崩れかけた肘先”へ向く。
「……しゃあないね」
小さく呟いた。
その瞬間だった。
武蔵は、地面へ手を伸ばした。
廃村の地面は、灰と泥と血で濡れている。
そこに転がっていた――人の腕。
乾きかけた肉。
誰のものか分からない、半端な死体の欠片。
武蔵は迷わない。
掴んで、口へ突っ込む。
ぐちり。
骨が砕け、歯が鳴り、喉が動く。
武蔵は嚥下しながら、右肘先を強く握り締めた。
――治れ。
喰った。
だから治る。
いつもそうだった。
武蔵の目が、右腕を見る。
黒い境目が――
じわり、と蠢いた。
肉が寄る。
骨が繋がろうとする。
皮膚が張り直す。
武蔵の口角が上がりかけた。
「……ほらよ」
だが。
次の瞬間。
ぶつり。
“繋がりかけたもの”が、また勝手にほどけた。
右手の指が――
一瞬で、指先から砂みたいに崩れた。
血が出るのではない。
肉が裂けるのでもない。
“壊れる”。
武蔵の瞳が、初めて大きく見開かれた。
「……ッ、は?」
右手が、握れない。
鉞の柄を持つ指が、力を失っていく。
爪が剥がれ、皮膚が乾き、
骨の輪郭だけが浮いて、また肉が落ちる。
武蔵は舌打ちし、喉の奥に残った肉を無理やり飲み込んだ。
――足りねえ。
武蔵はさらに掴む。
さらに喰う。
喰えば、戻る。
喰えば、治る。
そのはずだ。
忠壽は動かない。
武蔵が喰うのを、止めない。
ただ、目だけを細めている。
“治っていない”ことを――
もう確信している目だった。
鉄之介が、息を吐いた。
「……おい」
声が低い。
いつもの荒さがない。
「……武蔵。おめえ……」
言葉が続かない。
お蘭が、小さく笑おうとして――
笑えなかった。
武蔵の右腕を見たからだ。
武蔵は、喰った。
何度も喰った。
喉が裂けそうになるほど喰った。
だが、右腕は戻らない。
戻りかけては崩れ、崩れかけては寄り、寄ったそばから、また壊れる。
まるで、肉の中に
“治るな”という命令が埋め込まれているみたいに。
武蔵の額に汗が滲む。
歯を食いしばる。
だが、それでも――焦りが抑えられない。
「……なんだよこれ」
武蔵の声が、初めて掠れた。
「喰ったのに……」
忠壽が、静かに言った。
「……喰っているのに」
一拍。
「……追いついておらぬ」
武蔵の顔が歪む。
怒りだ。
しかし、怒りの奥に――恐れが混じった。
武蔵は吼えた。
「うるせえ!」
吼えながら、左手で鉞を振り上げる。
右手が握れない。
だから左だ。
だが鉞は重い。
武蔵の巨体でも、片腕では“鈍る”。
忠壽の身体が、ふっと消えた。
前ではない。横でもない。
武蔵の“右”へ。
崩れかけた右腕側へ。
武蔵が目で追う。
遅い。
忠壽の刃が、黒い境目へ滑り込んだ。
ぎら。
武蔵の右腕の“黒線”を、なぞるように。
武蔵の喉が鳴る。
「やめ――」
言葉が終わる前に、忠壽の刃が走った。
――すぱん。
音は軽い。
肉が斬れた音じゃない。
骨が折れた音でもない。
“繋がっていたもの”が、繋がっていなかったと証明される音。
武蔵の右腕――
肘先から下が、落ちた。
ぼとり。
前腕と手が、灰の地面へ転がる。
武蔵の目が、落ちた腕を見る。
その目が、一瞬だけ子供みたいに揺れた。
「……あ?」
武蔵は左手で鉞を持ったまま、落ちた前腕を拾おうとする。
だが。
拾えない。
指が無いからじゃない。
拾う前に、腕そのものが崩れ始めた。
砂みたいに。
肉が、骨が、灰へ混じっていく。
武蔵の目が震える。
「……戻れ」
命令のように呟く。
「戻れよ……!」
喰えば戻る。
喰えば治る。
それが武蔵の世界だった。
なのに――戻らない。
武蔵は、初めて焦った。
初めて、恐れた。
忠壽は、そんな武蔵を見下ろし、息を吐いた。
「……武蔵」
武蔵が顔を上げる。
忠壽の刃は、もう揺れていない。
静かで、冷たい。
「貴様は、喰うことで生きてきた」
一拍。
「……だが」
忠壽の目が細くなる。
「喰うことで、死ぬ身体になった」
武蔵が吼えた。
「ふざけんなァァァ!!」
左腕で鉞を振る。
無茶だ。
乱暴だ。
だが、武蔵はそれしか出来ない。
忠壽は、その鉞の軌道を――
“読んだ”わけではない。
“遅い”だけだった。
忠壽が踏み込み、
刃が武蔵の胴へ入った。
――ずん。
武蔵の巨体が、止まる。
鉞が落ちる。
武蔵の口が開き、声にならない息が漏れた。
忠壽は、もう一歩近づき、武蔵の胸元へ刃を深く押し込んだ。
「……終わりだ」
武蔵の目が、忠壽を見上げる。
怒りじゃない。
憎しみじゃない。
理解できないものを見る目だ。
「……喰えば……」
武蔵の唇が動く。
「……喰えば、治る……」
忠壽は、答えなかった。
刃を引き抜く。
武蔵の身体が、膝から落ちた。
どん。
灰が舞い上がる。
武蔵の肉が、崩れ始めていた。
右腕だけではない。
肩、胸、腹、脚――
喰って繋ぎ止めていたはずの命が、いま、まとめてほどけていく。
お蘭が、息を呑む。
「……嘘でしょ」
鉄之介が、唇を噛んだまま言った。
「……あんな化け物でも」
一拍。
「……死ぬんだな」
忠壽は武蔵の亡骸を見下ろし、
その場に残る“匂い”を吸い込んだ。
肉の匂い。
血の匂い。
そして――
“喰い続けた末路”の匂い。
忠壽は小さく息を吐き、
刃についた血を払った。
それが合図のように、廃村の闇が――
さらに深く、静かに沈んだ。
0
あなたにおすすめの小説
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる