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お天気虹
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「ただいま」
「おう、お帰り」
五年以上ぶりに帰省した実家だったが、親父もお袋も妹も誰も特に驚きはしなかった。
「やっぱり、じいちゃんの言うた通りやった」
妹がニヤニヤしている。
「何が」
「兄貴が今日、戻るって」
ああ、そういうことか。
じいちゃんめ。
「で、そのじいちゃんは……また釣りかい?」
「いつもんとこ」
どうして戻ってきたのか根掘り葉掘り詮索される前に俺は自分の部屋へと戻る。
五年ぶりの俺の部屋はあの頃と――見知らぬゲーム機が増えている以外は変わらない。
「いかんっ!」
妹が慌てて俺の横をすり抜け、イケメンの並んだパッケージのゲームソフトやら薄い本の束やらを慌てて隠す。
それを後ろ手に持ち、俺には見せないようにしながら上目遣いでじっと俺を見る。
「兄貴、いつまでおるん?」
「東京の仕事はやめてきた」
「ほんまっ! 辞めたのっ? えー、冬コミ泊まる場所どうしよーっ!」
「なんだ。じいちゃん、そこまでは言わんかったんか?」
「うん。戻るってだけ……こっちで働くん?」
「なんだよ。ゲーム部屋の心配か?」
「違っ……あっ、その前になんで仕事辞めたん? パワハラ? セクハラ? 失恋?」
どれも外れだが変に付き合うと長くなりそうな気配。
妹のスイッチが入る前にと、妹の背後へと回り込もうとする――案の定、妹は自分が隠そうとしているものの存在を思い出し、こちらを向いたまま自分の部屋へと戻ってゆく。
その間に玄関へと移動して靴を履き、外へと出た。
海風を額で受ける。
港へと向かう道すがらの景色はさほど大きくは変わっていない。
見慣れた景色の中を一人歩き続ける。
狭い街だが人も減っている。
地元小学校が廃校になってからは――今は何かの施設になっているらしいが、同級生もほとんどよそへ出ていった。
妹だって勤め先は車で坂出の方まで出ているくらい。
懐かしい顔との再会など特になく、畑に囲まれた静かな小道を歩き続け、船着き場を横目にさらに進み、合併のせいで今は空き家となっている漁協の建物脇も通り抜け、桟橋へと到着した。
俺の歩く音が聞こえるくらい穏やかな、懐かしい瀬戸内の海。
おかげでじいちゃんはすぐに俺に気付いた。
立ち上がって腰を伸ばしたじいちゃんは、大きなクーラーボックスを指す。
「チヌがよっけ釣れた。ほら持て」
久々に会った孫への第一声がこれだ。
「じゃあ今朝も見たんか? お天気虹」
「今朝は見とらん。実力や」
じいちゃんは笑う。
ここいらには「お天気虹の日は大漁になる」という言い伝えがあるが、昔から勘が良かったじいちゃんはそんな言い伝えに頼らなくとも釣りも得意だ。
二人並んで実家へと向かう帰路にも誰にも会わず、じいちゃんは何も聞かない。
じいちゃんのことだから、俺が東京からこっちへ戻ってきた理由に気づいているのかもしれない。
何か事件があったわけじゃない。
嫌な人に遭ったわけでもなければ仕事でつまずいたわけでもない。
ただ窮屈だっただけ。
何もが慌ただしく、人もやたらと多く、気付いたら神経をすり減らしていた。
はじめは自分の甘えだと思ってた。
だから実家にも帰らず、都会で骨を埋めるつもりで頑張ってきた。
そんな俺に「頑張るのを辞めてみたらどうだ」と言ってくれたのは、大学時代からの親友。
普段はけっこう無口で必要最低限のことしか言わないのだが、時折口を開いて出てくる言葉はいつも芯を食っている。
どことなくじいちゃんに似たそいつの言うことは、なんかいつも腑に落ちる。
俺という生き物が生きていくためには、王越の環境が最適なのだと――そんな抽象的で詩的な理由、説明するのも面倒だし、実際にしたところで理解してくれる人はほぼ居ないだろうし。
あるような、ないような、まるで手洗い鬼さんみたいな存在感的理由。
少なくとも自宅に着いた俺たちを真っ先に出迎えた妹には絶対にわからんだろうし言いたくもない。
翌朝、夜明け前にじいちゃんに起こされた。
俺は急いで外へ出る支度をする。
こういうときって必ずお天気虹が見れるから。
まだ明けきらぬ暗い道をじいちゃんと並んで歩く。
今日も無言で――なのは、お天気虹を見るためにはそのほうがいいから。
「俗世の言葉にしがみつくと、見えるもんも見えんようなる」みたいなことを教えてもらったが、俺にはいまだによくわからない。
それでもこういうことでじいちゃんが間違うことはないから、俺は幼い頃を思い出しながら黙々と歩き続ける。
湾が見えてきたら漁協の方へは行かず、八幡さんへ続く道へと入る。
夜明け前の淡い闇色の舗装路を踏みしめながら、次第に空へと近づいてゆく。
八幡さんへと到着したとき、東の空に明るさが増した。
真上の空も濃紺から青へと変わってゆく。
境内から見下ろせる乃生湾と、その向こうには瀬戸大橋まで。
今日は天気がいい。
ゆっくりと深呼吸をする。
この朝の空気を体内に取り込んで、この世界の一部となるために。
ふいに風が凪いだ。
音も消え、世界が静寂に包まれる。
夜と朝との狭間にぼんやりと、天を衝く大きな人の姿。
こんな高い場所に居ても見上げるほどの、透けた――あれが、幼い頃に「手洗い鬼さん」と教えられた存在。
おもむろに手洗い鬼さんは乃生湾の海水を両手ですくい上げるが、不思議なことに乃生湾も海面は今もとても穏やかだ。
なのに手洗い鬼さんの手から溢れる大量の海水は朝日を浴びてキラキラと虹を作る。
まあるく、大きな、お天気虹を。
「美しいなぁ」
感嘆と涙とが自然に溢れる。
この雄大で壮大な光景を、この世界を、俺は欲していたんだと改めて思い知る。
なのに、言葉を発してしまったからか、お天気虹だけを残して手洗い鬼さんは朝日の中へ溶けて消えた。
そのお天気虹も、後を追うように儚く消える。
心の中にはまだ残る余韻を、晴れた朝の中に投影して――呼吸を忘れていたことを思い出して、大きく深呼吸する。
「また来たらええ」
「うん」
理屈では説明できない尊い時間。
妖怪なのか神様なのかそれとも別次元の存在なのか。
もしかしたら海やこの土地の遠い遠い記憶を、時代を超えて垣間見ているのかもしれない。
両手を高く上げて伸びをする。
清々しい気分。
昨日までの俺は自分が「東京から逃げ帰った」という気持ちを捨てられずにいた。
でも今は違う。
俺は、別の場所へ行ったからこそ「ここが一番いいところなんだ」と気付けたんだ。
手洗い鬼さんを見れたというそのことが、俺におかえりと、ここに居場所があるよと、伝えてくれたような気がしてならない。
<終>
手洗い鬼
「おう、お帰り」
五年以上ぶりに帰省した実家だったが、親父もお袋も妹も誰も特に驚きはしなかった。
「やっぱり、じいちゃんの言うた通りやった」
妹がニヤニヤしている。
「何が」
「兄貴が今日、戻るって」
ああ、そういうことか。
じいちゃんめ。
「で、そのじいちゃんは……また釣りかい?」
「いつもんとこ」
どうして戻ってきたのか根掘り葉掘り詮索される前に俺は自分の部屋へと戻る。
五年ぶりの俺の部屋はあの頃と――見知らぬゲーム機が増えている以外は変わらない。
「いかんっ!」
妹が慌てて俺の横をすり抜け、イケメンの並んだパッケージのゲームソフトやら薄い本の束やらを慌てて隠す。
それを後ろ手に持ち、俺には見せないようにしながら上目遣いでじっと俺を見る。
「兄貴、いつまでおるん?」
「東京の仕事はやめてきた」
「ほんまっ! 辞めたのっ? えー、冬コミ泊まる場所どうしよーっ!」
「なんだ。じいちゃん、そこまでは言わんかったんか?」
「うん。戻るってだけ……こっちで働くん?」
「なんだよ。ゲーム部屋の心配か?」
「違っ……あっ、その前になんで仕事辞めたん? パワハラ? セクハラ? 失恋?」
どれも外れだが変に付き合うと長くなりそうな気配。
妹のスイッチが入る前にと、妹の背後へと回り込もうとする――案の定、妹は自分が隠そうとしているものの存在を思い出し、こちらを向いたまま自分の部屋へと戻ってゆく。
その間に玄関へと移動して靴を履き、外へと出た。
海風を額で受ける。
港へと向かう道すがらの景色はさほど大きくは変わっていない。
見慣れた景色の中を一人歩き続ける。
狭い街だが人も減っている。
地元小学校が廃校になってからは――今は何かの施設になっているらしいが、同級生もほとんどよそへ出ていった。
妹だって勤め先は車で坂出の方まで出ているくらい。
懐かしい顔との再会など特になく、畑に囲まれた静かな小道を歩き続け、船着き場を横目にさらに進み、合併のせいで今は空き家となっている漁協の建物脇も通り抜け、桟橋へと到着した。
俺の歩く音が聞こえるくらい穏やかな、懐かしい瀬戸内の海。
おかげでじいちゃんはすぐに俺に気付いた。
立ち上がって腰を伸ばしたじいちゃんは、大きなクーラーボックスを指す。
「チヌがよっけ釣れた。ほら持て」
久々に会った孫への第一声がこれだ。
「じゃあ今朝も見たんか? お天気虹」
「今朝は見とらん。実力や」
じいちゃんは笑う。
ここいらには「お天気虹の日は大漁になる」という言い伝えがあるが、昔から勘が良かったじいちゃんはそんな言い伝えに頼らなくとも釣りも得意だ。
二人並んで実家へと向かう帰路にも誰にも会わず、じいちゃんは何も聞かない。
じいちゃんのことだから、俺が東京からこっちへ戻ってきた理由に気づいているのかもしれない。
何か事件があったわけじゃない。
嫌な人に遭ったわけでもなければ仕事でつまずいたわけでもない。
ただ窮屈だっただけ。
何もが慌ただしく、人もやたらと多く、気付いたら神経をすり減らしていた。
はじめは自分の甘えだと思ってた。
だから実家にも帰らず、都会で骨を埋めるつもりで頑張ってきた。
そんな俺に「頑張るのを辞めてみたらどうだ」と言ってくれたのは、大学時代からの親友。
普段はけっこう無口で必要最低限のことしか言わないのだが、時折口を開いて出てくる言葉はいつも芯を食っている。
どことなくじいちゃんに似たそいつの言うことは、なんかいつも腑に落ちる。
俺という生き物が生きていくためには、王越の環境が最適なのだと――そんな抽象的で詩的な理由、説明するのも面倒だし、実際にしたところで理解してくれる人はほぼ居ないだろうし。
あるような、ないような、まるで手洗い鬼さんみたいな存在感的理由。
少なくとも自宅に着いた俺たちを真っ先に出迎えた妹には絶対にわからんだろうし言いたくもない。
翌朝、夜明け前にじいちゃんに起こされた。
俺は急いで外へ出る支度をする。
こういうときって必ずお天気虹が見れるから。
まだ明けきらぬ暗い道をじいちゃんと並んで歩く。
今日も無言で――なのは、お天気虹を見るためにはそのほうがいいから。
「俗世の言葉にしがみつくと、見えるもんも見えんようなる」みたいなことを教えてもらったが、俺にはいまだによくわからない。
それでもこういうことでじいちゃんが間違うことはないから、俺は幼い頃を思い出しながら黙々と歩き続ける。
湾が見えてきたら漁協の方へは行かず、八幡さんへ続く道へと入る。
夜明け前の淡い闇色の舗装路を踏みしめながら、次第に空へと近づいてゆく。
八幡さんへと到着したとき、東の空に明るさが増した。
真上の空も濃紺から青へと変わってゆく。
境内から見下ろせる乃生湾と、その向こうには瀬戸大橋まで。
今日は天気がいい。
ゆっくりと深呼吸をする。
この朝の空気を体内に取り込んで、この世界の一部となるために。
ふいに風が凪いだ。
音も消え、世界が静寂に包まれる。
夜と朝との狭間にぼんやりと、天を衝く大きな人の姿。
こんな高い場所に居ても見上げるほどの、透けた――あれが、幼い頃に「手洗い鬼さん」と教えられた存在。
おもむろに手洗い鬼さんは乃生湾の海水を両手ですくい上げるが、不思議なことに乃生湾も海面は今もとても穏やかだ。
なのに手洗い鬼さんの手から溢れる大量の海水は朝日を浴びてキラキラと虹を作る。
まあるく、大きな、お天気虹を。
「美しいなぁ」
感嘆と涙とが自然に溢れる。
この雄大で壮大な光景を、この世界を、俺は欲していたんだと改めて思い知る。
なのに、言葉を発してしまったからか、お天気虹だけを残して手洗い鬼さんは朝日の中へ溶けて消えた。
そのお天気虹も、後を追うように儚く消える。
心の中にはまだ残る余韻を、晴れた朝の中に投影して――呼吸を忘れていたことを思い出して、大きく深呼吸する。
「また来たらええ」
「うん」
理屈では説明できない尊い時間。
妖怪なのか神様なのかそれとも別次元の存在なのか。
もしかしたら海やこの土地の遠い遠い記憶を、時代を超えて垣間見ているのかもしれない。
両手を高く上げて伸びをする。
清々しい気分。
昨日までの俺は自分が「東京から逃げ帰った」という気持ちを捨てられずにいた。
でも今は違う。
俺は、別の場所へ行ったからこそ「ここが一番いいところなんだ」と気付けたんだ。
手洗い鬼さんを見れたというそのことが、俺におかえりと、ここに居場所があるよと、伝えてくれたような気がしてならない。
<終>
手洗い鬼
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