観客席のモブは、恋をする予定じゃなかった

しろうさぎ

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私はだぁれ?

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「鏡よ鏡よ鏡さん、私はだぁれ?」

磨かれた鏡に向かって、私はそっと問いかける。


☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚


川に沿ってゆるやかに広がるように、背の低い家々が肩を寄せ合うように並ぶ。川の流れは穏やかで、急ぐことを知らないみたいに、水面がきらきらと陽を返していた。

それは、いつもと同じ朝だった。
窓の外から町が目を覚ます音が聞こえる。

朝になると、まず隣のパン屋の鐘が鳴る。
澄んだ鐘の音が、川の流れに乗って町を起こす。

少し遅れて、花屋の裏口が開く音。
扉を押し開けた瞬間、花の香りが焼きたてのパンの匂いと混ざる。
それが、この町の朝だった。
何一つ、昨日と違うところはない。

――はずなのに。

目が覚めたその瞬間。
頭の奥で 何かが弾けた。

私は、この世界の人間とは別の記憶を持っている。
そんな考えが、説明もなく、当然のように胸に落ちてきた。

前世の記憶。

多分…社会人だった。OL、だったと思う。
けれど、名前も、年齢も、顔も、何も思い出せない。
家族も、友達も、住んでいた場所すら曖昧だ。

お気に入りのワンピースや、初めて買ったハイヒールは…思い出せる。でも、それを身に付けた自分の姿は思い出せない。まるで、私という人間は最初から存在しなかったみたいに、すっぽりと情報が抜け落ちている。

それでも、覚えていることがある。
ゲームや小説が、大好きだったこと。

特に、乙女ゲーム。
選択肢を選んで、物語を眺めるのが好きだった。
自分が主役になるより、誰かの運命を見届ける方が、ずっと性に合っていた。

満員電車と、コンビニのコーヒー。
スマホの画面に映る華やかなキャラクター達。
そんな断片的な記憶だけが、現実味を持って浮かぶ。


「……ほんとに、私は誰なんだろう」

鏡の中の少女は、こちらを見つめ返していた。

金色の髪はゆるく波打ち、朝日に煌めく。
角度によって色を変える、虹色の大きな瞳。
白い肌に、ほんのりと桜色の頬。

――どう見ても、物語の中の存在だ。

(もしかして…乙女ゲームのヒロイン……?)

一瞬、そう思って、すぐに首を振る。
そんなはずがない。
だって、こんな子、記憶にない。
どのゲームにも、こんな特徴的なヒロインはいなかった。

(……私の知らないゲームの主人公?)

そんな考えが浮かんだ。
でも、すぐに違和感が追いかけてくる。

(そんなはず、ない)

乙女ゲームが大好きだった。
数えきれないほど、プレイも、実況も、考察も見てきた。
自分が生まれる前の作品だって夢中になって調べていた気がする。

思い当たる作品が、ひとつもない。
じゃあ、これはゲームへの転生じゃない?

小説みたいに“よくある設定”がたまたま重なっているだけ?
それとも――

(……まだ、思い出せていないだけ?)

鏡の中の美少女は、答えをくれない。
ただ、物語の中心に立つような姿で、そこにいる。

(主人公なのか、それとも――)

名前のある存在なのか。
それとも、誰かの物語の端に置かれた、ただの背景なのか。

(分からない)

私は、半ば無意識に、お馴染みの台詞を真似て口にする。
「鏡よ鏡よ鏡さん、私はだぁれ?」

「おはようアイリス、君は俺の小さなプリンセスだよ」

その声に、肩が跳ねた。

振り向くと、部屋のドアから金髪の男の人が顔を出している。
整った顔立ち。優しい目。
この町で一番の美丈夫だと、誰もが言う人。

「……パパ」

言葉は、考えるより先に出ていた。
それがこの世界での私の答えだった。

「朝ごはん、もうすぐできるよ。着替えておいで」

「わかった。すぐ行くから、先に食べてて」

待ってるよ、と綺麗な微笑みを残して、パタパタと階段を降りて行く音に、心がフッと軽くなる。

私はもう一度、鏡を見る。
そこに映るのは、いつもの私。

(良かった…私の人生の記憶は、アイリスの記憶だけだ)

両親も、友達も、アイリスとしての記憶だけ。
前世を思い出しても、もう会えない誰かに心が苦しくなる事はない。どうしようもなく会いたくなる人なんて、心の中には初めから存在しないのだから。

(私はアイリス…これが私よ)

深呼吸を一つして、いつもの朝をスタートさせる。


まだ、私は知らない。
この日常が、どれほど簡単に失われるのかを。

そして。

ここが、乙女ゲームの世界だと気づくまで、
もう少し時間があることを。
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