置き去りにされた恋をもう一度

ともどーも

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9話 本気の連弾

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 はあ?
 何それ、聞き捨てならない。

 私より先に香澄が反応した。
「……そうですか」
 彼女の声は冷静だった。だけど、その奥にわずかに滲む怒りを、私はすぐに感じ取った。
「神崎様。よろしければもう一曲聞いて下さいませんか?この曲はこの店でしか弾いていない、私と彼女のオリジナル曲です」
 香澄の力強い瞳。
 神崎と呼ばれた男性が微かに口角を上げた。
 もしかしてこの人……。
「いいだろう。岸谷さん。次の曲が気に入らなかったら、あの話は見送らせてもらう。どうかな?」
「えっ!」
 岸谷が不安そうな顔を香澄に向けると、香澄は自信満々に「後悔はさせません」と笑って言った。 
「美咲。もう一曲」
 香澄が小さく言った。
 私は無言で頷き、ピアノに向かう。
 指先が鍵盤の上に触れる。
 目を閉じると、呼吸の音まで聴こえるような静寂が落ちた。

 ──オリジナル曲『音織』(ねおり)

 私と香澄が、夜な夜なこの店で少しずつ作り上げた曲。
 始まりは旋律を彼女が、和音を私が紡ぎ、音を重ねていく。
 まるで、記憶と記憶を織り合わせるように。
 前半を盛り上げたいが、ここは、
静かに。まだこらえて……静かに。
 単音が1つ、2つ。空気を確かめるように漂い、やがて流れになる。

 香澄が低音で道を描き、私は高音で光を差す。
 同じ音を弾いているのに、呼吸の波が違う。
 でも、その“違い”が、たまらなく心地よかった。

 ──音が、ほどけて、また結ばれる。

 神崎が息を呑むのがわかった。
 目を閉じたまま、私は“今”という瞬間だけにすべてを注いだ。
 香澄と一緒に積み重ねてきた音の記憶が、指先から流れ出していく。
 悲しみも、未練も、ぜんぶ溶かしながら。

 最後の音を置いたとき、世界が静止した。
 誰も、何も言わなかった。
 香澄がゆっくりと息を吐き、私も目を開ける。
 神崎が目を細めて、ふっと笑った。
「……悪かった。さっきのは撤回する。こんなに心に響く音は久しぶりだ」
 彼の低い声が、静かに店内に落ちた。
 香澄は微笑み、私の方をちらりと見る。まるで『どんなもんよ!』と誇らしげだ。
 いや、これは誇っていいことだ。
 先ほどの演奏は弾いている私も楽しかったし、こんなに心を乗せた音は久しぶりだ。
 おそらくだが、神崎は私たちの感情を揺さぶり、より素晴らしい演奏をさせようと、つまらないと酷評したのかもしれない。
 私の想像通りなら、この人はとんでもない策士だろう。
「2ヶ月後の創立記念パーティーは、岸谷さんのところに演出と音響を任せる。予算は上限なしでいい。それから、この2人の演奏を入れてくれ。今の最後の曲、もう一度聴かせてほしい」 
 無表情で厳しい人だと思ったのに、笑うとこんなに優しい顔をするのかと思った。


 ◇◇◇


「乾杯」
 香澄とカウンター席で静かにグラスを傾ける。
 ブルームーンを店からの奢りということで楽しんでいる。淡い青が照明に揺れる見た目がお洒落で、気に入っている。
 岸谷と神崎が店を出てから、『20時まで貸切』の札を外し、店内は賑わっていった。
「美咲。ありがとうね。ほんと助かった」
「どういたしまして。ギャラは弾んでよ」
 軽口をたたくと、香澄は「ぷっ」と笑った。
「なに、お金に困ってるの?いいわよ~。神崎さんの仕事がリピートされるなら、幼稚園の先生の給料なんて軽く越えちゃうわよ」
「え?」
「さっきおじさんから連絡がきて」
 おじさん?
 岸谷のこと?
「パーティーの出来映え次第で、今後もパーティー関係の仕事を振ってくれる話になったみたい。うまくいけば年収1000万も夢じゃないわよ」
「いっ、1000万?!」
「今度のパーティーで、ピアノ演奏の私と美咲に報酬で100万払うって言ってるみたい。相当気に入ってくれたんだと思う」
 1回の公演で100万……。
 お金持ちはスケールが違うわね。
 だけど──
「すぐに飽きられるわよ。呼んでくれるうちは稼がせてもらうけど、それは一時的な話。ボーナスステージに来た程度に思ってた方がいいわ」
 こういう依頼は『恋愛』とよく似てる。
 熱しやすく冷めやすい。
 捨てられるのは、いつだって弱い立場の人間だ。
 信じる方がバカを見る。
「はい、はい。そういうところはドライよね。もっと自信を持ってもいいのに。どうしてこう、夢がないのかしらね。まあ、原因は……」
 『蓮だろう』と続くのだろうが、彼女は言葉を飲み込んだ。7年経つのに、また気を遣わせてしまった……。
「ところで、香澄に聞きたいんだけど、あの岸谷様は何なのよ?スポンサーって聞いてたけど、妙に親しくなかった?」
「そりゃ~ね。親戚のおじさんだから当然じゃない」
「え?」
 香澄の両親は離婚していて、お母さんには親戚がいないって聞いてたのに……。
「実父の弟なんだよ。岸谷さん」
「え?名字が違うじゃない」
「あぁ、腹違いの弟。おじいちゃん夫婦も不倫で離婚してて。岸谷さんを身ごもったときに離婚したらしいの。で、その事を私が大学生のときに知って、会いに来てくれたんだよ。すごく律儀な人でね。『自分は人の家庭を壊して生まれてきて、本当に申し訳ない』っておばあちゃんに挨拶に来てさ。『不倫した当人たちが悪いのであって、生まれてきた岸谷さんは何も悪くない』っておばあちゃんがそう言っても、『何か償わせてほしい』って聞かなくて。で、『何か困ったことがあれば助けてほしい』ってことでそのときはそれで収めたんだけど……。その後私がピアノバーを出したいって言ってたら話を聞きつけた岸谷さんが出資してくれたってわけ」
 ふっ、複雑なお家事情だな……。
「岸谷さんには本当に良くしてもらってる。出資してくれたお金も少しずつ返してる途中なんだ。でも、この仕事が上手く行けば、岸谷さんにまとまったお金を返せるから、失敗はできないわ。それに、岸谷さんの会社にも利益があるんだから、よけい頑張っちゃうわ!」
 香澄の張り切る顔を見て、複雑だけど岸谷とは悪くない関係なんだと思った。
 
「でもさ」
 香澄がグラスを回す。
「今日の演奏、録音しておけばよかったね」
「……そうだね」
 久しぶりに気持ちが乗った音が出せた。
 何気なく、二人でピアノを見る。
 今は誰も弾いていないのに、ピアノが語りかけてくるように感じた。
「不思議だよね。音って消えるのに、心の中ではずっとあの曲が響いてる」
「いい余韻よね」
 ピアノに真摯に向き合い、挑んでいたあの頃を思い出させた。
 世界中が敵になっても怖くないほど無敵で、何にでもなれると希望に満ちたあの頃は、愚かなほど輝いていたわ。その輝きの源は……蓮だったな……。
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