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『花倉の乱(勃発)編』 天文四年(一五三五年)
第27話 他家に鞍替えします?
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祖父が亡くなった年の晩秋、菘が女児を産んだ。
萱と名付けられた娘は、菘の乳を飲んで毎日すやすやと寝息をたてている。小さな掌を指で突くときゅっと握り返してくる。実に可愛い。
祝言から六年目。
やっと授かった娘である。
これまで菘はかなり周囲からの厳しい声に晒されてきた。
父上は菘の前で堂々と側室の話をするし、母上も母上で菘の顔を見る度に正妻の役割をよく考えよと厳しく言っていた。
元々二人は菘との祝言には反対であった。それゆえ余計に菘に強く当たるのであろう。
一番きつかったのは、その件で義姉上が母上に責められている事であった。自分ではどうにもならぬ事で他人が責められる。これほど精神的にきついことは無い。
菘は夜中に一人むせび泣いている事が多々あったし、側室をと泣き笑いの顔で言ってくる事もあった。
それでも五郎八郎は、側室はいつでも迎えられるからと、ここまで菘を励まし続けてきた。
医学というものが全く進んでいないこの時代、子供の生存率というのは極めて低い。その為、家を存続させようと思ったら、たくさん生んで生き残る子を増やすしかない。
子供は多く生めてなんぼ。それがこの時代の当たり前の価値観なのであろう。
だが宗太の価値観を持っている五郎八郎にとっては、それで愛妻が責められるというのは実に耐えがたいものであった。父上が側室の話をする度に少しは菘の気持ちも考えてくれと窘めていた。
母上は嫡男が生まれない事には話にならないと未だに納得はしていないが、義姉上は次はきっと男の子だと萱を抱きながら嬉しそうに菘と話をしている。
****
この年の初夏、今川家は北条家と共に甲斐に侵攻している。
北条家は名目上では今川の従属下にある。好き勝手に関東に出兵し領土を切り取っているのだから従属も何も無いのだが、建前ではそういう事になっている。
独立愚連隊みたいな感覚なのだろうか?
その北条家から共闘の申し入れがあった。もし甲斐を攻める気があるのなら、我らも兵を出そうというものであったらしい。
現在、甲斐の武田家は西武蔵の大名扇谷上杉家と手を結んでいる。扇谷上杉家といえば、関東一の名将太田道灌の主家として有名である。
太田道灌は最終的にその才を恐れた当主上杉修理大夫の放った刺客によって暗殺されている。だがそもそも扇谷上杉家が歴史の表舞台に上れたのは、太田道灌とその父道真の活躍が非常に大きい。その二人亡き後、宗瑞入道の侵攻に抗えず相模を取られてしまっている。
扇谷上杉家の現当主上杉五郎は武田陸奥守の嫡男の太郎に自分の娘を娶らせ、目の前の北条家の侵攻に抗おうとしている。
武蔵と甲斐、北と西から同時に攻められてはたまらないという事で、扇谷上杉軍を北条軍が防いでいる間に今川軍に甲斐へ侵攻してもらって、武田の目を北条から今川に向けさせようという魂胆であろう。
いくら盟友北条の為とはいえ寿桂尼様であれば無駄に武田家を刺激するような事はしなかったであろうに。家中ではそんな声が漏れ聞こえてきている。
そんな家中の冷ややかな雰囲気を感じたのであろう。それまで側近として大きな顔をしていた三浦上野介が身を引いた。
代わりの側近には亡き承舜禅師の弟子雪斎禅師が就く事になった。
そうして新たな首脳の体制で一年ほどが過ぎた。
「聞いたか五郎八郎殿。案の定武田が攻めてきおった。当たり前だ。前回結んだ盟があるのに、北条の為に一方的に破棄して攻め込んだのだから」
持ってきた鴨肉を白葱と一緒に炙ってもらい、それを肴に天野安芸守は酒を呑んでいる。
「宗家が攻められたのですよ? そんな他人事は無いでしょ?」
最近は五郎八郎も多少は酒を嗜めるようになってきて、こうしてちょくちょく安芸守が二俣城に一献しに来ている。
「北条が来ているから楽な戦だといって、我ら遠江衆は福島殿、小笠原殿以外は蚊帳の外。勝てばまた駿河衆に大きな顔をされるに決まっておる。実に面白くない」
安芸守は不貞腐れたような顔で顎を掻いた。
「どうせ行ったところで、柵作りだけさせられて後は後方で待機させられ、ただ飯食いに来たと蔑まれるのが目に見えてます。それなら最初から帯同させていただかなくって結構ですよ」
五郎八郎の予想が容易に想像できたらしく、安芸守は手を叩いて大笑いしている。
「そういえば此度、雪斎禅師は自ら出陣し、代わりに弟弟子の承芳和尚を招いて、お館様の側近をさせておるらしいな。五郎八郎殿はどのような人物かご存知か?」
そもそも雪斎禅師すら何の面識も無いのに、その弟弟子の事など知るわけがない。
ただ同じ僧形としては恵探和尚は面識がある。福島上総介が従妹の子だと言って紹介してくれたからだ。
――先代のお館様には成人した男児が六人いる。
嫡男はお館様である。母は正妻だった寿桂尼。
同じく正妻寿桂尼の子で彦五郎という人物がいる。あまり武に明るい人物ではなく、かといって学業ができるというわけでもない。しかも兄弟だというにお館様とは容貌があまり似ていない。
恵探和尚はお館様のすぐ下の弟で彦五郎の兄にあたる人物である。
さらに泉奘和尚という弟が彦五郎の下にいる。ただこの人物は生来目が悪く色が識別できないらしい。
その下の弟が承芳和尚。
末弟に左馬助という者がいるが、この人物は尾張今川家である那古野家の養子となっている――
「漏れ聞くところによると、彦五郎様も遠江の国人から所領を奪い駿河衆に配分すべきだと言っているそうですよ。寿桂尼様と恵探和尚の強い反対で実現しなかったそうですけどね」
そう言って憤りながら五郎八郎がかわらけの酒を飲み干すと、安芸守が銚子を傾けた。
「ああ、それがしも聞いたよ。先の検地でどの国人も石高が多かったのは前回の報告を過少に申告したからと言ってるらしいな。文句言われないようにと多めに報告したらこれだものな……」
やってられぬ。何故あんな家を主家と仰がねばならないのやら。
安芸守は苛々しながら酒をあおった。
「ならいっそのこと他家に鞍替えしますか? 惜しいですね。昨年までであれば三河の松平も精強だったのですけどね」
五郎八郎に言われ安芸守は「松平なあ……」と呟いた。
――元々今川家は東海道を西に勢力を広げるというのが基本戦略である。
関東のごたごたにはあまり関わらず東海道に今川の大領を築く。その基本戦略に則り、先代の時点で遠江を完全併呑し三河に手を出し始めていた。
『海道一の弓取り』
古くからある東海道最強の将という称号である。今川家の当主はそう称される事がある。それを不動のものにしたいというのがあるのだろう。
ところが三年前にお館様の親政となってから、三河への干渉は止めてしまった。
東からの圧迫が弱くなったと見た当主の松平次郎三郎は、西の尾張に勢力を広げにかかった。
ところが、昨年の冬、尾張の守山城で総攻撃の命を出した瞬間に側近の阿部弥七郎なる者に斬り殺されたらしい。
今の松平の領土はほぼ次郎三郎一人で拡張したものなのだとか。
しかも享年はわずか二四歳。すでに嫡男は設けているそうだが、父がその若さであれば、年齢など推して知るべしだろう――
「確かに当主の次郎三郎殿が生きておれば、遠江は早かれ遅かれ切り取られていたであろうな。跡継ぎの千松君はまだ十歳だというではないか。これから何かと大変であろうなあ」
安芸守はまるで自分の家の事のように松平家に思いを馳せてかわらけの酒を呑んだ。
五郎八郎は最初にこの話を聞いた時に『松平次郎三郎』という人物が誰であるかすぐにわかった。
『松平清康』
徳川家康の祖父である。三河の麒麟児というべき傑物だったとされている。
歴史ゲームでもかなり高い能力値を付けてもらっている人物である。顔も特別にイケメン顔で描いてもらっている。
出してもらえてるのかすら怪しい松井宗信とやらとは、えらい待遇の違いである。
安芸守は松平家の勢いのみを評価し傑物だったかのような言いぶりであるが、五郎八郎は市井から実情を聞いており少し感想が異なっている。
付き合わされていた家臣たちは無謀な戦に無理やり駆り出されていて、もう限界というのが本音だったらしい。
ただ、そのおかげで今川家は西方の憂いが無くなり、甲斐に攻め込む余裕が生まれているのである。
「案外、阿部弥七郎とやらを差し向けた松平与一とかいう者を焚きつけたのは駿府の坊さんたちかもしれませんね」
萱と名付けられた娘は、菘の乳を飲んで毎日すやすやと寝息をたてている。小さな掌を指で突くときゅっと握り返してくる。実に可愛い。
祝言から六年目。
やっと授かった娘である。
これまで菘はかなり周囲からの厳しい声に晒されてきた。
父上は菘の前で堂々と側室の話をするし、母上も母上で菘の顔を見る度に正妻の役割をよく考えよと厳しく言っていた。
元々二人は菘との祝言には反対であった。それゆえ余計に菘に強く当たるのであろう。
一番きつかったのは、その件で義姉上が母上に責められている事であった。自分ではどうにもならぬ事で他人が責められる。これほど精神的にきついことは無い。
菘は夜中に一人むせび泣いている事が多々あったし、側室をと泣き笑いの顔で言ってくる事もあった。
それでも五郎八郎は、側室はいつでも迎えられるからと、ここまで菘を励まし続けてきた。
医学というものが全く進んでいないこの時代、子供の生存率というのは極めて低い。その為、家を存続させようと思ったら、たくさん生んで生き残る子を増やすしかない。
子供は多く生めてなんぼ。それがこの時代の当たり前の価値観なのであろう。
だが宗太の価値観を持っている五郎八郎にとっては、それで愛妻が責められるというのは実に耐えがたいものであった。父上が側室の話をする度に少しは菘の気持ちも考えてくれと窘めていた。
母上は嫡男が生まれない事には話にならないと未だに納得はしていないが、義姉上は次はきっと男の子だと萱を抱きながら嬉しそうに菘と話をしている。
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この年の初夏、今川家は北条家と共に甲斐に侵攻している。
北条家は名目上では今川の従属下にある。好き勝手に関東に出兵し領土を切り取っているのだから従属も何も無いのだが、建前ではそういう事になっている。
独立愚連隊みたいな感覚なのだろうか?
その北条家から共闘の申し入れがあった。もし甲斐を攻める気があるのなら、我らも兵を出そうというものであったらしい。
現在、甲斐の武田家は西武蔵の大名扇谷上杉家と手を結んでいる。扇谷上杉家といえば、関東一の名将太田道灌の主家として有名である。
太田道灌は最終的にその才を恐れた当主上杉修理大夫の放った刺客によって暗殺されている。だがそもそも扇谷上杉家が歴史の表舞台に上れたのは、太田道灌とその父道真の活躍が非常に大きい。その二人亡き後、宗瑞入道の侵攻に抗えず相模を取られてしまっている。
扇谷上杉家の現当主上杉五郎は武田陸奥守の嫡男の太郎に自分の娘を娶らせ、目の前の北条家の侵攻に抗おうとしている。
武蔵と甲斐、北と西から同時に攻められてはたまらないという事で、扇谷上杉軍を北条軍が防いでいる間に今川軍に甲斐へ侵攻してもらって、武田の目を北条から今川に向けさせようという魂胆であろう。
いくら盟友北条の為とはいえ寿桂尼様であれば無駄に武田家を刺激するような事はしなかったであろうに。家中ではそんな声が漏れ聞こえてきている。
そんな家中の冷ややかな雰囲気を感じたのであろう。それまで側近として大きな顔をしていた三浦上野介が身を引いた。
代わりの側近には亡き承舜禅師の弟子雪斎禅師が就く事になった。
そうして新たな首脳の体制で一年ほどが過ぎた。
「聞いたか五郎八郎殿。案の定武田が攻めてきおった。当たり前だ。前回結んだ盟があるのに、北条の為に一方的に破棄して攻め込んだのだから」
持ってきた鴨肉を白葱と一緒に炙ってもらい、それを肴に天野安芸守は酒を呑んでいる。
「宗家が攻められたのですよ? そんな他人事は無いでしょ?」
最近は五郎八郎も多少は酒を嗜めるようになってきて、こうしてちょくちょく安芸守が二俣城に一献しに来ている。
「北条が来ているから楽な戦だといって、我ら遠江衆は福島殿、小笠原殿以外は蚊帳の外。勝てばまた駿河衆に大きな顔をされるに決まっておる。実に面白くない」
安芸守は不貞腐れたような顔で顎を掻いた。
「どうせ行ったところで、柵作りだけさせられて後は後方で待機させられ、ただ飯食いに来たと蔑まれるのが目に見えてます。それなら最初から帯同させていただかなくって結構ですよ」
五郎八郎の予想が容易に想像できたらしく、安芸守は手を叩いて大笑いしている。
「そういえば此度、雪斎禅師は自ら出陣し、代わりに弟弟子の承芳和尚を招いて、お館様の側近をさせておるらしいな。五郎八郎殿はどのような人物かご存知か?」
そもそも雪斎禅師すら何の面識も無いのに、その弟弟子の事など知るわけがない。
ただ同じ僧形としては恵探和尚は面識がある。福島上総介が従妹の子だと言って紹介してくれたからだ。
――先代のお館様には成人した男児が六人いる。
嫡男はお館様である。母は正妻だった寿桂尼。
同じく正妻寿桂尼の子で彦五郎という人物がいる。あまり武に明るい人物ではなく、かといって学業ができるというわけでもない。しかも兄弟だというにお館様とは容貌があまり似ていない。
恵探和尚はお館様のすぐ下の弟で彦五郎の兄にあたる人物である。
さらに泉奘和尚という弟が彦五郎の下にいる。ただこの人物は生来目が悪く色が識別できないらしい。
その下の弟が承芳和尚。
末弟に左馬助という者がいるが、この人物は尾張今川家である那古野家の養子となっている――
「漏れ聞くところによると、彦五郎様も遠江の国人から所領を奪い駿河衆に配分すべきだと言っているそうですよ。寿桂尼様と恵探和尚の強い反対で実現しなかったそうですけどね」
そう言って憤りながら五郎八郎がかわらけの酒を飲み干すと、安芸守が銚子を傾けた。
「ああ、それがしも聞いたよ。先の検地でどの国人も石高が多かったのは前回の報告を過少に申告したからと言ってるらしいな。文句言われないようにと多めに報告したらこれだものな……」
やってられぬ。何故あんな家を主家と仰がねばならないのやら。
安芸守は苛々しながら酒をあおった。
「ならいっそのこと他家に鞍替えしますか? 惜しいですね。昨年までであれば三河の松平も精強だったのですけどね」
五郎八郎に言われ安芸守は「松平なあ……」と呟いた。
――元々今川家は東海道を西に勢力を広げるというのが基本戦略である。
関東のごたごたにはあまり関わらず東海道に今川の大領を築く。その基本戦略に則り、先代の時点で遠江を完全併呑し三河に手を出し始めていた。
『海道一の弓取り』
古くからある東海道最強の将という称号である。今川家の当主はそう称される事がある。それを不動のものにしたいというのがあるのだろう。
ところが三年前にお館様の親政となってから、三河への干渉は止めてしまった。
東からの圧迫が弱くなったと見た当主の松平次郎三郎は、西の尾張に勢力を広げにかかった。
ところが、昨年の冬、尾張の守山城で総攻撃の命を出した瞬間に側近の阿部弥七郎なる者に斬り殺されたらしい。
今の松平の領土はほぼ次郎三郎一人で拡張したものなのだとか。
しかも享年はわずか二四歳。すでに嫡男は設けているそうだが、父がその若さであれば、年齢など推して知るべしだろう――
「確かに当主の次郎三郎殿が生きておれば、遠江は早かれ遅かれ切り取られていたであろうな。跡継ぎの千松君はまだ十歳だというではないか。これから何かと大変であろうなあ」
安芸守はまるで自分の家の事のように松平家に思いを馳せてかわらけの酒を呑んだ。
五郎八郎は最初にこの話を聞いた時に『松平次郎三郎』という人物が誰であるかすぐにわかった。
『松平清康』
徳川家康の祖父である。三河の麒麟児というべき傑物だったとされている。
歴史ゲームでもかなり高い能力値を付けてもらっている人物である。顔も特別にイケメン顔で描いてもらっている。
出してもらえてるのかすら怪しい松井宗信とやらとは、えらい待遇の違いである。
安芸守は松平家の勢いのみを評価し傑物だったかのような言いぶりであるが、五郎八郎は市井から実情を聞いており少し感想が異なっている。
付き合わされていた家臣たちは無謀な戦に無理やり駆り出されていて、もう限界というのが本音だったらしい。
ただ、そのおかげで今川家は西方の憂いが無くなり、甲斐に攻め込む余裕が生まれているのである。
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