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『河東の乱編』 天文六年(一五三七年)
第47話 当家に降る気はないか?
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転げるように兵たちが坂を下って来る光景を目にし、孫二郎は心の中で何か柱のようなものが折れて崩れ落ちるような感覚を覚えていた。
かくなる上はここで潔く散るか、生き恥を晒しながらも父上に生かされた命を守るか、二つに一つ。
下りて来る兵たちを孫二郎はじっと見つめている。二人の弟が生きていれば後者を、どちらかが来なければ前者を選ぼうと心に決めていた。
先に戻って来たのは伊賀守であった。明らかに数を大きく減らした福島軍の精鋭たちに守られて撤退してきた。
精鋭を付けた伊賀守の隊があの状態では、孫九郎は絶望的。では玉砕かと槍を手にした時であった。孫九郎の咆哮が轟いた。
味方の兵を一人でも退かそうと、雄叫びをあげながら敵の追撃を牽制。返り血でべっとりになりながら、敵に朱槍を向けながら坂を下って来る。
「孫九郎、伊賀と合流し見附に退く! 撤退戦の準備をせよ! 皆で見附に帰るぞ!」
槍を持つ手に力を込め、孫二郎は兵たちに命じた。
敵は坂を下りながらの追撃であり、とんでもない勢いが付いてしまっている。しかもあからさまに数が多く、さらに異常に士気が高い。谷の奥での戦闘が一方的な虐殺であった事が容易に察せられる。
「兄者、すまぬ! 謀られた!」
孫九郎は孫二郎と合流すると短くそう報告した。
「見附に退くぞ」と孫二郎は孫九郎と伊賀守に命じた。こうなってしまってはそれしか手は無い。二人も頷いて見附城のある西に向かって走り出した。
そんな三人の前に敵の部隊が立ちふさがる。「五瓜に三つ巴」の旗印、久野城の城兵たちである。
「敵に構うな! 突破だ! 突破しろ!」
孫二郎が大きく叫んだ。孫九郎が朱槍を握って先頭に立って敵に突進して行く。それを見て福島軍の精鋭が孫九郎に続く。
孫九郎たちが開いた突破口に見附の兵たちが殺到。孫二郎はそこに留まって槍を振り続け、一人でも多くの兵を西に進ませる。
最後尾で殿軍を引き受けている伊賀守が久野軍を突破。
福島軍は西へと急いだ。太田川までもう少し。
だが孫二郎たちの士気は太田川を目の前にして完全に挫けた。
川向うに大軍が立ちはだかっていたのだった。旗の家紋は「三重亀甲」、匂坂軍である。
「降伏せよ! だが抵抗したいと欲するのなら遠慮はいらぬ、かかって参れ! 広く武名轟くそれがしが直々にお相手仕らん!」
匂坂六右衛門の大地を響かせるような大声での挑発に、孫九郎は朱槍を掴む手に力を込めて一歩を踏み出した。だが、孫二郎が槍を孫九郎の前に伸ばしそれを制す。
「孫九郎、もうよせ。もはや事は潰えてしまったのだ」
この兵数であれだけの大軍を突破して見附城に戻る事は不可能。しかも川を越えた上となれば、さらに難度は上がる。
困難ではない不可能。孫二郎はそう諭すのだが、孫九郎は「やってみねばわからん!」と兄を睨め付けた。
だが、後方からは久野軍が迫っており、さらにその後ろからは松井軍と天方軍、天野軍、山内軍が迫っている。
伊賀守は後方を見て心が折れ、槍の穂先を地に下げた。ここまで付き従った福島軍の精鋭たちも一人、また一人と戦意を失い膝を付いてしまう。
「くそっ! せっかく父上に生かしてもらったというに……こんなところで……」
孫九郎は悔しさで朱槍を杖にその場にへたり込んだ。
****
陣幕に三人の若者が捕縄された状態で連れられて来た。右から福島孫九郎、同孫二郎、同伊賀守。
陣幕奥の正面には松井五郎八郎が鎮座している。その隣に匂坂六右衛門、反対には久野三郎。左右には天方山城守、同民部少輔、天野小四郎、山内対馬守、久野三郎四郎、匂坂六郎五郎、それと各家の家人が床几に座っている。
これが北条綱成か……
五郎八郎は福島孫九郎の顔をじっと観察した。少し彫が深く、目は切れ長、顔は全体的に面長、実に端正な顔つきである。父上総介と同じく特徴的な虎髭が生えている。どこなくだが上総介の顔を縦に引き延ばすとこんな感じになる気がする。
「三人にたずねる。当家に降る気は無いか?」
五郎八郎の誘いに孫九郎は鼻で笑って横を向いた。
孫二郎は唇を噛んで俯いている。
伊賀守は反抗的な顔で五郎八郎を睨みつけている。
「そうか……ではこれではどうか? 今から見附館へ赴き、堀越水神丸を連れて伊豆へ去れと言ったら?」
五郎八郎の提案に、福島兄弟以上に久野三郎たちが驚き、「どういうつもりか?」と五郎八郎を問いただした。「まあまあ」と言って諸将を落ち着かせ、五郎八郎は改めて福島兄弟にどうかとたずねた。
「我らが見附館に戻ったら、そこで徹底抗戦されるとは考えぬのか? いくら防御機構に乏しい城とて、我らが守ればそちらもそれなりの犠牲を払うであろう?」
天方山城守と久野三郎が五郎八郎を見てこくこくと頷き、孫九郎の意見に同調。
匂坂六右衛門はそれがどうしたと言わんばかりに、どっしりと構えて目を閉じている。
「そうは思わないな。そんな気があるなら、さっき匂坂軍相手でも突っ込んで行って玉砕してただろう。あえて降伏を選んだというのは、交渉で生き残る道を模索しようとしたからだろう。違うか?」
無言。この場合それは図星という事であろう。
久野三郎四郎と匂坂六郎五郎が、悔しそうに唇を噛んでいる福島兄弟を驚きの顔で見ている。二人は共に先の花倉城の攻城戦でこの兄弟の奮迅ぶりを目の当たりにしている。あの兄弟がここまで戦意を挫かれているなんて。
「いくつか教えてくれないか? まず何故行き先が伊豆なのだ? それと何故水神丸君なのだ? 治部殿を説得し見附館を明け渡すではいけないのか?」
孫九郎の問いかけに、それまで飄々としていた五郎八郎の表情がみるみる怒りで満ちていった。明らかに孫九郎が五郎八郎の虎の尾を踏んだと、その場の誰しもが感じた。
「治部少輔には腹を切らせる! あの男だけは許さん! 我が兄を毒殺したあの男だけは! 何なら今からでも城に乗り込んで行って、自らあの身を槍で滅多突きにしてやりたいくらいだ!」
北条の甘言に乗って先代のお館様を殺害させ家を二つに割った。そのせいでどれだけの犠牲が出たと思っているのか。
それを不興を買う事を覚悟で雪斎禅師たちを必死に説き伏せてやったというに。全てに目を瞑り罪を許してもらったというに。心を入れ替えよとの忠告を無視し、またも反乱を引き起こし余計な諍いを巻き起こした。
あの男が生きている限り、どこにいても遠江は戦場にされる。そうなれば、その都度田畑は踏み荒らされ、民が悲鳴をあげる事になる。
「あの男は、口では遠江のためなどと言いながら、遠江を自分の地位の保全を図る道具としてしか考えておらんのだ! もはやあの男にかける慈悲など無い!」
五郎八郎の剣幕に陣幕内の全ての諸将が気圧されている。しわぶき一つ聞こえない。
陣幕内にひと時の静寂が訪れた。『遠州の空っ風』と呼ばれる極めて乾燥した非常に冷たい風が陣幕内を吹き抜けて行った。
かくなる上はここで潔く散るか、生き恥を晒しながらも父上に生かされた命を守るか、二つに一つ。
下りて来る兵たちを孫二郎はじっと見つめている。二人の弟が生きていれば後者を、どちらかが来なければ前者を選ぼうと心に決めていた。
先に戻って来たのは伊賀守であった。明らかに数を大きく減らした福島軍の精鋭たちに守られて撤退してきた。
精鋭を付けた伊賀守の隊があの状態では、孫九郎は絶望的。では玉砕かと槍を手にした時であった。孫九郎の咆哮が轟いた。
味方の兵を一人でも退かそうと、雄叫びをあげながら敵の追撃を牽制。返り血でべっとりになりながら、敵に朱槍を向けながら坂を下って来る。
「孫九郎、伊賀と合流し見附に退く! 撤退戦の準備をせよ! 皆で見附に帰るぞ!」
槍を持つ手に力を込め、孫二郎は兵たちに命じた。
敵は坂を下りながらの追撃であり、とんでもない勢いが付いてしまっている。しかもあからさまに数が多く、さらに異常に士気が高い。谷の奥での戦闘が一方的な虐殺であった事が容易に察せられる。
「兄者、すまぬ! 謀られた!」
孫九郎は孫二郎と合流すると短くそう報告した。
「見附に退くぞ」と孫二郎は孫九郎と伊賀守に命じた。こうなってしまってはそれしか手は無い。二人も頷いて見附城のある西に向かって走り出した。
そんな三人の前に敵の部隊が立ちふさがる。「五瓜に三つ巴」の旗印、久野城の城兵たちである。
「敵に構うな! 突破だ! 突破しろ!」
孫二郎が大きく叫んだ。孫九郎が朱槍を握って先頭に立って敵に突進して行く。それを見て福島軍の精鋭が孫九郎に続く。
孫九郎たちが開いた突破口に見附の兵たちが殺到。孫二郎はそこに留まって槍を振り続け、一人でも多くの兵を西に進ませる。
最後尾で殿軍を引き受けている伊賀守が久野軍を突破。
福島軍は西へと急いだ。太田川までもう少し。
だが孫二郎たちの士気は太田川を目の前にして完全に挫けた。
川向うに大軍が立ちはだかっていたのだった。旗の家紋は「三重亀甲」、匂坂軍である。
「降伏せよ! だが抵抗したいと欲するのなら遠慮はいらぬ、かかって参れ! 広く武名轟くそれがしが直々にお相手仕らん!」
匂坂六右衛門の大地を響かせるような大声での挑発に、孫九郎は朱槍を掴む手に力を込めて一歩を踏み出した。だが、孫二郎が槍を孫九郎の前に伸ばしそれを制す。
「孫九郎、もうよせ。もはや事は潰えてしまったのだ」
この兵数であれだけの大軍を突破して見附城に戻る事は不可能。しかも川を越えた上となれば、さらに難度は上がる。
困難ではない不可能。孫二郎はそう諭すのだが、孫九郎は「やってみねばわからん!」と兄を睨め付けた。
だが、後方からは久野軍が迫っており、さらにその後ろからは松井軍と天方軍、天野軍、山内軍が迫っている。
伊賀守は後方を見て心が折れ、槍の穂先を地に下げた。ここまで付き従った福島軍の精鋭たちも一人、また一人と戦意を失い膝を付いてしまう。
「くそっ! せっかく父上に生かしてもらったというに……こんなところで……」
孫九郎は悔しさで朱槍を杖にその場にへたり込んだ。
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陣幕に三人の若者が捕縄された状態で連れられて来た。右から福島孫九郎、同孫二郎、同伊賀守。
陣幕奥の正面には松井五郎八郎が鎮座している。その隣に匂坂六右衛門、反対には久野三郎。左右には天方山城守、同民部少輔、天野小四郎、山内対馬守、久野三郎四郎、匂坂六郎五郎、それと各家の家人が床几に座っている。
これが北条綱成か……
五郎八郎は福島孫九郎の顔をじっと観察した。少し彫が深く、目は切れ長、顔は全体的に面長、実に端正な顔つきである。父上総介と同じく特徴的な虎髭が生えている。どこなくだが上総介の顔を縦に引き延ばすとこんな感じになる気がする。
「三人にたずねる。当家に降る気は無いか?」
五郎八郎の誘いに孫九郎は鼻で笑って横を向いた。
孫二郎は唇を噛んで俯いている。
伊賀守は反抗的な顔で五郎八郎を睨みつけている。
「そうか……ではこれではどうか? 今から見附館へ赴き、堀越水神丸を連れて伊豆へ去れと言ったら?」
五郎八郎の提案に、福島兄弟以上に久野三郎たちが驚き、「どういうつもりか?」と五郎八郎を問いただした。「まあまあ」と言って諸将を落ち着かせ、五郎八郎は改めて福島兄弟にどうかとたずねた。
「我らが見附館に戻ったら、そこで徹底抗戦されるとは考えぬのか? いくら防御機構に乏しい城とて、我らが守ればそちらもそれなりの犠牲を払うであろう?」
天方山城守と久野三郎が五郎八郎を見てこくこくと頷き、孫九郎の意見に同調。
匂坂六右衛門はそれがどうしたと言わんばかりに、どっしりと構えて目を閉じている。
「そうは思わないな。そんな気があるなら、さっき匂坂軍相手でも突っ込んで行って玉砕してただろう。あえて降伏を選んだというのは、交渉で生き残る道を模索しようとしたからだろう。違うか?」
無言。この場合それは図星という事であろう。
久野三郎四郎と匂坂六郎五郎が、悔しそうに唇を噛んでいる福島兄弟を驚きの顔で見ている。二人は共に先の花倉城の攻城戦でこの兄弟の奮迅ぶりを目の当たりにしている。あの兄弟がここまで戦意を挫かれているなんて。
「いくつか教えてくれないか? まず何故行き先が伊豆なのだ? それと何故水神丸君なのだ? 治部殿を説得し見附館を明け渡すではいけないのか?」
孫九郎の問いかけに、それまで飄々としていた五郎八郎の表情がみるみる怒りで満ちていった。明らかに孫九郎が五郎八郎の虎の尾を踏んだと、その場の誰しもが感じた。
「治部少輔には腹を切らせる! あの男だけは許さん! 我が兄を毒殺したあの男だけは! 何なら今からでも城に乗り込んで行って、自らあの身を槍で滅多突きにしてやりたいくらいだ!」
北条の甘言に乗って先代のお館様を殺害させ家を二つに割った。そのせいでどれだけの犠牲が出たと思っているのか。
それを不興を買う事を覚悟で雪斎禅師たちを必死に説き伏せてやったというに。全てに目を瞑り罪を許してもらったというに。心を入れ替えよとの忠告を無視し、またも反乱を引き起こし余計な諍いを巻き起こした。
あの男が生きている限り、どこにいても遠江は戦場にされる。そうなれば、その都度田畑は踏み荒らされ、民が悲鳴をあげる事になる。
「あの男は、口では遠江のためなどと言いながら、遠江を自分の地位の保全を図る道具としてしか考えておらんのだ! もはやあの男にかける慈悲など無い!」
五郎八郎の剣幕に陣幕内の全ての諸将が気圧されている。しわぶき一つ聞こえない。
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