奥遠の龍 ~今川家で生きる~

浜名浅吏

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『桶狭間の戦い編』 天文十八年(一五四九年)

第70話 あれが龍王丸様か……

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 小豆坂での大勝の翌年、早くも尾張の情勢は大きく変化した。

 織田三郎が安房守を抱き込んで、美濃斎藤家と同盟を結んでしまった。その一方で今川家にも接触してきて、勘十郎(八法師)の居城である末森城を攻めようと思うので共闘をお願いしたいと要請してきた。もし聞いてもらえるのであれば竹千代君を返還し、なおかつ岩崎城を割譲しようと思うと。
 それに対し今川家は、守山城か岩倉城を攻めるのならば共闘は可能と代案を提示。

 使者として訪れた飯尾近江守は今川家の代案の巧みさに絶句した。織田三郎は兄安房守と手を結びはしたものの、古渡城は尾張中部、犬山城は美濃の国境、二城はあまりにも距離が離れており、まともに連絡すら取れていない。それを中間の城を落として、もう少し連絡が取りやすくしてやろうというのだ。
 岩倉城よりは守山城をお願いしたい。飯尾近江守はその代案を飲んだのだった。

 今川家は遠江から匂坂さぎさか六郎五郎を名指しで出兵させ、田原城で朝比奈肥後守と合流、さらに岡崎城の松平軍、松井金四郎率いる東条城の兵とも合流し守山城の攻略へと向かった。
 守山城を守る織田市之助は以前の戦いで岡崎城を攻める際、内藤甚一郎に撃ち抜かれて討死した織田孫三郎の長男である。市之助は織田三郎五郎と提携していたのだが、三郎五郎は今川家との対立を避け市之助を見捨てた。その為、市之助はなす術がなく守山城は落城。

 約束通り竹千代は岩崎城に送られ、匂坂六郎五郎が城と共に受取った。六郎五郎は竹千代を岡崎城に返したのだが、松平三郎は約束だからと駿府城に人質に出したのだった。

****

 いよいよ尾張併呑に乗り出す、そんな準備をしていたある日の事であった。
長坂九郎こと信也が、静こと友江を交えて三人で話がしたいと言って部屋にやってきた。ご丁寧に友江に茶を持って来て欲しいとお願いして。

 友江が茶と茶菓子を持ってやってくると、信也は秀吉を登用してしまおうと言い出した。

「恐らくだが、もうすぐ羽柴秀吉が頭陀寺ずだじ館の松下之綱ってやつのとこに来るはずなんだ。どれが秀吉かわからなくても一人だけ小汚い小僧がいる状態だったらしいから行けばわかると思うんだよ」

 羽柴秀吉、この時点ではまだ日吉丸という幼名を名乗っているはず。歳が比較的近かったこともあり、松下之綱とは仲良くしていたらしいが、松下家の郎党にいじめを受けたようで出奔。その後、木綿針を売りながら三河、尾張へと流れていった。

「宗太がさ、見どころあるとかなんとか言って連れて来てさ、どっかの家を継がせるんだよ。秀吉は出自が下賤だった事がコンプレックスだったらしいからさ、武家を継がせると言えば釣れると思うんだよね」

 名跡を継がせる、つまりはここまでで潰してしまった家という事になる。
 この世界に来て、ここまで滅ぼした家は四つ。福島くしま家、堀越ほりこし家、戸田家、水野家。その中で完全に無くなったのは福島家と堀越家で、戸田家は仁連木城の一族が残っているし、水野家は藤四郎の幼い弟たちが刈谷城で保護されている。

 堀越家は今川家の分家なのであり得ないとして、もし継がせるなら福島家という事になるだろうか。
 ……孫二郎は確実に良い顔をしないであろう。

「……坊主じゃ駄目なのかな?」

 予想だにしていなかった宗太の発言に友江は大笑いした。信也は真面目に考えろと怒り出してしまった。

「今川家の弱点には軍団長を任せられる人材が欠如してたという要素もあるんだぞ。宗太は岡部元信と朝比奈元智を育てようとしているらしいけど、それだけじゃ全然足らないんだよ」

 自分で複数の軍を率いて作戦行動を起こせる人材が何人もいないと天下取りなんて夢のまた夢。そう指摘した信也に、宗太じゃなく友江が食いついた。

「それよ、それ! 信也もやっとわかってきたじゃない! 今川家で天下取るのよ! その為には良い人材を吸着する秀吉の登用は最適解じゃない! 宗太! 悩んでる場合じゃないわよ!」

 がっちりと宗太の両肩を掴む友江。実に鼻息が荒い。おまけに顔が近い。
思わず顔を背けると、友江は宗太の両頬を手で挟み、自分の方へ向ける。「わかったわね!」と強く念を押された。


 五郎八郎は多忙という言い訳で、羽柴秀吉こと日吉丸の採用の件は、九郎に丸投げされる事になった。どんな交渉をしたのかは知らないが、日吉丸は駿府にやって来て、松井家屋敷の門をくぐった。

 五郎八郎が用意した家は小豆坂で討死した薮田権八の家。権八の妻は花月院の元侍女である。二人の間には『寧』という娘が一人いるだけ。日吉丸にその寧を娶らせて婿養子という事で家督を継ぎ薮田藤吉を名乗る事にした。
 駿府の屋敷で、松井家の家人として、学問に武芸にと、他の家人たちから教育を施される日々を過ごしている。


 それから数日後の事。五郎八郎は雪斎禅師の招きで、駿府城下の北の外れ臨済寺に向かった。
 臨済寺はお寺ではあるのだが、その裏で駿河衆や駿府に屋敷のある師弟の教育も施している。五郎八郎の嫡男徳王丸も、ここに預けられ養育を施されている。

 雪斎禅師はその中から二人の子を呼び五郎八郎に面会させた。一人はそろそろ元服かという年齢、もう一人は六、七歳といった感じ。
 年上の方の子は僧の言う事を全く聞かず、口調も非常に荒く、雪斎と五郎八郎の前だというに足を投げ出しており、何とも不機嫌そうな顔をしている。
 もう一人も同じく不機嫌そうな顔はしているのだが、それでも僧の言う事は聞き、大人しく正座している。

 雪斎が紹介する前に、五郎八郎は二人に何故そんなに不機嫌そうにするのかとたずねた。
 すると片方の少年が五郎八郎をじろりと睨みつけた。

「それがしは書物を読んでおったのだ。それをそなたが来たから挨拶しろと無理やり連れて来られたのだ。不機嫌にならぬ方がおかしいであろう!」

 書物を読んでいたというわりに顔に皺がついている。口の端には涎の垂れたあとも付いている。恐らくは本を枕に居眠りしていた所を叩き起こされたといったところだろう。

 何の本を読んでいたのかたずねると、「そなたには関係の無い事だ!」と言われてしまった。それでは嘘をついたというのがバレバレであろうに。

 もう一人の子にも同様の質問をする。

「それがしは供の者と碁を打っておったのです。それがしが勝っておったのですよ。それを無理やり連れてこられてしまって……」

 後ろの僧がくすりと笑ったという事は、恐らくは実際には碁は負けていたのだろう。「勝算はどの程度あったのか?」とたずねると、「六四でそれがしが勝つはずであった」と少年は答えた。

 五郎八郎は二人に「邪魔をして申し訳なかった」と頭を下げ、部屋に戻って貰った。

「あれがお館様の嫡男、龍王丸様ですか……」

 五郎八郎の反応から、どのように感じたのか雪斎禅師も何となく察した。雪斎禅師も恐らく同じように感じている。どこかで大きく矯正をしないと今川家は後々大変な事になってしまうと。

「悪い噂を耳にしてはいましたが、思ってた以上に小者ですね。居眠りしていたなら、それはそれで今日の陽気に勝てなかったとかなんとか言い繕えば良いものを。あのように相手に当たるとか……」

 「当主となった時にあの性格が災いしないと良いが」と五郎八郎は眉をひそめた。すると雪斎禅師は、かっかっかと笑い出した。

「北条家も二代目はあのようなどうしようもない者であったが、何だかんだと上手くいった。ようは良い方に引き出せる周囲の機転次第なんだよ。ところで、もう一人の者をどう見た?」

 正直面白い子だと五郎八郎は感じた。はっきりと負けるまではこちらの勝ちだと考え、仮に勝つとしても六四の辛勝だと言う。部隊を統率させたらさぞかし良き活躍をするのではないかと思う。

「あれが岡崎城の竹千代だよ。父の三郎はあのように頼りない者であるがな、鳶が鷹を産むとはよく言ったものだよ」

 あれをみっちりと養育し、いずれは今川家の大将の一人として磨き上げてやろうと思っている。きっとその頃には五郎八郎に代わって今川家を支える柱になる事であろう。
 雪斎禅師は、五郎八郎の肩をぱんぱん叩いて笑い出した。

 「時にうちの徳王丸はどんな感じなのか?」と五郎八郎はたずねた。

「徳王丸か。あれは父や祖父によう似ておるのう。本当によく舌が回る。祖父のように外交を任しても面白いやもしれん」

 「先日お館様が言っていた事がある」と言って雪斎は茶をすすった。亡き瀬名陸奥守の嫡男伊予守にお館様の姉が嫁いでいる。その伊予守に関口家を継ぎ刑部少輔を名乗る弟がいる。その刑部少輔に二人の娘がいて、お館様はその二人を養女にする事にしたらしい。
 養女となれば、当然その嫁ぎ先にはそれなりの者をという事になる。 お館様が考えているのが、松井徳王丸と松平竹千代なのだそうだ。

 五郎八郎がかなり引きつった笑顔で「松井家の将来は安泰だ」と言うと、雪斎禅師は豪快に笑い出した。
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