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本編
4.
しおりを挟む「……瑠璃、覚えてないなら何をされたかわからないじゃないか」
「でも身体はなんともなかったし、噛み跡もなかったし……」
「奴はれっきとしたストーカーだ。信用に足る相手だとは思えないよ。今からでもここは引き払って家に来なさい。会社へは送ってあげるから」
「でもあれ以来襲ってきたりとかないし、むしろおれを守るために柔道とか習い始めてるし……」
出会いから今日までのことを包み隠さず打ち明けると、鴇は呆れた表情を隠さなかった。引っ越せと言われるのも想定の範囲内だ。
もっとも瑠璃は引っ越す気なんてさらさらないし、あとはどう説得するかということだけだが……説得できる材料が瑠璃の勘という弱すぎるものしかない。ぶつぶつ理由を並べ立てても言い訳の域をでなかった。
自分でもどうしてこんなにこだわっているのか、わからない。意地になっているつもりはないけれど、琥珀を切って離れる気にもなれない。
これまでもアルファと接したことはある。でもこんな風に離れがたいとか思ったことはなかったし、逆に圧迫感を感じて近くにいられなかったことのほうが多い。
琥珀には派手さが一切ないから、一緒にいて……安心するというか、違和感がない。そんなアルファは初めてなのだ。
なんとか言葉を絞りだし思っていることを不器用に並べると、鴇は悲しいような怒っているような、複雑な顔をしていた。
「お兄ちゃんは運命とか都市伝説だと思ってるよ……でも、一応…………探偵に依頼してくるっ!!!」
「へ?」
ぽかんとする瑠璃をよそに、今日泊まる予定だった鴇は突然アパートを飛び出していってしまった。……用事でも思い出したのかな?
お互い大人なのでそれほど心配することはあるまい。気を取り直してお風呂に入り、ようやく瑠璃もひと息つくことができた。ふう……スイート・マイホーム、ただいま。
寝る直前、ほぼ無意識に最近の習慣になっている行動をとる。クローゼットの引き出しの奥から出してきたのは、食品用のストックバックに入れた洋服だ。
スモークブルーのトレーナーは、瑠璃が琥珀の家から帰る日に着ていたもの。ジップを端から少しだけ開けて、鼻を近づける。
「……ふぁ」
琥珀の家の匂いなんだろうか? 落ち着くけどそわそわするような、ずっと嗅いでいたいような『何か』がそこにはある。しばらくすんすんして、またぴっちり閉じる。
日ごとに香りは弱くなっていく。でも、琥珀と一緒にいるとたまに同じような感覚に陥る瞬間があった。あれはなんなんだろう?
オメガの社会進出を可能にした抑制薬には、ヒートを軽くしたり、必要以上のフェロモンの放出や不本意な受精を防いでくれる効果がある。その効果のなかに、アルファのフェロモンを感じにくくするというのもあった。つまりオメガらしさを抑えることができる。
たまにアルファも自身のフェロモンを抑えたり、オメガのフェロモンの影響を受けにくくするための抑制薬を飲んでいたりする。しかしカリスマ性や威圧感といったアルファらしさも抑えられてしまうため、服用している人は少ない。
そしてオメガとアルファの間で結ばれる強固な『番契約』を結ぶと、お互いのフェロモンしか感じなくなるため薬も必要なくなるという。
学生の時から薬でオメガ性を抑えている瑠璃には、よくわからない世界の話だ。でも……琥珀から感じる『何か』は、フェロモンに近いものなのかもしれない。
稀に、運命的に惹かれ合うオメガとアルファもいるらしい。実際には遺伝子学的に相性の良い相手だろうと言われているが、そういった相手には薬を服用していても関係なくお互い惹かれてしまう、とよくドラマや映画でもネタになっている。
(そんなの、全然わからないけど……ちょっと、憧れはあるよなぁ)
初体験に対する夢はあっさりと潰えてしまったけど。二十五歳まで恋人もいたことがなかった箱入りオメガの瑠璃は、いつか王子様と運命的な出会いを果たして……という憧れを捨てきれていなかった。
頭の中がぽわぽわしたまま布団に入り、目を閉じる。本当なら明日は鴇とご飯を食べに行ったりする予定だったが、ひとりだから溜まった家事を済ませよう。そのあとサブスクで見たかった映画を見て、のんびり過ごそう。
そんな平和な想像をしながら眠った瑠璃を待ち受けていたのは――平和とはほど遠い夢だった。
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