診察室の午後<菜の花の丘編>その1

スピカナ

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第10章 人が集う、嵐の春

195話 忘れていた旅行

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 川瀬たちを見送った後は、再びベイブリッジを渡るコースで戻ってきた。

ハンドルを握る俺に、夏がふと思い出したように尋ねた。

「お兄さんって、もしかして結婚式を挙げてないんじゃないの? 俺、聞いたことないけど……」

「うん、そうなんだよね。新婚旅行も行ったことがないから、ちょっと莉子がかわいそうかな」

「お兄さん、俺が桃香と留守番してるから、行ってきていいよ」

「ふっ、なんだよいきなり。後が怖いな」

「やっぱりあとが怖い?」

あははは、そうきたか。

「それよりさ、もっと大事なことを思い出さない?」

なんだろう? __何がある?

「お掃除スタッフのニセモノ事件でさ、お兄さん、すっかり忘れてるでしょう?

ご褒美に二泊三日の旅行に連れて行ってくれる約束だったでしょう?」

「ああーーーーっ! やばい。動揺でハンドルがぶれる……どうしよう?」

そうだった。完全に忘れていた……。

ちらっと夏を見ると、諦めたように横を向いていた。

「ごめんね。すっかり忘れてた。なんで催促しなかったの?」

「だってさ、お兄さん、あの頃は面接であまりにも疲れてたから、
莉子と相談して催促はやめようって決めたんだよ」

「じゃあ、5月の連休にはみんなの行きたいところに行くからさ、
スケジュールを組んでくれない? 俺、忘れちゃうからさ」

「OK!」夏が軽く返事をした。

ああ……まずい。
今までに、こんなに完璧に忘れていたことはなかった。
俺は認知症の始まりか? 44歳で早くないか……。

ああ、14歳の年齢差が堪える。
妙に、独りぼっちの気分だった。

帰宅すると、真っ先に莉子を抱きしめた。

「どうしたの? 春ちゃん」
「莉子、ごめんね。旅行のこと、すっかり忘れてたよ」

莉子がふふっとやさしく笑った。
「いいよ。春ちゃんは今忙しいんだから、しょうがないよ」

いつまでも愛おしくて――莉子を抱きしめていた。

そのうち桃香がそばに来て、「パパ、長くない?」と言いに来た。
しょうがない。莉子が笑っていた。

とはいえ、旅行を夏に任せると言っても、連休まであまり日にちがない。
果たして間に合うだろうかと思ったが、任せた以上、俺よりはましなはずだ。

とりあえず、みんなで夕食をとった。
だが、なんだか俺はあまり食欲がなかった。

気を取り直して仕事モードに切り替える。

「夏、応募の履歴書見せてくれない?」

「え、今から仕事?」
「うん、悪いね。ちょっと気になるんだよ」
「じゃあ、取ってくるよ」
「あっ、俺も一緒に行くよ」

日曜日の院内はひっそりとしていた。

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