ゆきばあの、あしあと

当麻月菜

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初バイトからの、初インバイト

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「お!まぁーだ、潰れてなかったかんかい。この店は」

 入店と同時に失礼な発言をした中年男性は、よっこいせと声を上げつつ乱暴に席に座った。

 チラリとマスターを見たけれど、彼は平然とした表情でグラスに水を注いでいる。

「ヤナちゃん、もう時間だから上がっていいよ」

 時計の針は、15時5分前。きっとこの厄介そうな客から遠ざけてくれたのだろう。

 マスターの気遣いは、かなり嬉しい。しかしバイト初日から、この程度のことで甘えるわけにはいかない。

「ありがとうございます。じゃあ、オーダー取ったら上がらせてもらいます」
「え?いいよ。今日は十分頑張ったし──」
「なら、頑張りついでに、これだけ置いてきます」

 ペコリと頭を下げて、羽咲はマスターが用意してくれたお冷とおしぼりをトレーに乗せて、暑い暑いとぼやく客の前にそれらを置く。

「ご注文は、お決まりでしょうか?」

 たった一日で身についてしまった流れに逆らうことなく、羽咲はエプロンのポケットから伝票とボールペンを取り出す。

「んー?何がおススメかなぁ」

 わざとらしく尋ねる客から、中年男性特有のいやらしさを感じて、羽咲は一歩後退する。

「マ、マスターの作るものは何でもおいしいですよ」
「へぇー、若いのにわかってるじゃん」

 ニヤニヤ笑う客に限界を感じて、羽咲はマスターに目で助けを求める。すぐに「戻っておいで」と手招きされた。

「……ご注文、お決まりになりましたらお呼びください」

 少し悩んでから、決まり文句を口にして客から離れようとしたが──

「あれ?あんたのこと、なんか見たことあるなぁ」
「は……?」

 つい素の口調になってしまった羽咲だが、客は気にせずじっとこちらを見続ける。

「あー……ええっと……絶対に最近見たことある。どこだっけ……」

 こめかみを人差し指でトントン叩きながら必死に記憶をたどっている客に申し訳ないとわかっているが、羽咲は後退する足を止められない。

「ヤナちゃん、いいよ。こんなおっさんほっといて、こっちおいで」

 見かねたマスターに呼ばれ、羽咲は今度こそカウンターへと足を向ける。壁時計は、15時を2分過ぎていた。

「お疲れ様。もう本当に上がっていいから……と言いたかったんだけど、ちょっと残業できるかな?」
「い……は、はい」

 嫌、と言いかけて、羽咲は慌てて口をつぐむ。

 こちらを見続けている客の視線が嫌で、一刻も早く喫茶店を出たいのが本音だが、マスターの顔が怖くて結局は頷いてしまう。

 そんな羽咲の心情がわかったのか、マスターは歯を見せて笑った。

「大丈夫、残業って言っても、ちょっとお使いを頼みたいだけだから。家までは遠回りになっちゃうけど、届けたらそのまま帰っていいよ。ってことで、これを奏海に届けてやって」

 ドンッとカウンターに置かれた紙袋の中には、保冷剤がたっぷり入った大盛りサンドイッチだった。

「はいっ。任せてください!」
「おう!頼もしいね、任せた。あと、これはヤナちゃんに」
「え?わた……私にですか?」

 見た目よりずっしり重い紙袋を両手で持ち上げようとしたら、マスターが小さな紙袋をすっと差し出した。

 恐る恐る覗き込めば、幾つもある小さな保冷剤の中にプリンが3つ。しかも市販品ではなく、手作りだ。

「こんな美味しそうなの、もらっちゃっていいんですか?」
「嬉しいこと言ってくれるねー。うんうん、もらっちゃって。母さんの手作りプリンは絶品だから、ご家族で食べてよ。あとこれ、お給料。16時までにしとくから」
「やっ、それは……貰いすぎ」
「いーの、いーの!貰える時は、貰っておきな。それとお給料も」

 ガッハッハと笑ったと思えば、真面目な顔でマスターはエプロンのポケットから封筒を取り出した。

「あ、ありがとう……ございま、す!」

 人生初めて自分が働いたお金を受け取るんだと思ったら、自分でもびっくりするくらいジーンときた。

 鼻の奥がツンと痛くて、目頭が熱い。気を抜いたら涙が零れてしまいそうで、羽咲は若干下を向きつつ封筒を受け取る。思ったより、厚みがあった。

「え、あの……」
「辞めちゃった大学生と同じ時給にしといたよ。次は土曜日だよね?この調子で頑張ってくれよな」
「はい!」

 封筒を持つ手が震えて、返事も無駄に力んだせいで、声が裏返ってしまった。

 そんな羽咲を見て、マスターは満足そうに頷くと、客席に目を向けた。 

「……あのおっさん、まだうんうん唸ってるから、今のうちに裏口から出な」
「……はい。そうします」

 小声で会話を交わしたあと、羽咲は今度こそ紙袋を2つ持ってマスターと奏海の母親にペコリと頭を下げる。

 そしてそっと裏口に向かおうとしたけれど──

「ああっーーー!思い出した!うん、思い出したよ」

 間の悪いことに、記憶の樹海をさまよっていた客が現実に戻ってきてしまった。

「お……お疲れ様でーす」

 面倒くさいことに巻き込まれたくない羽咲は、帰りますアピールをして裏口に向かう。しかし客の神経は図太く、奥に消えようとしている羽咲に声をかけた。

「あんた、ゆきさんのお孫さんだろ?いやぁー、すごい偶然だねぇ」

 あの日の名無しの少年と同じような口調だが、羽咲はこの男性が誰なのか──もちろん、わからなかった。
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