生きるために逃げだした。幸せになりたい。

白水緑

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第0部-アネクシロア共和国-

001_日常

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 夕暮れの日差しを浴びながらリリアは本を読んでいた。本を閉じたタイミングで扉を軽く叩く音がし、くぐもった声が聞こえる。

「リリア様、お食事の時間です」
「すぐに行くわ」
 
 言葉通り立ち上がろうとした途端、眩暈に襲われたリリアは咄嗟に椅子の背もたれに手を伸ばして体を支える。目を閉じて数回深呼吸すれば眩暈は治まったようだ。またか。そう言いたげに溜息をついてようやくリリアは部屋を出た。
 年のころは十六、七。踵までの薄い青色のドレスが歩幅に合わせて揺れる。廊下ではリリアを呼びに来た侍女、サシャが待っていたが、出てくるまで不自然に時間がかかったリリアを訝しがることなく、手に持った灯りで廊下を照らしながら歩き出す。リリアの部屋がある一角以外は常に蝋燭で明るく照らされているが、リリアの部屋に出入りする人は少なく、日が暮れてからは手持ちの灯りがなければ廊下は真っ暗だった。いくつもの使われていない部屋の前を通り過ぎ、階段まで行けば手に持っていた灯りは必要なくなる。
 そして、階段を下りて玄関の正面にある大広間の隣にある少し広い部屋が、家族団欒の場だった。にぎやかな声と食器のぶつかり合う音が扉越しに聞こえ、すでに家族は食事を始めているようだ。
 サシャが軽いノックをし扉を開くと同時にぴたりと話し声がやみ、部屋中の視線がリリアに集まる。

「……申し訳ございません。遅くなりました」
「時間は守るように」
「はい……」
 
 時間に遅れたことを詫びると叱責こそされるものの、視線がリリアに向くことはない。隣に座っている妹のイリアは、あからさまにリリアの席とは逆へと体と向けて食事を続けた。
 少し待つとサシャが次々と料理を運んでくる。今日は羊肉の煮込み料理らしい。一緒に出された紅茶の甘い香りが食欲をそそる。ナイフとフォークを器用に使い、その欠片を口元に運ぶ。柔らかな味に隠れた悪意に眉をひそめて、時間をかけて飲み込んだ。
 何度かその動作を繰り返し、次の一口に手を伸ばしたところで、リリアの手が止まる。持っていたナイフを落とさないよう腕ごとテーブルに置く。何度か力を入れようとする仕草を繰り返し、小さなため息。
 
「どうかいたしましたか?」
「……なんでも」
「承知いたしました」
 
 もちろん何でもないはずがない。リリアにとってはいつものこととはいえ、自分の体が満足に動かせないのだ。体裁だけを取り繕ってみたところで事実には変わりはない。ふくれっ面を誰にも見られないよう顔を伏せたが、そんなことをせずとも誰も気づくことはない。母親のアイリーンを始め家族の誰もが、そして侍女ですらサシャ以外の視線がリリアに向くことはない。
 リリアは今までの経験から少し待てば元に戻ると知っており、一分後には何事もなかったかのように動かせるようになる。何度か手を止めながらも食事を終えたリリアが部屋を出るころには、サシャ以外誰もいなくなっていた。
 来た時と同じように先導されて部屋へ戻る途中、リリアは再び眩暈を感じて壁に手をつく。少し進んだところでついてきていないことに気づいたサシャが振り返り、立ち止まったその様子にまたかという表情を隠さない。
 
「お加減でも?」 
「……大丈夫。あとは自分で戻るから、あなたは仕事に戻っていいわ」
「承知いたしました」

 サシャは形だけ一礼すると足早に去っていった。間違っても今のリリアは体調が良くは見えないが、家族全員に疎んじられている娘には関心がないらしく、薄情なものだ。リリアはしばらく休んでからまた歩き出したが、灯りのない廊下になると足元への不安から歩く速度は落ちる。暗闇には慣れていても、明るいところから暗いところというのは視界が慣れるまではあまり見えない。そこに時折眩暈が起きるものだから、リリアは休憩がてら廊下に座り込む。
 しばらくすると、誰も通りかからないはずの廊下に足早に近づいてくる足音がし、リリアは青白い顔を向けた。リリアより少し年上にみえる、侍女の格好をした女性がそこにはいて、その姿にリリアはほっと息を吐く。

「……ルイ」
「リリアお嬢様」 

 ルイは恰幅の良い朗らかな表情を心配に染め、リリアのそばに膝をつく。

「また眩暈が?」
「ちょっと疲れただけよ。いつものことだから、大丈夫」
「大丈夫じゃありません! とにかく、部屋にお連れいたしますから……立てますか?」
 
 つい荒げた声は、リリアに人差し指を口元に当てられ、ルイはすみません、と小さく謝る。ルイはリリアを支えながら、ゆっくりとした歩調で部屋まで付き添うと、ベッドに入るよう促す。
 
「お薬を持ってきましたから、お休みになるのは少しお待ちくださいね」
「うん」
 
 部屋に備え付けてある茶器でてきぱきとお茶を入れたルイは、もう何度目になるかもわからない後悔を口にする。
 
「わたくしにお世話をさせてくだされば、毒など入れさせませんのに」
「でも、もうあの子が私の担当だもの」
「それは、そうですが……だからって、リリアお嬢様を殺そうとするなんて!」
「きっとお父様が命じたのでしょう。お嫌いだもの。幸い、ルイのおかげで生きているわ」
「今のままではいずれ! もう体だって随分弱ってきているのに……」
  
 怒った声と同時にガチャンと音を立ててサイドテーブルにカップが置かれる。リリアもルイが心配して怒っているのはわかっていた。だが、どうしようもないのだ。この屋敷での権力者は主人であるスウィフト公爵で、国でも有数の権力者。誰にも逆らうことはできない。
 とりあえずルイを落ち着かせようと、ティーカップを力いっぱい握っている手に、リリアが手を伸ばす。渡すように促されてようやく自分の興奮状態に気づいたルイは慌てて落ち着きを取り戻そうと深呼吸を繰り返した。
 
「心配ありがとう、ルイ」
 
 紅茶と一緒に差し出された薬を飲むと、苦さが暖かさと共に体中に広がりリリアは顔をしかめた。解毒剤が入ったせいで少し台無しになった紅茶の味は、慣れれば存外落ち着くもので、それは解毒剤の効果を実感しているせいでもあった。
 冷静さを取り戻したものの憮然とした表情でリリアを見守っていたルイは、空のカップを受け取ってすぐさま片付ける。ルイがリリアの世話をしていると、誰にも気づかれてはならなかった。
 
「来てくれてありがとうね」
「わたくしの主はリリアお嬢様だけですから。本当は毎日来られると良いのですが……。お薬はこちらに隠しておきますね」
「うん。ルイにはルイの仕事があるからあまり無理はしないでね」
 
 戸棚の陰に解毒剤の入った小袋を隠したルイが部屋を出ていくのを見送ってから、リリアは静かに目を閉じた。まだ日が暮れたばかりだが、体力がないリリアは長時間起きていることができなかった。
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