2 / 28
ソバキン家にて
2.目覚め、記憶の整理
しおりを挟む
目を覚ませば、ベッドの上でした。
胸がどきどきして、うるさいくらいです。頭も重くて、ぼんやりしています。身じろぎすれば、汗をびっしょりとかいたのか、ベッドの中が湿っているのがわかりました。
「……ーク様、シエノーク様」
シエノークは、僕の名前です。誰かが僕の名前を呼んでいます。重い瞼を開いてそちらに目を向ければ、そこにいたのは知らない男の人でした。男の人は、金色の糸で刺繍が施された白いローブ……この国のお医者様の服を身にまとっていました。ということは、この方はお医者様なのでしょう。
顔を見ようとして、頭が酷く痛んで目の前がぼやけ、思わずまた目をつむってしまいました。
ズキズキ痛む頭。目をつむったまま、僕は混乱していました。
痛い、頭が痛い、痛いということは、僕は、生きている。でも、背中は、刺されたはずの場所は、全く痛くない。怪我を、していない?
どうして、僕は生きているのでしょう?あれらは、全て夢だったのでしょうか?
いえ、そんなはずはありません。僕は、……そしてルスラン様は、確かに、あのとき命を落としました。
ということは、僕は、生き返ったのでしょうか?
僕は無理やり瞼を開けました。まずは今の状況を把握しなければ、と思ったのです。
そうして視界に飛び込んできたのは、こちらをのぞき込む、先ほどのお医者様。と、……見知らぬ女性と、見知らぬ男性。
僕が混乱している間に部屋に入ってきたのか、先ほどは視界に入らなかっただけで最初から部屋にいたのか……。
見知らぬ二人は上等な服を着ていて、貴族であることが察せられました。
一体、この人たちは誰だろう?
その疑問はすぐに解決しました。直前に起こったことを思い出したのです。
直前に起こったこととは、死の間際のことではありません。たしかにそれも僕としては直前に起こった出来事でしたが、『今』の僕の直前ではありません。
『今』の僕は、一ヶ月前にお父様を亡くした僕です。
ショックで錯乱しているときに、ソバキン伯爵家のソバキン夫妻に『君を引き取りたい。ソバキン家に来てくれないか』と手紙で問われて、お父様の言いつけ通りに『はい』としか答えられなかった僕です。
ソバキン家に初めて行く日、朝から頭痛がしている状態でソバキン家に訪れるための馬車に乗って、揺られている間にどんどん頭痛が悪化して、ソバキン家に到着して馬車を降り、ソバキン夫妻……今目の前にいる二人の顔を見た瞬間意識を失ってしまった僕です。
僕とルスラン様が命を落としたとき、僕もルスラン様も、18歳でした。
しかし、お父様を亡くしてソバキン家に来たのは、9歳の冬のことです。
咄嗟に自分の手を見ます。
躾のために食事が取れず、痩せ細り荒れた小さな子供の手がそこにありました。
僕は18歳のあの日、ルスラン様と共に命を落として、
──どうしてか、9歳に戻ってしまったようです。
自分の手を見て固まる僕に、男性……ソバキン伯爵家当主、イサク・ソバキン様は、「シエノーク君」と声をかけました。
「気分はどうだろうか。水は飲めるかい?」
咄嗟に「はい」と答えようとすると、喉に鋭い痛みが走り、せき込んでしまいました。頭だけではなく喉も痛いことに、その時初めて気が付きました。
それでもなんと絞り出した返事は酷くかすれていて、さっと血の気が引きました。
お父様の怒った顔が浮かびます。
『呼ばれたらすぐ返事をしろ』
『返事もまともにできないのか、この駄犬が』
『私は誰にでもできる簡単な事しか言っていないぞ、出来損ない』
そういえば、さっきお医者様に呼ばれた時も、まともに返事が出来ていませんでした。失敗はこれで二度目です。一度の失敗でも許されないのに、二度も連続で失敗してしまっては、僕はこれからどんな躾を受けることになるのでしょう。
躾をしていただけるのはありがたいことです。僕を躾けて楽しそうにしてくださると幸せを感じます。けれども、痛みや苦痛が恐ろしいという気持ちがないわけではありません。
せめて体を起こして水が飲めることを示そう、そう考えて上半身を持ち上げようとしたところで、イサク様の手が伸びてきて、思わず体を強張らせます。
……しかし、覚悟していた痛みは、いつまで経ってもやってきませんでした。
イサク様は起き上がろうとしている僕の背に手を入れると、僕の上半身を起こしてくださったのです。
動転して視線を忙しなく動かす僕に、イサク様の隣にいたソバキン伯爵夫人、アリサ・ソバキン様が水の入ったコップを差し出します。
「大丈夫よ。ゆっくり飲んでね」
「っ、はい゛」
汚い声でしたが、今度はなんとかすぐに返事ができました。なにが大丈夫なのかわからないまま水を受け取り、言われた通りにゆっくりゆっくりと一口ずつ飲みます。イサク様が僕の背中に添えた手を上下に動かしているのを感じました。
飲むたびに喉が痛みましたが、水はほんのりとした甘さとしょっぱさのある不思議な水で、おいしいと感じました。
痛みを我慢して飲み切ってしまってから、このようなものを僕が飲んでもよかったのかと不安を覚え、イサク様とアリサ様の表情を伺いました。
二人とも、怒った顔ではありませんでしたが、なんだか悲しそうな表情をしていました。
やはり飲むべきではなかったのかもしれません。居心地が悪くなって空になったコップに視線を戻すと、今度はお医者様が口を開きました。
「意識がはっきりしているようでよかった。少し体を診させてもらうね」
そう言うと、お医者様は素早く僕の喉や体を診て行きます。
診察はあっという間に終わり、お医者様は「ありがとう。熱が下がってのどの痛みが引くまでは安静にね」と優しく言って、僕をベッドに寝かせました。
「人が多いと休めないでしょうから、別室に移りましょうか」
イサク様とアリサ様がお医者様の言葉に頷き、三人は部屋を出ることになりました。
去り際、イサク様が「なにかあれば鈴を鳴らすように」とサイドテーブルに置かれた鈴を指さしてくださって、はい、と返事をしました。
三人が部屋を出るところを見送って、僕は目を閉じました。
******
次に目を覚ました時には、喉の痛みや体の怠さは残っていたものの、いくらか頭がすっきりしていました。
部屋には誰もいませんでした。僕は落ち着いて、自分の記憶を整理することにしました。
-
まず、僕は何者なのか。
『前』の僕は、ヴォルコ伯爵家のシエノーク・ヴォルコ、18歳でした。
僕のお父様はヴォルコ領を統治するヴォルコ伯爵。ちなみに、母は僕が1歳の頃にお父様ではない男と駆け落ちして失踪しています。
幼少期はお父様に犬として教育され、犬として生活していましたが、9歳の時にお父様が雪崩に巻き込まれて亡くなってしまいます。
犬とはいえヴォルコ家の一人息子であった僕は、9歳にしてヴォルコ領の当主となってしまったのですが、9歳の僕が自領の管理などできるわけがありません。そこで、僕を引き取って、僕が十分な能力を身に着けた大人になるまではヴォルコ領の面倒も見ると申し出てくださったのが、ヴォルコ領の隣のソバキン領を統治する、ソバキン伯爵夫妻です。
『今』の僕の記憶を思い出すと、ここまでは『前』の僕と変わらないように思います。
『今』の僕も、お父様の犬として育てられ、9歳の時にお父様を亡くし、ソバキン家に引き取られることになった僕なのです。
しかし、確か『前』の僕は、ソバキン家の顔合わせの際に熱を出してなどいませんでした。
この違いは、死んで時が戻ったことによる影響かもしれません。
-
続いて、僕はこの後の『前』の僕の記憶、ルスラン様に出会い、犬になるまでのことを思い返そうとしました。
……ここで、はたと気が付きます。
『前』の僕が知っているはずのことが、思い出せないのです。
例えば、ソバキン家のご令嬢のこと。ソバキン夫妻には一人娘がいて、それについては『今』の僕も知っているのですが、顔も、髪や目の色さえも、全く思い出せません。絶対に出会っているはずなのに。
そして、国立学園のルスラン様以外のクラスメートや教師。これも思い出せません。
更には、授業でどんなことを習ったかも、全く覚えていないのです。
『今』の僕が知っていることと、ルスラン様に関わるざっくりとした記憶、ルスラン様と僕の死の瞬間、……それ以外の詳細が、ほとんど抜け落ちています。
ルスラン様に関わる少しの記憶以外はほとんどリセットされてしまったと考えた方がよさそうです。
-
ここまで思い返して、僕は改めて疑問に思いました。
僕は、本当に死んで生き返ったのでしょうか?
全て僕のよくできた夢で、ルスラン様が死ぬ未来など、存在しないのではないでしょうか。
……いいえ。
このまま同じ道を辿れば、絶対に同じことが起こるでしょう。
不思議と、その確信がありました。
『前』と同じ道を辿るということは、ルスラン様が18歳にして亡くなってしまうということです。
そんなの、絶対に嫌です。
ご主人様が崖に向かっているとわかっていて進ませるのは、駄犬のすることです。ご主人様の進む先に崖があるならば、それを吠えて伝えるのが忠犬です。絶対服従の犬だからこそ、僕はルスラン様の死を防がねばならないのです。
ルスラン様の犬として、ルスラン様のために、僕はルスラン様が死ぬ未来を変えなくてはいけません。
-
では、ルスラン様が死ぬ未来を変えるために、僕はなにをすればいいのでしょうか。
僕がすべき行動を探るべく、僕は改めて思い出せる限りの『前』の記憶を思い出そうとしました。
まず、ルスラン様が死んだのは、王家に反抗し、王城に攻め入り、王の首を落としたからです。
ルスラン様の考えが間違っていたとは今でも思っていません。
けれども、ルスラン様が死んだということは、少なくとも方法はよくなかったのでしょう。
僕はあのとき、ルスラン様が死ぬかもしれないとも考えずにルスラン様の考えに同調して計画して協力してしまいました。しかし、それは間違っていました。
ルスラン様の命を守るために、ルスラン様に崖があることを伝えるために、僕は吠えるべきだったのです。
僕が一番やるべきことは、ルスラン様があの計画を立てて実行しようとしたときに、ルスラン様を止めることでしょう。
ルスラン様を傷つけることはできませんから、止める方法は『説得』一択です。
ルスラン様を説得するには、ルスラン様に僕の言葉を聞き入れてもらう必要があります。僕がいくら吠えても、ルスラン様が無視して突き進んでしまっては意味がないのです。
しかし、僕は伯爵家で、ルスラン様は侯爵家。いくら僕が当主でルスラン様が令息の立場といえど、僕の方が爵位が低いために、僕の言葉を聞き入れてもらえない可能性は高いです。
であれば、ルスラン様が『この犬が言っていることは正しいかもしれない』と思うくらいに、能力が高い優秀な犬になるしか、僕の言葉を聞いてもらう方法はありません。
……今の僕がやるべきことが決まりました。
『勉強』です。
『前』はご主人様より下でいるために試験などで手を抜いていましたが、今回はそんなことはできません。ルスラン様に話を聞く価値もない犬だと思われてはルスラン様を止められないからです。
入学して高い成績を維持し続け、ルスラン様が僕の言葉を無視できないようにするために、入学前の今から勉強しておくこと。それが、僕が早急にやらなければいけないことです。
この時期から入学に向けて勉強するには、ソバキン夫妻の協力が必要不可欠です。入学は三ヶ月後に迫っていますから、今から家庭教師をつけてもらうのは難しいかもしれませんが、頼み込めばソバキン領の図書館に連れて行ってもらえるかもしれません。
数ヶ月前、ヴォルコ家の家庭教師の方が、僕が国立学園初等部の授業内容を既に半分程度身につけていると仰っていたのを耳にしました。であれば、僕が勉強していた内容から、さらに踏み込んだ内容が書かれた本を探せば、予習になるのではないでしょうか。図書館に連れて行ってもらうことさえできれば、あとは自分で適切な本を探して勉強するだけです。
-
ここまで考えて、僕は咳き込みました。咳の衝撃で、喉と頭が強く痛みます。
……今すぐにでもソバキン夫妻に図書館に連れて行ってもらえないかお尋ねしたいところですが、いかんせん喉が痛みます。これでは、まともに会話することもできないでしょう。
まずは、この喉を治すことが最優先です。
胸がどきどきして、うるさいくらいです。頭も重くて、ぼんやりしています。身じろぎすれば、汗をびっしょりとかいたのか、ベッドの中が湿っているのがわかりました。
「……ーク様、シエノーク様」
シエノークは、僕の名前です。誰かが僕の名前を呼んでいます。重い瞼を開いてそちらに目を向ければ、そこにいたのは知らない男の人でした。男の人は、金色の糸で刺繍が施された白いローブ……この国のお医者様の服を身にまとっていました。ということは、この方はお医者様なのでしょう。
顔を見ようとして、頭が酷く痛んで目の前がぼやけ、思わずまた目をつむってしまいました。
ズキズキ痛む頭。目をつむったまま、僕は混乱していました。
痛い、頭が痛い、痛いということは、僕は、生きている。でも、背中は、刺されたはずの場所は、全く痛くない。怪我を、していない?
どうして、僕は生きているのでしょう?あれらは、全て夢だったのでしょうか?
いえ、そんなはずはありません。僕は、……そしてルスラン様は、確かに、あのとき命を落としました。
ということは、僕は、生き返ったのでしょうか?
僕は無理やり瞼を開けました。まずは今の状況を把握しなければ、と思ったのです。
そうして視界に飛び込んできたのは、こちらをのぞき込む、先ほどのお医者様。と、……見知らぬ女性と、見知らぬ男性。
僕が混乱している間に部屋に入ってきたのか、先ほどは視界に入らなかっただけで最初から部屋にいたのか……。
見知らぬ二人は上等な服を着ていて、貴族であることが察せられました。
一体、この人たちは誰だろう?
その疑問はすぐに解決しました。直前に起こったことを思い出したのです。
直前に起こったこととは、死の間際のことではありません。たしかにそれも僕としては直前に起こった出来事でしたが、『今』の僕の直前ではありません。
『今』の僕は、一ヶ月前にお父様を亡くした僕です。
ショックで錯乱しているときに、ソバキン伯爵家のソバキン夫妻に『君を引き取りたい。ソバキン家に来てくれないか』と手紙で問われて、お父様の言いつけ通りに『はい』としか答えられなかった僕です。
ソバキン家に初めて行く日、朝から頭痛がしている状態でソバキン家に訪れるための馬車に乗って、揺られている間にどんどん頭痛が悪化して、ソバキン家に到着して馬車を降り、ソバキン夫妻……今目の前にいる二人の顔を見た瞬間意識を失ってしまった僕です。
僕とルスラン様が命を落としたとき、僕もルスラン様も、18歳でした。
しかし、お父様を亡くしてソバキン家に来たのは、9歳の冬のことです。
咄嗟に自分の手を見ます。
躾のために食事が取れず、痩せ細り荒れた小さな子供の手がそこにありました。
僕は18歳のあの日、ルスラン様と共に命を落として、
──どうしてか、9歳に戻ってしまったようです。
自分の手を見て固まる僕に、男性……ソバキン伯爵家当主、イサク・ソバキン様は、「シエノーク君」と声をかけました。
「気分はどうだろうか。水は飲めるかい?」
咄嗟に「はい」と答えようとすると、喉に鋭い痛みが走り、せき込んでしまいました。頭だけではなく喉も痛いことに、その時初めて気が付きました。
それでもなんと絞り出した返事は酷くかすれていて、さっと血の気が引きました。
お父様の怒った顔が浮かびます。
『呼ばれたらすぐ返事をしろ』
『返事もまともにできないのか、この駄犬が』
『私は誰にでもできる簡単な事しか言っていないぞ、出来損ない』
そういえば、さっきお医者様に呼ばれた時も、まともに返事が出来ていませんでした。失敗はこれで二度目です。一度の失敗でも許されないのに、二度も連続で失敗してしまっては、僕はこれからどんな躾を受けることになるのでしょう。
躾をしていただけるのはありがたいことです。僕を躾けて楽しそうにしてくださると幸せを感じます。けれども、痛みや苦痛が恐ろしいという気持ちがないわけではありません。
せめて体を起こして水が飲めることを示そう、そう考えて上半身を持ち上げようとしたところで、イサク様の手が伸びてきて、思わず体を強張らせます。
……しかし、覚悟していた痛みは、いつまで経ってもやってきませんでした。
イサク様は起き上がろうとしている僕の背に手を入れると、僕の上半身を起こしてくださったのです。
動転して視線を忙しなく動かす僕に、イサク様の隣にいたソバキン伯爵夫人、アリサ・ソバキン様が水の入ったコップを差し出します。
「大丈夫よ。ゆっくり飲んでね」
「っ、はい゛」
汚い声でしたが、今度はなんとかすぐに返事ができました。なにが大丈夫なのかわからないまま水を受け取り、言われた通りにゆっくりゆっくりと一口ずつ飲みます。イサク様が僕の背中に添えた手を上下に動かしているのを感じました。
飲むたびに喉が痛みましたが、水はほんのりとした甘さとしょっぱさのある不思議な水で、おいしいと感じました。
痛みを我慢して飲み切ってしまってから、このようなものを僕が飲んでもよかったのかと不安を覚え、イサク様とアリサ様の表情を伺いました。
二人とも、怒った顔ではありませんでしたが、なんだか悲しそうな表情をしていました。
やはり飲むべきではなかったのかもしれません。居心地が悪くなって空になったコップに視線を戻すと、今度はお医者様が口を開きました。
「意識がはっきりしているようでよかった。少し体を診させてもらうね」
そう言うと、お医者様は素早く僕の喉や体を診て行きます。
診察はあっという間に終わり、お医者様は「ありがとう。熱が下がってのどの痛みが引くまでは安静にね」と優しく言って、僕をベッドに寝かせました。
「人が多いと休めないでしょうから、別室に移りましょうか」
イサク様とアリサ様がお医者様の言葉に頷き、三人は部屋を出ることになりました。
去り際、イサク様が「なにかあれば鈴を鳴らすように」とサイドテーブルに置かれた鈴を指さしてくださって、はい、と返事をしました。
三人が部屋を出るところを見送って、僕は目を閉じました。
******
次に目を覚ました時には、喉の痛みや体の怠さは残っていたものの、いくらか頭がすっきりしていました。
部屋には誰もいませんでした。僕は落ち着いて、自分の記憶を整理することにしました。
-
まず、僕は何者なのか。
『前』の僕は、ヴォルコ伯爵家のシエノーク・ヴォルコ、18歳でした。
僕のお父様はヴォルコ領を統治するヴォルコ伯爵。ちなみに、母は僕が1歳の頃にお父様ではない男と駆け落ちして失踪しています。
幼少期はお父様に犬として教育され、犬として生活していましたが、9歳の時にお父様が雪崩に巻き込まれて亡くなってしまいます。
犬とはいえヴォルコ家の一人息子であった僕は、9歳にしてヴォルコ領の当主となってしまったのですが、9歳の僕が自領の管理などできるわけがありません。そこで、僕を引き取って、僕が十分な能力を身に着けた大人になるまではヴォルコ領の面倒も見ると申し出てくださったのが、ヴォルコ領の隣のソバキン領を統治する、ソバキン伯爵夫妻です。
『今』の僕の記憶を思い出すと、ここまでは『前』の僕と変わらないように思います。
『今』の僕も、お父様の犬として育てられ、9歳の時にお父様を亡くし、ソバキン家に引き取られることになった僕なのです。
しかし、確か『前』の僕は、ソバキン家の顔合わせの際に熱を出してなどいませんでした。
この違いは、死んで時が戻ったことによる影響かもしれません。
-
続いて、僕はこの後の『前』の僕の記憶、ルスラン様に出会い、犬になるまでのことを思い返そうとしました。
……ここで、はたと気が付きます。
『前』の僕が知っているはずのことが、思い出せないのです。
例えば、ソバキン家のご令嬢のこと。ソバキン夫妻には一人娘がいて、それについては『今』の僕も知っているのですが、顔も、髪や目の色さえも、全く思い出せません。絶対に出会っているはずなのに。
そして、国立学園のルスラン様以外のクラスメートや教師。これも思い出せません。
更には、授業でどんなことを習ったかも、全く覚えていないのです。
『今』の僕が知っていることと、ルスラン様に関わるざっくりとした記憶、ルスラン様と僕の死の瞬間、……それ以外の詳細が、ほとんど抜け落ちています。
ルスラン様に関わる少しの記憶以外はほとんどリセットされてしまったと考えた方がよさそうです。
-
ここまで思い返して、僕は改めて疑問に思いました。
僕は、本当に死んで生き返ったのでしょうか?
全て僕のよくできた夢で、ルスラン様が死ぬ未来など、存在しないのではないでしょうか。
……いいえ。
このまま同じ道を辿れば、絶対に同じことが起こるでしょう。
不思議と、その確信がありました。
『前』と同じ道を辿るということは、ルスラン様が18歳にして亡くなってしまうということです。
そんなの、絶対に嫌です。
ご主人様が崖に向かっているとわかっていて進ませるのは、駄犬のすることです。ご主人様の進む先に崖があるならば、それを吠えて伝えるのが忠犬です。絶対服従の犬だからこそ、僕はルスラン様の死を防がねばならないのです。
ルスラン様の犬として、ルスラン様のために、僕はルスラン様が死ぬ未来を変えなくてはいけません。
-
では、ルスラン様が死ぬ未来を変えるために、僕はなにをすればいいのでしょうか。
僕がすべき行動を探るべく、僕は改めて思い出せる限りの『前』の記憶を思い出そうとしました。
まず、ルスラン様が死んだのは、王家に反抗し、王城に攻め入り、王の首を落としたからです。
ルスラン様の考えが間違っていたとは今でも思っていません。
けれども、ルスラン様が死んだということは、少なくとも方法はよくなかったのでしょう。
僕はあのとき、ルスラン様が死ぬかもしれないとも考えずにルスラン様の考えに同調して計画して協力してしまいました。しかし、それは間違っていました。
ルスラン様の命を守るために、ルスラン様に崖があることを伝えるために、僕は吠えるべきだったのです。
僕が一番やるべきことは、ルスラン様があの計画を立てて実行しようとしたときに、ルスラン様を止めることでしょう。
ルスラン様を傷つけることはできませんから、止める方法は『説得』一択です。
ルスラン様を説得するには、ルスラン様に僕の言葉を聞き入れてもらう必要があります。僕がいくら吠えても、ルスラン様が無視して突き進んでしまっては意味がないのです。
しかし、僕は伯爵家で、ルスラン様は侯爵家。いくら僕が当主でルスラン様が令息の立場といえど、僕の方が爵位が低いために、僕の言葉を聞き入れてもらえない可能性は高いです。
であれば、ルスラン様が『この犬が言っていることは正しいかもしれない』と思うくらいに、能力が高い優秀な犬になるしか、僕の言葉を聞いてもらう方法はありません。
……今の僕がやるべきことが決まりました。
『勉強』です。
『前』はご主人様より下でいるために試験などで手を抜いていましたが、今回はそんなことはできません。ルスラン様に話を聞く価値もない犬だと思われてはルスラン様を止められないからです。
入学して高い成績を維持し続け、ルスラン様が僕の言葉を無視できないようにするために、入学前の今から勉強しておくこと。それが、僕が早急にやらなければいけないことです。
この時期から入学に向けて勉強するには、ソバキン夫妻の協力が必要不可欠です。入学は三ヶ月後に迫っていますから、今から家庭教師をつけてもらうのは難しいかもしれませんが、頼み込めばソバキン領の図書館に連れて行ってもらえるかもしれません。
数ヶ月前、ヴォルコ家の家庭教師の方が、僕が国立学園初等部の授業内容を既に半分程度身につけていると仰っていたのを耳にしました。であれば、僕が勉強していた内容から、さらに踏み込んだ内容が書かれた本を探せば、予習になるのではないでしょうか。図書館に連れて行ってもらうことさえできれば、あとは自分で適切な本を探して勉強するだけです。
-
ここまで考えて、僕は咳き込みました。咳の衝撃で、喉と頭が強く痛みます。
……今すぐにでもソバキン夫妻に図書館に連れて行ってもらえないかお尋ねしたいところですが、いかんせん喉が痛みます。これでは、まともに会話することもできないでしょう。
まずは、この喉を治すことが最優先です。
77
あなたにおすすめの小説
転生したら乙女ゲームのモブキャラだったのでモブハーレム作ろうとしたら…BLな方向になるのだが
松林 松茸
BL
私は「南 明日香」という平凡な会社員だった。
ありふれた生活と隠していたオタク趣味。それだけで満足な生活だった。
あの日までは。
気が付くと大好きだった乙女ゲーム“ときめき魔法学院”のモブキャラ「レナンジェス=ハックマン子爵家長男」に転生していた。
(無いものがある!これは…モブキャラハーレムを作らなくては!!)
その野望を実現すべく計画を練るが…アーな方向へ向かってしまう。
元日本人女性の異世界生活は如何に?
※カクヨム様、小説家になろう様で同時連載しております。
5月23日から毎日、昼12時更新します。
運命の番は僕に振り向かない
ゆうに
BL
大好きだったアルファの恋人が旅先で運命の番と出会ってしまい、泣く泣く別れた経験があるオメガの千遥。
それ以来、ずっと自分の前にも運命の番があらわれることを切に願っていた。
オメガひとりの生活は苦しく、千遥は仕方なく身体を売って稼ぐことを決心する。
ネットで知り合った相手と待ち合わせ、雑踏の中を歩いている時、千遥は自分の運命の番を見つけた。
ところが視線が確かに合ったのに運命の番は千遥を避けるように去っていく。彼の隣には美しいオメガがいた。
ベータのような平凡な見た目のオメガが主人公です。
ふんわり現代、ふんわりオメガバース、設定がふんわりしてます。
美貌の貧乏男爵、犬扱いしていた隣国の王子に求婚される
muku
BL
父亡き後、若くして男爵となったノエルは領地経営に失敗し、多額の借金を抱えて途方に暮れていた。そこへやって来たのは十年前に「野良犬」として保護していた少年レオで、彼の成長を喜ぶノエルだったが、実はその正体が大国の王子であったと知って驚愕する。
復讐に来たのだと怯えて逃げ出すノエルだったが、レオことレオフェリス王子はノエルに結婚してほしいと頼み始める。
男爵邸に滞在すると言い出す王子は「自分はあなたの犬だ」と主張し、ノエルは混乱するしかない。見通しの立たない返済計画、積極的な犬王子、友人からのありえない提案と、悩みは尽きない美貌の男爵。
借金完済までの道のりは遠い。
【大至急】誰でもいいので、魔王からの求婚を穏便に断る方法を教えてください。
志子
BL
魔王(美形でめっちゃピュア)×聖職者(平凡)のお話。
聖女の力を持っている元孤児ロニーは教会で雑用をこなす日々。そんなロニーの元に一匹の黒猫が姿を現し、いつしかロニーの小さな友人となった。
注意)性的な言葉と表現があります。
公爵子息だったけど勘違いが恥ずかしいので逃走します
市之川めい
BL
魔王を倒した英雄によって建国されたグレンロシェ王国。その後は現在までに二人、王家の血を引く者から英雄が現れている。
四大公爵家嫡男、容姿端麗、成績優秀と全てにおいて恵まれているジルベールは、いつか自分も英雄になると思い、周りには貴公子然とした態度で接しながらも裏では使用人の息子、レオンに対して傲慢に振る舞い性的な関係まで強要していた。
だが、魔王の襲来時に平民であるはずのレオンが英雄になった。
自分とレオンの出生の秘密を知ったジルベールは恥ずかしくなって逃走することにしたが、レオンが迎えに来て……。
※性描写あり。他サイトにも掲載しています。
美人王配候補が、すれ違いざまにめっちゃ睨んでくるんだが?
あだち
BL
戦場帰りの両刀軍人(攻)が、女王の夫になる予定の貴公子(受)に心当たりのない執着を示される話。ゆるめの設定で互いに殴り合い罵り合い、ご都合主義でハッピーエンドです。
僕はただの妖精だから執着しないで
ふわりんしず。
BL
BLゲームの世界に迷い込んだ桜
役割は…ストーリーにもあまり出てこないただの妖精。主人公、攻略対象者の恋をこっそり応援するはずが…気付いたら皆に執着されてました。
お願いそっとしてて下さい。
♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎
多分短編予定
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる