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ソバキン家にて
3.ソバキン夫妻にご挨拶
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薬がよく効いて、幸い、喉の痛みは翌日の夕方には治っていました。体と頭は怠かったですが、交渉には支障なさそうです。
ベッドの上で発声練習を少しして、問題ないことを確認します。
……そういえば、『今』の僕が、授業中でもないのに『はい』と『わん』以外の言葉を発したのは、これが初めてです。酷く怒ったお父様の顔が浮かんで体が強張りますが、『はい』と『わん』以外の発声に早く慣れなければ、ルスラン様に対して吠えることもできません。
ちょうど、水を替えに使用人さんが来てくださったので、僕は自分に『今は授業中だ』と言い聞かせながら、勇気を振り絞って声をかけました。
「お忙しいところ申し訳ございません。イサク様とアリサ様に言伝を頼みたいのですが、よろしいでしょうか」
使用人さんは目を丸くしてこちらを見て、少しの間が合ってから「……は、はい!」と返事をしてくださいました。
……僕は、なにか間違えたのでしょうか。不安を覚え、無意識にベッドシーツを握りながら、無理やり言葉を捻り出します。
「『すっかり体の調子がよくなりましたので、改めてソバキン家の方々にご挨拶したいです。お時間があるときにお部屋に出向いてもよろしいでしょうか』と、イサク様とアリサ様に伝えていただけると嬉しいです」
「しょ、承知いたしました。すぐにお伝えします」
使用人さんは、僕に頭を下げると、すぐにソバキン夫妻に伝えに行ってくださいました。
まさか、こんな僕の不躾な申し出に嫌な顔一つせずすぐに対応してもらえるとは思わず、僕はベッドの上で呆然としました。
『前』の僕も、このように大切な客人のような扱いを受けていたでしょうか?
……なんとなく、そうではなかったような気がします。
そういえば、熱を出していなかった『前』の僕は、ソバキン夫妻にどのような挨拶をしたのでしたっけ。
======
『お父様、どうして帰ってきてくださらないのですか』
『お父様、どうしてどこにもいらっしゃらないのですか』
『お父様、ご主人様を失った僕は、これからどうやって生きていけばいいのですか』
『お父様、お父様、お父様、お父様……』
そんなことをぐるぐると考えながら、僕は馬車に揺られていました。
いっそのこと、この馬車も雪崩に巻き込まれてしまえばいいのに。そんな風に考えましたが、あいにく空は嫌になるほど晴れていて、ヴォルコ領とソバキン領を繋ぐ平坦で大きな道も綺麗に除雪されていました。
馬車は残酷にも順調に進み、あっという間にソバキン家に到着しました。
しばらくまともに食事を取っていなかった僕がふらつきながら馬車を降りると、ソバキン夫妻と思われる男女が僕に近づいてきました。
「大丈夫かい!?」
男性がそう聞いてきたので、僕は「はい」と返事をしました。
「ああ、こんなに痩せて……。……私はイサク・ソバキンだ。こちらは私の妻のアリサ。シエノーク君だね?」
「はい」
「君のことはヴォルコ家を訪ねたうちの使用人から聞いている。気づいてやれなくて、本当にすまない……」
悲しそうな顔で声を震わせるイサク様。
……イサク様とアリサ様はこちらを見て、黙ってしまいました。
これは、僕の返事を待っているのでしょうか?
しかし、質問されたわけではないようです。
……こういう時にする返事は決まっています。僕は息を吸い込んで、掠れた声で返事をしました。
「わん」
「……は?」
僕はびくりと体を震わせます。これはお父様が怒ったときによく発する音です。
もしかすると、声が小さかったのかもしれません。僕はとびきりの笑顔を作って、もう少し大きな声で返事をしました。
「わん!」
イサク様とアリサ様が、ひどく驚いた顔でこちらを見ています。今度は大きすぎたでしょうか?なにかを間違えている空気だけはわかります。しかし、正解がわからず、困ってしまって、僕は笑顔を浮かべたまま躾を待ちました。
「……君は、一体どういう生活を……」
イサク様がそう言うと、また言葉が途切れました。すかさず「わん」と言うと、「やめなさい」と返されます。
わん、は言ってはいけないようです。バカな僕にもそれだけはわかりました。間違えてしまいました。手が震えます。「はい」と、答えた声も震えていました。
「…………すまない。怯えなくていいんだ。大丈夫。私たちは君を酷い目にあわせたりしないよ」
「? はい」
よくわからないまま返事をする僕を見て、アリサ様が遠慮がちに口を開きました。
「シエノーク君。言いたいことがあれば、言っていいのよ。言ってほしいわ。貴方の言葉が聞きたいの」
僕は息を吞みました。そんなこと、初めて言われました。言いたいことを言ってほしい、そう言われれば、僕は僕が言いたいことを言うしかありません。ですが、僕が言いたいこととは、なんでしょう?
アリサ様とイサク様は、口をつぐんでこちらを見ています。明らかに、僕の言葉を待っているようです。
僕は焦りを感じました。待たせてしまっている、早く、一刻も早く、なにか言わなくては。
頭をフル回転させて考えます。
なにか、なんでもいい、僕が、言いたいこと……。
……僕の、望み……。
……そうだ、ありました。僕の、たった一つの願い。
ようやく返事ができる。助かった。そう思って、救われたような気持ちで笑って、僕はこう言いました。
「僕の、新しいご主人様になってください!」
======
……そうでした。
突然記憶が鮮明に蘇り、僕は思わず苦笑しました。
ソバキン夫妻のご令嬢のことなど、他の事は相変わらず思い出せませんでしたが、僕が最悪のファーストコンタクトを決めたことだけはばっちり思い出しました。
そう、『前』の人生を経験した『今』の僕なら、それが最悪だということが認識できるのです。
『前』の僕は確か、ルスラン様が新しいご主人様になってくださるまで、ソバキン夫妻はもちろん、使用人さんや、国立学園のクラスメート、教師……、ありとあらゆる人にご主人様になってほしいと頼んでは玉砕し、気味悪がられ、遠巻きにされていきました。
そんな経験をした『前』の記憶があるため、ご主人様になってほしいとお願いすることは異常で、気持ちの悪い行為だと、『今』は知っています。
……おそらく、僕が『前』と同じことをすれば、また気味悪がられて遠巻きにされてしまうでしょう。図書館に行きたいという交渉にも支障が出るかもしれません。
『今』の僕はすでにルスラン様の犬ですから、他の誰かに新しいご主人様になってほしいなどと言うことはありませんが、他の部分で気味悪がられる可能性は大いにあります。お父様やヴォルコ家の方々、『前』に出会った人たちの態度からわかるように、僕は他の人にとって、気持ちの悪い存在のようですから。
……今思えば、そんな気持ちの悪い人間に吠えられても、ルスラン様は気味悪がって聞いてくださらなかったかもしれません。
どうにかして、僕の気持ちの悪い部分を覆い隠す方法を身に着けることも、僕がやるべきことに追加されました。
僕自身が、僕のどこが気持ち悪いのかよくわかっていないので、隠す方法もわかりませんが、しかしやるしかありません。
とりあえず、『はい』と『わん』しか言わないのがまずいのはわかります。これは『前』の時も言われた気がします。
それ以外のよくないところは、ソバキン家の方々とたくさんお話して、気持ち悪がられたり嫌そうな顔をされたらやめることで、なんとか入学までの三カ月の間に改善を図るしかありません。
そんな風に考えていると、扉がノックされる音がしました。思わず「はい」と言って、焦ります。この「はい」は大丈夫だったでしょうか。
「イサクだ。アリサもいる。入ってもいいか?」
「はい、……大丈夫です!」
また思わず返事をしてしまいました。すぐに別の言葉を付け足したので、大丈夫だと信じたいです。
僕の返事から一拍おいて、イサク様とアリサ様が扉を開けて入ってきてくださいます。
僕がお部屋に出向いてご挨拶するつもりでしたが、イサク様とアリサ様にこちらまで来ていただいてしまいました。
ちょうど通りがかったところだったのでしょうか?なんにせよ、挨拶したいと言って会っていただいているのですから、きちんと挨拶しなければいけません。
挨拶の方法や目上の人との接し方は授業で習いました。今は授業の時間だと自分に言い聞かせ、僕は口を開きます。
「ご挨拶が遅れてしまって大変申し訳ございません。改めて、初めまして。僕はヴォルコ伯爵家のシエノーク・ヴォルコです」
そう言って、頭を下げます。
それで、ええと、他に言うことはなんだったでしょうか。
僕は必死で頭を回し、言葉を続けます。
「未熟な僕の代わりにヴォルコ領を管理してくださるだけでなく、僕の面倒を見るとまで申し出てくださって、本当にありがとうございます。にも関わらず、ソバキン家の前で倒れてご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありません」
そう言いながら、僕がすでに多大なる迷惑をかけていたことを、改めて思い出しました。
ソバキン家の前で倒れて、医者を呼んでいただいて、美味しいお水や薬まで飲ませていただいて……、……迷惑をかけすぎです。すでに嫌われていたらどうしましょう。悪い想像をして、変な汗が出てきました。
「顔を上げてくれ、シエノーク君」
イサク様の言葉に顔を上げると、イサク様とアリサ様は、優しげな顔で僕に微笑みかけてくれていました。
嫌われては……いなさそうです。多分。
「丁寧に挨拶をしてくれてありがとう。私はソバキン伯爵家の当主、イサク・ソバキン。こちらは妻のアリサだ。君のその年でそんなにしっかりした挨拶をしてもらえるとは思わなくて驚いたよ。君はとても優秀なんだね」
優秀?僕が?
思っても見なかったことを言われて目を丸くしている間に、イサク様は言葉を続けます。
「領地のことも、体を壊してしまったことも気にしなくていい。どちらも君にはどうしようもできなかったことで、君が責任を感じる必要はないんだ。……君がヴォルコ家でどんな扱いを受けていたのかは、ヴォルコ家を訪ねたうちの使用人から聞いている。……その状態で、冬の寒いときに無理に移動させてしまったのだから、体調を崩すのも無理はなかった。無理をさせてしまって本当にすまない……。……気づいてやれなくて、すまない」
『前』と似たようなことを言われました。
『前』は確かここで『わん』と答えて失敗したので、もう同じことは繰り返しません。
……かといって、他に適切な返答も思いつかないのですが。
「……いえ……、……大丈夫、です……」
なんとか絞り出した『前』とは違う返事は、なんとも煮え切らない情けないものになってしまいました。
イサク様が悲しそうな顔をしているので、失敗したかもしれません。不甲斐なくて泣きそうです。
微妙な空気が流れ、どうしようかと思っていると、アリサ様が口を開きました。
「シエノーク君。これからよろしくね。なにかしてほしいことがあれば、遠慮なく言ってほしいわ。全てを叶えられるわけではないけれど、叶えられるように努力するから」
言われ、はっとします。そうです。僕は図書館に行きたいのです。緊張で忘れるところでした。
せっかくアリサ様から申し出てくださったのですから、今のうちに言っておきましょう。今が一番聞いていただけるタイミングな気がします。
「あの、僕、」
「なんだい?」
「なあに?」
二人が身を乗り出してきて、僕は少しのけぞりました。
……いえ、怯んでいる場合ではありません。
「勉強したいんです。国立学園に入学するまでに予習がしたくて、だから、その、ソバキン領の図書館に連れて行ってもらいたいのです。図書館にさえ行くことができれば、あとは相応しい本を自分で探します。お願いします……」
「おお……勉強熱心なんだな。感心するよ。そういうことなら、ヴェルナの家庭教師に、シエノーク君の勉強も見るよう頼もうか。ヴェルナの授業は元々そんなに詰めていないから、ヴェルナや家庭教師のスケジュールを圧迫することもないだろう。図書館は少し遠いから、この時期に行くとまた体を壊してしまうかもしれない」
「ヴェルナは、私たちの娘よ。シエノーク君の一歳下なの」
家庭教師!?それは、図書館に行くよりもずっと確実な方法です。魅力的な提案をしてくださるイサク様の言葉を、アリサ様が補足しました。
「……あ、ありがとう、ございます。ぜひ、おねがいします」
「いいんだ。いずれはヴォルコ領の統治を君に任せることになる。そのときのために、私たちとしても、君にはたくさん勉強してもらいたいんだよ」
「……そうだ、シエノーク君が大丈夫そうなら、ヴェルナとも会ってくれると嬉しいわ。ヴェルナは大人しい子だし、私たちもついているから……、……どうかしら?」
アリサ様の申し出に、僕は思わず「はい」と言ってしまいました。
……『はい』か『いいえ』で返事をする質問は、反射的に『はい』と答えてしまう癖がついているようです。
とはいえ、ヴェルナ様との顔合わせについてはよく考えて答えたとしても『はい』です。
僕の返事にアリサ様は安心したように笑います。「今からはどう?呼んでもいい?」と尋ねられ、今度はちゃんと考えてから「はい」と答えました。なるべく早く挨拶をした方が印象がいいでしょう。
……僕が訪ねるのではなくて、ヴェルナ様に来てもらうことになってしまっているのは申し訳ないですが、アリサ様が言い出したことなのですから、きっといいのでしょう。
アリサ様は、扉の外で待機していた使用人さんに、ヴェルナ様を呼んでくるように声をかけました。「すぐ来ると思うわ」と言われ、僕はアリサ様とイサク様と共に、ヴェルナ様を待ちました。
お二人の顔色を伺いながら、僕は考えます。
今のところ、イサク様とアリサ様には気持ち悪がられてはいなさそうです。
ヴェルナ様にも気持ち悪がられないといいのですが。
ベッドの上で発声練習を少しして、問題ないことを確認します。
……そういえば、『今』の僕が、授業中でもないのに『はい』と『わん』以外の言葉を発したのは、これが初めてです。酷く怒ったお父様の顔が浮かんで体が強張りますが、『はい』と『わん』以外の発声に早く慣れなければ、ルスラン様に対して吠えることもできません。
ちょうど、水を替えに使用人さんが来てくださったので、僕は自分に『今は授業中だ』と言い聞かせながら、勇気を振り絞って声をかけました。
「お忙しいところ申し訳ございません。イサク様とアリサ様に言伝を頼みたいのですが、よろしいでしょうか」
使用人さんは目を丸くしてこちらを見て、少しの間が合ってから「……は、はい!」と返事をしてくださいました。
……僕は、なにか間違えたのでしょうか。不安を覚え、無意識にベッドシーツを握りながら、無理やり言葉を捻り出します。
「『すっかり体の調子がよくなりましたので、改めてソバキン家の方々にご挨拶したいです。お時間があるときにお部屋に出向いてもよろしいでしょうか』と、イサク様とアリサ様に伝えていただけると嬉しいです」
「しょ、承知いたしました。すぐにお伝えします」
使用人さんは、僕に頭を下げると、すぐにソバキン夫妻に伝えに行ってくださいました。
まさか、こんな僕の不躾な申し出に嫌な顔一つせずすぐに対応してもらえるとは思わず、僕はベッドの上で呆然としました。
『前』の僕も、このように大切な客人のような扱いを受けていたでしょうか?
……なんとなく、そうではなかったような気がします。
そういえば、熱を出していなかった『前』の僕は、ソバキン夫妻にどのような挨拶をしたのでしたっけ。
======
『お父様、どうして帰ってきてくださらないのですか』
『お父様、どうしてどこにもいらっしゃらないのですか』
『お父様、ご主人様を失った僕は、これからどうやって生きていけばいいのですか』
『お父様、お父様、お父様、お父様……』
そんなことをぐるぐると考えながら、僕は馬車に揺られていました。
いっそのこと、この馬車も雪崩に巻き込まれてしまえばいいのに。そんな風に考えましたが、あいにく空は嫌になるほど晴れていて、ヴォルコ領とソバキン領を繋ぐ平坦で大きな道も綺麗に除雪されていました。
馬車は残酷にも順調に進み、あっという間にソバキン家に到着しました。
しばらくまともに食事を取っていなかった僕がふらつきながら馬車を降りると、ソバキン夫妻と思われる男女が僕に近づいてきました。
「大丈夫かい!?」
男性がそう聞いてきたので、僕は「はい」と返事をしました。
「ああ、こんなに痩せて……。……私はイサク・ソバキンだ。こちらは私の妻のアリサ。シエノーク君だね?」
「はい」
「君のことはヴォルコ家を訪ねたうちの使用人から聞いている。気づいてやれなくて、本当にすまない……」
悲しそうな顔で声を震わせるイサク様。
……イサク様とアリサ様はこちらを見て、黙ってしまいました。
これは、僕の返事を待っているのでしょうか?
しかし、質問されたわけではないようです。
……こういう時にする返事は決まっています。僕は息を吸い込んで、掠れた声で返事をしました。
「わん」
「……は?」
僕はびくりと体を震わせます。これはお父様が怒ったときによく発する音です。
もしかすると、声が小さかったのかもしれません。僕はとびきりの笑顔を作って、もう少し大きな声で返事をしました。
「わん!」
イサク様とアリサ様が、ひどく驚いた顔でこちらを見ています。今度は大きすぎたでしょうか?なにかを間違えている空気だけはわかります。しかし、正解がわからず、困ってしまって、僕は笑顔を浮かべたまま躾を待ちました。
「……君は、一体どういう生活を……」
イサク様がそう言うと、また言葉が途切れました。すかさず「わん」と言うと、「やめなさい」と返されます。
わん、は言ってはいけないようです。バカな僕にもそれだけはわかりました。間違えてしまいました。手が震えます。「はい」と、答えた声も震えていました。
「…………すまない。怯えなくていいんだ。大丈夫。私たちは君を酷い目にあわせたりしないよ」
「? はい」
よくわからないまま返事をする僕を見て、アリサ様が遠慮がちに口を開きました。
「シエノーク君。言いたいことがあれば、言っていいのよ。言ってほしいわ。貴方の言葉が聞きたいの」
僕は息を吞みました。そんなこと、初めて言われました。言いたいことを言ってほしい、そう言われれば、僕は僕が言いたいことを言うしかありません。ですが、僕が言いたいこととは、なんでしょう?
アリサ様とイサク様は、口をつぐんでこちらを見ています。明らかに、僕の言葉を待っているようです。
僕は焦りを感じました。待たせてしまっている、早く、一刻も早く、なにか言わなくては。
頭をフル回転させて考えます。
なにか、なんでもいい、僕が、言いたいこと……。
……僕の、望み……。
……そうだ、ありました。僕の、たった一つの願い。
ようやく返事ができる。助かった。そう思って、救われたような気持ちで笑って、僕はこう言いました。
「僕の、新しいご主人様になってください!」
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……そうでした。
突然記憶が鮮明に蘇り、僕は思わず苦笑しました。
ソバキン夫妻のご令嬢のことなど、他の事は相変わらず思い出せませんでしたが、僕が最悪のファーストコンタクトを決めたことだけはばっちり思い出しました。
そう、『前』の人生を経験した『今』の僕なら、それが最悪だということが認識できるのです。
『前』の僕は確か、ルスラン様が新しいご主人様になってくださるまで、ソバキン夫妻はもちろん、使用人さんや、国立学園のクラスメート、教師……、ありとあらゆる人にご主人様になってほしいと頼んでは玉砕し、気味悪がられ、遠巻きにされていきました。
そんな経験をした『前』の記憶があるため、ご主人様になってほしいとお願いすることは異常で、気持ちの悪い行為だと、『今』は知っています。
……おそらく、僕が『前』と同じことをすれば、また気味悪がられて遠巻きにされてしまうでしょう。図書館に行きたいという交渉にも支障が出るかもしれません。
『今』の僕はすでにルスラン様の犬ですから、他の誰かに新しいご主人様になってほしいなどと言うことはありませんが、他の部分で気味悪がられる可能性は大いにあります。お父様やヴォルコ家の方々、『前』に出会った人たちの態度からわかるように、僕は他の人にとって、気持ちの悪い存在のようですから。
……今思えば、そんな気持ちの悪い人間に吠えられても、ルスラン様は気味悪がって聞いてくださらなかったかもしれません。
どうにかして、僕の気持ちの悪い部分を覆い隠す方法を身に着けることも、僕がやるべきことに追加されました。
僕自身が、僕のどこが気持ち悪いのかよくわかっていないので、隠す方法もわかりませんが、しかしやるしかありません。
とりあえず、『はい』と『わん』しか言わないのがまずいのはわかります。これは『前』の時も言われた気がします。
それ以外のよくないところは、ソバキン家の方々とたくさんお話して、気持ち悪がられたり嫌そうな顔をされたらやめることで、なんとか入学までの三カ月の間に改善を図るしかありません。
そんな風に考えていると、扉がノックされる音がしました。思わず「はい」と言って、焦ります。この「はい」は大丈夫だったでしょうか。
「イサクだ。アリサもいる。入ってもいいか?」
「はい、……大丈夫です!」
また思わず返事をしてしまいました。すぐに別の言葉を付け足したので、大丈夫だと信じたいです。
僕の返事から一拍おいて、イサク様とアリサ様が扉を開けて入ってきてくださいます。
僕がお部屋に出向いてご挨拶するつもりでしたが、イサク様とアリサ様にこちらまで来ていただいてしまいました。
ちょうど通りがかったところだったのでしょうか?なんにせよ、挨拶したいと言って会っていただいているのですから、きちんと挨拶しなければいけません。
挨拶の方法や目上の人との接し方は授業で習いました。今は授業の時間だと自分に言い聞かせ、僕は口を開きます。
「ご挨拶が遅れてしまって大変申し訳ございません。改めて、初めまして。僕はヴォルコ伯爵家のシエノーク・ヴォルコです」
そう言って、頭を下げます。
それで、ええと、他に言うことはなんだったでしょうか。
僕は必死で頭を回し、言葉を続けます。
「未熟な僕の代わりにヴォルコ領を管理してくださるだけでなく、僕の面倒を見るとまで申し出てくださって、本当にありがとうございます。にも関わらず、ソバキン家の前で倒れてご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありません」
そう言いながら、僕がすでに多大なる迷惑をかけていたことを、改めて思い出しました。
ソバキン家の前で倒れて、医者を呼んでいただいて、美味しいお水や薬まで飲ませていただいて……、……迷惑をかけすぎです。すでに嫌われていたらどうしましょう。悪い想像をして、変な汗が出てきました。
「顔を上げてくれ、シエノーク君」
イサク様の言葉に顔を上げると、イサク様とアリサ様は、優しげな顔で僕に微笑みかけてくれていました。
嫌われては……いなさそうです。多分。
「丁寧に挨拶をしてくれてありがとう。私はソバキン伯爵家の当主、イサク・ソバキン。こちらは妻のアリサだ。君のその年でそんなにしっかりした挨拶をしてもらえるとは思わなくて驚いたよ。君はとても優秀なんだね」
優秀?僕が?
思っても見なかったことを言われて目を丸くしている間に、イサク様は言葉を続けます。
「領地のことも、体を壊してしまったことも気にしなくていい。どちらも君にはどうしようもできなかったことで、君が責任を感じる必要はないんだ。……君がヴォルコ家でどんな扱いを受けていたのかは、ヴォルコ家を訪ねたうちの使用人から聞いている。……その状態で、冬の寒いときに無理に移動させてしまったのだから、体調を崩すのも無理はなかった。無理をさせてしまって本当にすまない……。……気づいてやれなくて、すまない」
『前』と似たようなことを言われました。
『前』は確かここで『わん』と答えて失敗したので、もう同じことは繰り返しません。
……かといって、他に適切な返答も思いつかないのですが。
「……いえ……、……大丈夫、です……」
なんとか絞り出した『前』とは違う返事は、なんとも煮え切らない情けないものになってしまいました。
イサク様が悲しそうな顔をしているので、失敗したかもしれません。不甲斐なくて泣きそうです。
微妙な空気が流れ、どうしようかと思っていると、アリサ様が口を開きました。
「シエノーク君。これからよろしくね。なにかしてほしいことがあれば、遠慮なく言ってほしいわ。全てを叶えられるわけではないけれど、叶えられるように努力するから」
言われ、はっとします。そうです。僕は図書館に行きたいのです。緊張で忘れるところでした。
せっかくアリサ様から申し出てくださったのですから、今のうちに言っておきましょう。今が一番聞いていただけるタイミングな気がします。
「あの、僕、」
「なんだい?」
「なあに?」
二人が身を乗り出してきて、僕は少しのけぞりました。
……いえ、怯んでいる場合ではありません。
「勉強したいんです。国立学園に入学するまでに予習がしたくて、だから、その、ソバキン領の図書館に連れて行ってもらいたいのです。図書館にさえ行くことができれば、あとは相応しい本を自分で探します。お願いします……」
「おお……勉強熱心なんだな。感心するよ。そういうことなら、ヴェルナの家庭教師に、シエノーク君の勉強も見るよう頼もうか。ヴェルナの授業は元々そんなに詰めていないから、ヴェルナや家庭教師のスケジュールを圧迫することもないだろう。図書館は少し遠いから、この時期に行くとまた体を壊してしまうかもしれない」
「ヴェルナは、私たちの娘よ。シエノーク君の一歳下なの」
家庭教師!?それは、図書館に行くよりもずっと確実な方法です。魅力的な提案をしてくださるイサク様の言葉を、アリサ様が補足しました。
「……あ、ありがとう、ございます。ぜひ、おねがいします」
「いいんだ。いずれはヴォルコ領の統治を君に任せることになる。そのときのために、私たちとしても、君にはたくさん勉強してもらいたいんだよ」
「……そうだ、シエノーク君が大丈夫そうなら、ヴェルナとも会ってくれると嬉しいわ。ヴェルナは大人しい子だし、私たちもついているから……、……どうかしら?」
アリサ様の申し出に、僕は思わず「はい」と言ってしまいました。
……『はい』か『いいえ』で返事をする質問は、反射的に『はい』と答えてしまう癖がついているようです。
とはいえ、ヴェルナ様との顔合わせについてはよく考えて答えたとしても『はい』です。
僕の返事にアリサ様は安心したように笑います。「今からはどう?呼んでもいい?」と尋ねられ、今度はちゃんと考えてから「はい」と答えました。なるべく早く挨拶をした方が印象がいいでしょう。
……僕が訪ねるのではなくて、ヴェルナ様に来てもらうことになってしまっているのは申し訳ないですが、アリサ様が言い出したことなのですから、きっといいのでしょう。
アリサ様は、扉の外で待機していた使用人さんに、ヴェルナ様を呼んでくるように声をかけました。「すぐ来ると思うわ」と言われ、僕はアリサ様とイサク様と共に、ヴェルナ様を待ちました。
お二人の顔色を伺いながら、僕は考えます。
今のところ、イサク様とアリサ様には気持ち悪がられてはいなさそうです。
ヴェルナ様にも気持ち悪がられないといいのですが。
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