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鈴川家のアパート201号室に帰ってくると、夏弥はリビングにカバンを置き、一度は脱衣室へと向かう。そこで制服から部屋着に着替え、すぐにキッチンに立つ。
美咲の方も、一度自室へ向かって、そこで部屋着に着替えてからキッチンへ。
部屋から出てきた美咲は、大人しめな紺色のパーカーに、ラフなスウェットのズボンを合わせて履いていた。
「お昼ごはん、ありがと。……おいしかった」
美咲の手には、朝渡した風呂敷包みがあった。
「そっか。お口に合ってよかった。誰かと一緒に食べた?」
その弁当箱の入った包みを受け取りながら、夏弥は尋ねる。
「うん。芽衣と一緒にね」
夏弥と洋平が喧嘩していたお昼頃、美咲は芽衣と一緒にそのお弁当を食べていた。
一躍時の人になっていたのは夏弥だけじゃない。
美咲こそ時の人で、彼女の教室は今日一日騒然としていた。
二学期開始早々、あの鈴川美咲に男ができただのなんだの。
クラスメイトの男子達はかなりヤキモキしていたもので。
「今日さ、夏弥さんのこと……みんなに訊かれたりした」
「……っ。まぁそうだよな。いきなり一緒に登校したら」
「……」
「……大丈夫だった?」
「え、大丈夫って何が?」
「いや……だから……付き合ってるって説明したんだろ?」
「……うん。……芽衣にだけね」
「そう……。ていうか、一緒に歩いてるの見られた時点で、大体の人にそれとなくバレてるよな」
「うん。あたしも、たぶんそうかなって思ってる……」
夏弥は夕飯の支度に取り掛かる。
野菜を切り始めた彼の様子に、美咲はそっと言葉を添えた。
「でも、芽衣以外の人の質問は、全部無視したし」
「え? 全部……?」
「あ、全部っていうか、夏弥さんについての質問だけ、ね。……だって、質問の数が多すぎるし。答えてたらキリがないから。たぶんアレ」
「そうなんだ……。あははっ。すごい人気だな、美咲は」
「……」
夏弥の言葉に、美咲は一度押し黙る。
それから何か、言ってしまいたい気持ちが美咲の喉元までやってきて。
そしてそのまま、彼女は我慢できずに声を漏らしてしまった。
「…………あたしは、夏弥さんから人気があれば……それでいいんだけど……」
「……~っ! そ、そういうもの……?」
「だって、そもそも他の人には関係ないことじゃん……。あたしと夏弥さんの、プライベートなことでしょ……」
美咲は恥ずかしそうに指をもじもじさせて、そんなことを口にする。
プライベート。
夏弥はその単語にたまらずドキドキする。
いや、単語そのものにドキドキしたわけじゃない。
美咲のプライベートに、自分が含まれていること。
そのことに対してドキドキしてしまっていた。
(なんで、こう……こんな……)
夏弥は美咲のその言葉を耳にして、やっぱりダメだと思った。
いくら洋平に気持ち悪いだなんて言われても、美咲のことを好きな気持ちは止められない。
どうしても愛おしい。
離したくない。
他の男子になんて渡してたまるか。
自然の摂理みたいに、この気持ちには抗えない気がする。
美咲のことを見ていると、つい、そんな風に思えてしまう。
「……ねぇ、そういえば今日の晩ごはん、何にする予定なの?」
「え。あ、ああ! 晩ごはんね。……今日は水炊き鍋にしようかなって思ってたんだ。最近ちょっと気温も下がってきたし、鍋ものも悪くないかと」
照れくささをごまかしつつ、夏弥は棚から鍋を取り出す。
「いいじゃん。あたしも何か手伝おっか?」
「……そうだな。じゃあお皿と箸、出しておいてくれる?」
「わかった」
お風呂に入るより先に、二人は晩ごはんを取ることにした。
夏弥も美咲も、今日「何があったのか」というメインの話題については、この時一切触れようとしなかった。
いや、夏弥に至っては、そもそも美咲が可愛すぎる件について、脳内会議が行われていた。結論は、ただただ可愛すぎる、で終わった。
この会議が行われた意味は甚だ疑問である。
◇
美咲と一緒に水炊き鍋を囲む。
今日は、夏弥がソファの方に座り、美咲がクッションの上に座っていた。
二人がいつもと違うポジションに座っていたのは、美咲に「たまには夏弥さんがそっちに座ったら?」と促されたからだった。
リビングのローテーブルの上には、卓上IHと鍋のセットが置かれていた。鍋の中身は、前述の通りオーソドックスな水炊き鍋の具材が入っている。
鶏肉。白菜や長ネギといった野菜。
それからお豆腐や白滝、エノキタケなどが隙間なく入れられており。
火にかけたばかりなので、鍋の出来上がりまで、もうしばらく待つ必要があった。
「――それにしても、こんなに良いお鍋セットがありながら全然使ってなかったなんてなぁ」
鍋が煮立つまでのあいだ、夏弥はしみじみとそんなことを言う。
「……まぁ、あたしがここに来た時、お母さんがついでに置いていったままだからね。あたしもアイツも、料理しないし」
夏弥も美咲も、テーブルに置かれた鍋のほうに目を向けていた。
じっくり、ゆっくり、透明なその鍋ブタが、湯気で曇り始めていく。
「鍋ものは、全部ぶっこめばいいだけっていうすごく簡単な料理なんだけどなぁ」
夏弥の意見に、美咲は若干の間を置いて、
「……それでも、料理しないからね。あたしもアイツも」
「……そうですか」
「前に、あたしが鍋料理やろうとして大爆発したことがあったから」
「大爆発⁉」
「うん。アレもコレも、って入れていったら、鍋の様子がおかしくなって、ぼごーん! みたいな」
「ぶはっ」
夏弥はたまらず噴き出した。
美咲の口から「ぼごーん!」なんて言葉が飛び出てくるなんて。
「それからは鍋から逃げるように、料理自体やめとこうって思って」
「鍋から逃げるように……賢明な判断だ。ぷふっ。でもさすがに鍋は爆発しないよな?」
「まぁ…………ちょっと話、盛ったよね」
「ですよね」
二人とも、クスクスと微笑みながらテーブルの上の鍋を見ていた。
穏やかで、とても優しげな空気が流れている。
美咲が笑うたびに、「やっぱり俺は美咲が好きなんだよな」と夏弥の中で気持ちの確認作業が行われる。
そんなタイミングで、美咲が話を切り替えてきて。
「ねぇ……。そろそろ聞かせてよ」
「……!」
「今日、何があったの……?」
美咲は、それまでテーブル上の鍋に向けていた目線を夏弥へと向ける。
しっかりと夏弥の目を見る。ちゃんと話を聞く。
そういう意志が感じられる瞳をしていた。
「あ、ああ……。そうだね……」
気持ちの踏ん切りもついて、美咲に空気も温めてもらえて。夏弥は洋平との一件を話し始めることにしたのだった。
◇ ◇ ◇
「今日、化学準備室で、洋平と喧嘩したんだ」
「喧嘩⁉」
「……うん」
夏弥の口から「喧嘩」なんて言葉が出てきたことに、美咲は内心とても驚いていた。
夏弥と洋平なら、何か意見がぶつかることになっても、それはあくまで「口喧嘩」くらいで済むはずのものだと思い込んでいた。
事実二人とも、そこまで感情的になってキレたりするようなタイプでもないし、ふざけて絡んだりしている分、心の奥底では深い信頼で繋がっているものだとばかり思っていた。
そう思っていた美咲にとって、二人がいわゆる「取っ組み合いの喧嘩」をするだなんて。
これっぽっちも想像できないし、想像したくない気持ちもあって。
「え……じゃあそのキズって……」
「ああ。これ、洋平に殴られたんだ……。でも、俺もアイツの顔殴ったりして……そ、それで……」
「……」
「秋乃も俺のせいで……」
「ちょ、ちょっと待って、夏弥さん」
「ん?」
美咲は、この話の流れでいきなり秋乃の名前が出てきたことに困惑する。
目を閉じて眉根を指で抑え、ううんといったご様子。
「ごめん。もうちょっと順番に話してくれない……?」
「あ、ごめん。そうだよな。えっと……」
順番というと、どこからになるのか。
夏弥はそもそも、自分が洋平を昼休みに誘い出したそのきっかけから話すべきなのかもしれないと思った。
今ここで聞いている美咲のことはひとまず置いておいて、あの時の流れを思い出すことに専念する。
そうして、思い出すままに話し始めていく。
「……そうだ。まず、俺は美咲から聞いたあの言葉が気掛かりで、洋平と話そうと思ったんだ」
「あの言葉って……」
「ああ。『後からここにきたのはお前だろ。なんで俺が――』って言葉。美咲から教えてもらった時はそこまで引っ掛かってなかったんだけど、教室でアイツの顔見たら気になりだして……」
「顔見たら気になりだした……?」
「……だって洋平のやつ、美咲との仲が悪いことをずっと気にしてたんだぞ?……自分が、そういう心無い言葉を美咲に言っておきながらさ。
……洋平くらいモテる男子だったら、美咲の気持ちは簡単に想像がつきそうなもんだろ。だから俺は、洋平に本音を訊いてみたかったんだ」
「そうなんだ……。それで……アイツは?」
それから、夏弥は今回の一件をとても丁寧に話していった。
「――っていう感じで、話はそこで終わったんだ」
夏弥は、覚えている限り正確に、洋平とのやり取りを伝えきった。
「そうだったんだ……。お昼休みにそんなことがあったとか、驚きなんだけど……」
「俺も、まさか自分が洋平と喧嘩するなんて思ってなかったよ。……でも、話してたらつい熱くなってってさ……」
「熱く……」
夏弥は美咲に目を合わせられなかった。
いくら気持ちに踏ん切りがついたとは言っても、やっぱり美咲は罪悪感を感じるはずだ。自分がきっかけで喧嘩になっていることを、気に病まない人がいるだろうか。
「じゃあその顔のキズは、あたしのせい……?」
美咲は申し訳なさそうな表情で、夏弥に尋ねてくる。
予想していた通り、そうなってしまうのか。と夏弥は感じる。
「や……。美咲のせいじゃないだろ。これは……その、俺が自分で勝手にやったことだ。……美咲が気にする必要なんてない。
…………。もっと、他に良いやり方があったのかもしれないけど。……でも、美咲のこと考えてたら、どうしても洋平に確かめたくなって……。ごめん」
「……っ」
夏弥の言葉を聞いて、美咲の胸はぎゅうっと締め付けられそうになる。
少し場違いかもしれないけれど、美咲は嬉しい気持ちと切ない気持ち。その両方がこみ上げてきて、どうしようもないほどだった。
――あたしのことを想って、夏弥さんはアイツの本心を探ろうとしてくれたんだ。
――顔にアザまで作って……。絶対、喧嘩だってロクにしたこともないくせに。
――また無茶して、自分の身体を張って。
夏弥の顔を見ていると、そんなことばかり思ってしまって。
胸が張り裂けてしまいそうになる。
瞬間、美咲はつい先月の、夏祭りのことを振り返ってしまう。
花火を見たあの夏祭り。
自分を必死になって探してくれた、あの時の夏弥のこと。
あの時の気持ちと、無意識に重ねてしまう。
その、不器用で、不格好で、冴えない男子の姿に、どうしてこんなに心が狂わされるのかわからない。
また好きになってしまう。
もっと、もっと好きになってしまう。
誰でも、仲の良い友達に対して、完全に気兼ねなく発言するということはないはずだ。
友達付き合いが長ければ長いほど、相手の踏み越えちゃいけないボーダーラインを正しく見極めることができるから。だから気兼ねなく話せているように感じているだけで。
夏弥は、洋平のそのボーダーラインを知っていながら、それでも美咲のことを考えていた。
洋平と喧嘩することになるかもしれないと、そうわかっていながら、彼は。
――やっぱり夏弥さんは、無条件であたしの味方をしてくれる。アイツとの関係が悪くなることだって、簡単に予想できたはずなのに……。
美咲は、胸いっぱいに広がる夏弥への気持ちのせいで、思わず身体が動いてしまう。
座っていたクッションから立ち上がり、ゆっくりと夏弥の方へ近付いていく。
「美咲……?」
夏弥のその言葉も聞かず。
「……っ!」
ただ、美咲はその張り裂けそうな想いのまま。
気付けば、夏弥の唇を奪っていたのだった。
美咲の方も、一度自室へ向かって、そこで部屋着に着替えてからキッチンへ。
部屋から出てきた美咲は、大人しめな紺色のパーカーに、ラフなスウェットのズボンを合わせて履いていた。
「お昼ごはん、ありがと。……おいしかった」
美咲の手には、朝渡した風呂敷包みがあった。
「そっか。お口に合ってよかった。誰かと一緒に食べた?」
その弁当箱の入った包みを受け取りながら、夏弥は尋ねる。
「うん。芽衣と一緒にね」
夏弥と洋平が喧嘩していたお昼頃、美咲は芽衣と一緒にそのお弁当を食べていた。
一躍時の人になっていたのは夏弥だけじゃない。
美咲こそ時の人で、彼女の教室は今日一日騒然としていた。
二学期開始早々、あの鈴川美咲に男ができただのなんだの。
クラスメイトの男子達はかなりヤキモキしていたもので。
「今日さ、夏弥さんのこと……みんなに訊かれたりした」
「……っ。まぁそうだよな。いきなり一緒に登校したら」
「……」
「……大丈夫だった?」
「え、大丈夫って何が?」
「いや……だから……付き合ってるって説明したんだろ?」
「……うん。……芽衣にだけね」
「そう……。ていうか、一緒に歩いてるの見られた時点で、大体の人にそれとなくバレてるよな」
「うん。あたしも、たぶんそうかなって思ってる……」
夏弥は夕飯の支度に取り掛かる。
野菜を切り始めた彼の様子に、美咲はそっと言葉を添えた。
「でも、芽衣以外の人の質問は、全部無視したし」
「え? 全部……?」
「あ、全部っていうか、夏弥さんについての質問だけ、ね。……だって、質問の数が多すぎるし。答えてたらキリがないから。たぶんアレ」
「そうなんだ……。あははっ。すごい人気だな、美咲は」
「……」
夏弥の言葉に、美咲は一度押し黙る。
それから何か、言ってしまいたい気持ちが美咲の喉元までやってきて。
そしてそのまま、彼女は我慢できずに声を漏らしてしまった。
「…………あたしは、夏弥さんから人気があれば……それでいいんだけど……」
「……~っ! そ、そういうもの……?」
「だって、そもそも他の人には関係ないことじゃん……。あたしと夏弥さんの、プライベートなことでしょ……」
美咲は恥ずかしそうに指をもじもじさせて、そんなことを口にする。
プライベート。
夏弥はその単語にたまらずドキドキする。
いや、単語そのものにドキドキしたわけじゃない。
美咲のプライベートに、自分が含まれていること。
そのことに対してドキドキしてしまっていた。
(なんで、こう……こんな……)
夏弥は美咲のその言葉を耳にして、やっぱりダメだと思った。
いくら洋平に気持ち悪いだなんて言われても、美咲のことを好きな気持ちは止められない。
どうしても愛おしい。
離したくない。
他の男子になんて渡してたまるか。
自然の摂理みたいに、この気持ちには抗えない気がする。
美咲のことを見ていると、つい、そんな風に思えてしまう。
「……ねぇ、そういえば今日の晩ごはん、何にする予定なの?」
「え。あ、ああ! 晩ごはんね。……今日は水炊き鍋にしようかなって思ってたんだ。最近ちょっと気温も下がってきたし、鍋ものも悪くないかと」
照れくささをごまかしつつ、夏弥は棚から鍋を取り出す。
「いいじゃん。あたしも何か手伝おっか?」
「……そうだな。じゃあお皿と箸、出しておいてくれる?」
「わかった」
お風呂に入るより先に、二人は晩ごはんを取ることにした。
夏弥も美咲も、今日「何があったのか」というメインの話題については、この時一切触れようとしなかった。
いや、夏弥に至っては、そもそも美咲が可愛すぎる件について、脳内会議が行われていた。結論は、ただただ可愛すぎる、で終わった。
この会議が行われた意味は甚だ疑問である。
◇
美咲と一緒に水炊き鍋を囲む。
今日は、夏弥がソファの方に座り、美咲がクッションの上に座っていた。
二人がいつもと違うポジションに座っていたのは、美咲に「たまには夏弥さんがそっちに座ったら?」と促されたからだった。
リビングのローテーブルの上には、卓上IHと鍋のセットが置かれていた。鍋の中身は、前述の通りオーソドックスな水炊き鍋の具材が入っている。
鶏肉。白菜や長ネギといった野菜。
それからお豆腐や白滝、エノキタケなどが隙間なく入れられており。
火にかけたばかりなので、鍋の出来上がりまで、もうしばらく待つ必要があった。
「――それにしても、こんなに良いお鍋セットがありながら全然使ってなかったなんてなぁ」
鍋が煮立つまでのあいだ、夏弥はしみじみとそんなことを言う。
「……まぁ、あたしがここに来た時、お母さんがついでに置いていったままだからね。あたしもアイツも、料理しないし」
夏弥も美咲も、テーブルに置かれた鍋のほうに目を向けていた。
じっくり、ゆっくり、透明なその鍋ブタが、湯気で曇り始めていく。
「鍋ものは、全部ぶっこめばいいだけっていうすごく簡単な料理なんだけどなぁ」
夏弥の意見に、美咲は若干の間を置いて、
「……それでも、料理しないからね。あたしもアイツも」
「……そうですか」
「前に、あたしが鍋料理やろうとして大爆発したことがあったから」
「大爆発⁉」
「うん。アレもコレも、って入れていったら、鍋の様子がおかしくなって、ぼごーん! みたいな」
「ぶはっ」
夏弥はたまらず噴き出した。
美咲の口から「ぼごーん!」なんて言葉が飛び出てくるなんて。
「それからは鍋から逃げるように、料理自体やめとこうって思って」
「鍋から逃げるように……賢明な判断だ。ぷふっ。でもさすがに鍋は爆発しないよな?」
「まぁ…………ちょっと話、盛ったよね」
「ですよね」
二人とも、クスクスと微笑みながらテーブルの上の鍋を見ていた。
穏やかで、とても優しげな空気が流れている。
美咲が笑うたびに、「やっぱり俺は美咲が好きなんだよな」と夏弥の中で気持ちの確認作業が行われる。
そんなタイミングで、美咲が話を切り替えてきて。
「ねぇ……。そろそろ聞かせてよ」
「……!」
「今日、何があったの……?」
美咲は、それまでテーブル上の鍋に向けていた目線を夏弥へと向ける。
しっかりと夏弥の目を見る。ちゃんと話を聞く。
そういう意志が感じられる瞳をしていた。
「あ、ああ……。そうだね……」
気持ちの踏ん切りもついて、美咲に空気も温めてもらえて。夏弥は洋平との一件を話し始めることにしたのだった。
◇ ◇ ◇
「今日、化学準備室で、洋平と喧嘩したんだ」
「喧嘩⁉」
「……うん」
夏弥の口から「喧嘩」なんて言葉が出てきたことに、美咲は内心とても驚いていた。
夏弥と洋平なら、何か意見がぶつかることになっても、それはあくまで「口喧嘩」くらいで済むはずのものだと思い込んでいた。
事実二人とも、そこまで感情的になってキレたりするようなタイプでもないし、ふざけて絡んだりしている分、心の奥底では深い信頼で繋がっているものだとばかり思っていた。
そう思っていた美咲にとって、二人がいわゆる「取っ組み合いの喧嘩」をするだなんて。
これっぽっちも想像できないし、想像したくない気持ちもあって。
「え……じゃあそのキズって……」
「ああ。これ、洋平に殴られたんだ……。でも、俺もアイツの顔殴ったりして……そ、それで……」
「……」
「秋乃も俺のせいで……」
「ちょ、ちょっと待って、夏弥さん」
「ん?」
美咲は、この話の流れでいきなり秋乃の名前が出てきたことに困惑する。
目を閉じて眉根を指で抑え、ううんといったご様子。
「ごめん。もうちょっと順番に話してくれない……?」
「あ、ごめん。そうだよな。えっと……」
順番というと、どこからになるのか。
夏弥はそもそも、自分が洋平を昼休みに誘い出したそのきっかけから話すべきなのかもしれないと思った。
今ここで聞いている美咲のことはひとまず置いておいて、あの時の流れを思い出すことに専念する。
そうして、思い出すままに話し始めていく。
「……そうだ。まず、俺は美咲から聞いたあの言葉が気掛かりで、洋平と話そうと思ったんだ」
「あの言葉って……」
「ああ。『後からここにきたのはお前だろ。なんで俺が――』って言葉。美咲から教えてもらった時はそこまで引っ掛かってなかったんだけど、教室でアイツの顔見たら気になりだして……」
「顔見たら気になりだした……?」
「……だって洋平のやつ、美咲との仲が悪いことをずっと気にしてたんだぞ?……自分が、そういう心無い言葉を美咲に言っておきながらさ。
……洋平くらいモテる男子だったら、美咲の気持ちは簡単に想像がつきそうなもんだろ。だから俺は、洋平に本音を訊いてみたかったんだ」
「そうなんだ……。それで……アイツは?」
それから、夏弥は今回の一件をとても丁寧に話していった。
「――っていう感じで、話はそこで終わったんだ」
夏弥は、覚えている限り正確に、洋平とのやり取りを伝えきった。
「そうだったんだ……。お昼休みにそんなことがあったとか、驚きなんだけど……」
「俺も、まさか自分が洋平と喧嘩するなんて思ってなかったよ。……でも、話してたらつい熱くなってってさ……」
「熱く……」
夏弥は美咲に目を合わせられなかった。
いくら気持ちに踏ん切りがついたとは言っても、やっぱり美咲は罪悪感を感じるはずだ。自分がきっかけで喧嘩になっていることを、気に病まない人がいるだろうか。
「じゃあその顔のキズは、あたしのせい……?」
美咲は申し訳なさそうな表情で、夏弥に尋ねてくる。
予想していた通り、そうなってしまうのか。と夏弥は感じる。
「や……。美咲のせいじゃないだろ。これは……その、俺が自分で勝手にやったことだ。……美咲が気にする必要なんてない。
…………。もっと、他に良いやり方があったのかもしれないけど。……でも、美咲のこと考えてたら、どうしても洋平に確かめたくなって……。ごめん」
「……っ」
夏弥の言葉を聞いて、美咲の胸はぎゅうっと締め付けられそうになる。
少し場違いかもしれないけれど、美咲は嬉しい気持ちと切ない気持ち。その両方がこみ上げてきて、どうしようもないほどだった。
――あたしのことを想って、夏弥さんはアイツの本心を探ろうとしてくれたんだ。
――顔にアザまで作って……。絶対、喧嘩だってロクにしたこともないくせに。
――また無茶して、自分の身体を張って。
夏弥の顔を見ていると、そんなことばかり思ってしまって。
胸が張り裂けてしまいそうになる。
瞬間、美咲はつい先月の、夏祭りのことを振り返ってしまう。
花火を見たあの夏祭り。
自分を必死になって探してくれた、あの時の夏弥のこと。
あの時の気持ちと、無意識に重ねてしまう。
その、不器用で、不格好で、冴えない男子の姿に、どうしてこんなに心が狂わされるのかわからない。
また好きになってしまう。
もっと、もっと好きになってしまう。
誰でも、仲の良い友達に対して、完全に気兼ねなく発言するということはないはずだ。
友達付き合いが長ければ長いほど、相手の踏み越えちゃいけないボーダーラインを正しく見極めることができるから。だから気兼ねなく話せているように感じているだけで。
夏弥は、洋平のそのボーダーラインを知っていながら、それでも美咲のことを考えていた。
洋平と喧嘩することになるかもしれないと、そうわかっていながら、彼は。
――やっぱり夏弥さんは、無条件であたしの味方をしてくれる。アイツとの関係が悪くなることだって、簡単に予想できたはずなのに……。
美咲は、胸いっぱいに広がる夏弥への気持ちのせいで、思わず身体が動いてしまう。
座っていたクッションから立ち上がり、ゆっくりと夏弥の方へ近付いていく。
「美咲……?」
夏弥のその言葉も聞かず。
「……っ!」
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