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本家からの要請
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夜の帳がルーヴェル邸を包み、広間には燭台の揺らめきだけが静かに影を揺らしていた。
机上には開かれたばかりの密書が一通。レティシアはその文面を読み終え、わずかに目を伏せる。
「……本家から、動きがありました」
彼女の前には、カイル、エディン、ミリアら主立った従者が揃っていた。全員が静かに顔を上げる。
「数週間前から、他州でも同様の“文書盗難”が起きていたそうですわ。被害件数最多の州では、すでに内通者の捜索を行っているとのこと」
その言葉に、空気が張り詰める。カイルが眉をひそめた。
「……こちらだけの問題ではない、というわけですね」
「ええ。だからこそ本家は動くそうです。“将軍ヴァルトロフ”が、この地域直々に派遣されることになったそうです」
エディンが息を呑んだ。
「将軍ご自身が……?」
「密偵事件とはいえ、これは異例の対応ですわね……それだけ、この事態を“看過できない問題”と本家が捉えているということでしょうね」
レティシアの声には、どこか遠くを見つめる響きがあった。
本来、本家は、自治領の運営には外交・戦争を除き、原則介入しない方針をとっていた。だが今回は、あえて軍部の最高位であるヴァルトロフを送り込んできた。これは「信頼」ではなく「任せきれない」という意味ではなく、それだけ事態を重大視しているという強い意思の表れだ。
「……将軍が動くということは、これを“軍事的危機”と見なしたのですね」
カイルの言葉に、レティシアは頷いた。
「情報の漏洩は、外交や通商どころではなく、戦の引き金になりかねないわ。本家にとっても、それは死活問題ですもの」
広間の静けさに、誰かが小さく唾を呑む音が交じった。燭台の炎が揺れ、壁に映る影がわずかに揺らめく。
「本家からの要請に従い、今夜、急ぎ捜索を行います。対象は、文庫室と官吏執務区――特に文書保管庫を中心に、徹底的に洗います」
文庫室と官吏執務区は、いずれも邸の本棟からやや離れた区画に設けられている。重厚な造りではあるが、物理的な距離と管理の分断が、今回のような事態ではかえって盲点になりかねなかった。
幸い、現時点で最重要書類の所在は確認されている。だが、それらの大半は官吏執務区に集約されており、万が一にもそこに手が入れば、漏洩は致命的な規模となる。
文庫室であれば、外部からの侵入という可能性も考えられる。だが――官吏執務区の文書保管庫からの盗難となれば、そこに出入りできる者は限られている。
つまり、後者であれば、それは内部の誰かによる犯行を意味していた。
すると、カイルが一歩前に出た。
「……殿下。ひとつ申し上げます。文書の受け渡し――つまり密偵が外部と連絡を取るとすれば、日中の可能性は極めて低いと思われます」
「理由を聞いても?」
「はい。すでに内部で捜索が始まっているという情報は、疑わしき者にも伝わっているはずです。そんな状況下で、あえて目立つ時間帯に動く愚か者はいないでしょう。もしやるなら、周囲の目が薄れる深夜……そのほうがはるかに現実的です」
カイルの言葉に、エディンとミリアも思わず頷く。
「それに、昼間は人が多すぎます。見張りがいても混乱しますし、何か起きても犯人を特定しにくい。深夜なら、逆に不審者はすぐ浮かび上がります」
「……わたしたち、捜索の班に加わるんですか?」
ミリアがやや不安げに尋ねると、レティシアは微笑を含んだまなざしを向けた。
「大丈夫よ、ミリア。何も1人で捜索するって訳じゃないから」
すると、隣に控えていたカイルが、珍しく口元を緩めて言った。
「……だがまあ、ミリアが一人で潜入捜査とかしてたら、それはそれで騒ぎになるな。見つかる前に声が聞こえてきそうだ」
「なっ……何ですかそれっ!」
ミリアがぷくっと頬を膨らませ、腰に手を当てて詰め寄る。
「わたしだって、やる時はちゃんとやります! この前だって街で一番に聞き出せたのは誰でしたっけ!?」
「はいはい、分かってるよ。だから信頼して任せてるんだろ」
カイルは手をひらひらと振って受け流すが、ミリアはまだ納得がいかない様子でふんと鼻を鳴らす。
そんなやり取りを見て、エディンは小さく笑った。レティシアもまた、心なしか空気が和らいだのを感じ、そっと息をついた。
だがその安堵も束の間、廊下の窓越しに、馬の足音と甲冑のきしむ微かな音が届いてきた。
「……来たようですね」
カイルの言葉に、一同の視線が自然と扉へと向かう。
すぐに控えの者が駆け込んできて告げた。
「将軍ヴァルトロフ閣下率いる部隊が、正門前に到着されました!」
レティシアは頷くと、ゆるやかに立ち上がる。足取りに迷いはない。
「行きましょう。お出迎えを」
その場の全員が立ち上がり、レティシアを先頭に広間を後にした。
夜の空気がひんやりと肌を撫でる中、ルーヴェル邸の正面階段を下りた一行の眼前には、黒の軍装に身を包んだ小隊が静かに整列していた。馬上には一人の男――将軍ヴァルトロフ。その存在感は、言葉にせずとも場の空気を一変させるものだった。
暗がりのなか、燭光が彼の銀の胸章をかすかに照らし出す。
レティシアは一歩、前に出た。
「――ようこそ、将軍閣下。アルンヘルムへ」
机上には開かれたばかりの密書が一通。レティシアはその文面を読み終え、わずかに目を伏せる。
「……本家から、動きがありました」
彼女の前には、カイル、エディン、ミリアら主立った従者が揃っていた。全員が静かに顔を上げる。
「数週間前から、他州でも同様の“文書盗難”が起きていたそうですわ。被害件数最多の州では、すでに内通者の捜索を行っているとのこと」
その言葉に、空気が張り詰める。カイルが眉をひそめた。
「……こちらだけの問題ではない、というわけですね」
「ええ。だからこそ本家は動くそうです。“将軍ヴァルトロフ”が、この地域直々に派遣されることになったそうです」
エディンが息を呑んだ。
「将軍ご自身が……?」
「密偵事件とはいえ、これは異例の対応ですわね……それだけ、この事態を“看過できない問題”と本家が捉えているということでしょうね」
レティシアの声には、どこか遠くを見つめる響きがあった。
本来、本家は、自治領の運営には外交・戦争を除き、原則介入しない方針をとっていた。だが今回は、あえて軍部の最高位であるヴァルトロフを送り込んできた。これは「信頼」ではなく「任せきれない」という意味ではなく、それだけ事態を重大視しているという強い意思の表れだ。
「……将軍が動くということは、これを“軍事的危機”と見なしたのですね」
カイルの言葉に、レティシアは頷いた。
「情報の漏洩は、外交や通商どころではなく、戦の引き金になりかねないわ。本家にとっても、それは死活問題ですもの」
広間の静けさに、誰かが小さく唾を呑む音が交じった。燭台の炎が揺れ、壁に映る影がわずかに揺らめく。
「本家からの要請に従い、今夜、急ぎ捜索を行います。対象は、文庫室と官吏執務区――特に文書保管庫を中心に、徹底的に洗います」
文庫室と官吏執務区は、いずれも邸の本棟からやや離れた区画に設けられている。重厚な造りではあるが、物理的な距離と管理の分断が、今回のような事態ではかえって盲点になりかねなかった。
幸い、現時点で最重要書類の所在は確認されている。だが、それらの大半は官吏執務区に集約されており、万が一にもそこに手が入れば、漏洩は致命的な規模となる。
文庫室であれば、外部からの侵入という可能性も考えられる。だが――官吏執務区の文書保管庫からの盗難となれば、そこに出入りできる者は限られている。
つまり、後者であれば、それは内部の誰かによる犯行を意味していた。
すると、カイルが一歩前に出た。
「……殿下。ひとつ申し上げます。文書の受け渡し――つまり密偵が外部と連絡を取るとすれば、日中の可能性は極めて低いと思われます」
「理由を聞いても?」
「はい。すでに内部で捜索が始まっているという情報は、疑わしき者にも伝わっているはずです。そんな状況下で、あえて目立つ時間帯に動く愚か者はいないでしょう。もしやるなら、周囲の目が薄れる深夜……そのほうがはるかに現実的です」
カイルの言葉に、エディンとミリアも思わず頷く。
「それに、昼間は人が多すぎます。見張りがいても混乱しますし、何か起きても犯人を特定しにくい。深夜なら、逆に不審者はすぐ浮かび上がります」
「……わたしたち、捜索の班に加わるんですか?」
ミリアがやや不安げに尋ねると、レティシアは微笑を含んだまなざしを向けた。
「大丈夫よ、ミリア。何も1人で捜索するって訳じゃないから」
すると、隣に控えていたカイルが、珍しく口元を緩めて言った。
「……だがまあ、ミリアが一人で潜入捜査とかしてたら、それはそれで騒ぎになるな。見つかる前に声が聞こえてきそうだ」
「なっ……何ですかそれっ!」
ミリアがぷくっと頬を膨らませ、腰に手を当てて詰め寄る。
「わたしだって、やる時はちゃんとやります! この前だって街で一番に聞き出せたのは誰でしたっけ!?」
「はいはい、分かってるよ。だから信頼して任せてるんだろ」
カイルは手をひらひらと振って受け流すが、ミリアはまだ納得がいかない様子でふんと鼻を鳴らす。
そんなやり取りを見て、エディンは小さく笑った。レティシアもまた、心なしか空気が和らいだのを感じ、そっと息をついた。
だがその安堵も束の間、廊下の窓越しに、馬の足音と甲冑のきしむ微かな音が届いてきた。
「……来たようですね」
カイルの言葉に、一同の視線が自然と扉へと向かう。
すぐに控えの者が駆け込んできて告げた。
「将軍ヴァルトロフ閣下率いる部隊が、正門前に到着されました!」
レティシアは頷くと、ゆるやかに立ち上がる。足取りに迷いはない。
「行きましょう。お出迎えを」
その場の全員が立ち上がり、レティシアを先頭に広間を後にした。
夜の空気がひんやりと肌を撫でる中、ルーヴェル邸の正面階段を下りた一行の眼前には、黒の軍装に身を包んだ小隊が静かに整列していた。馬上には一人の男――将軍ヴァルトロフ。その存在感は、言葉にせずとも場の空気を一変させるものだった。
暗がりのなか、燭光が彼の銀の胸章をかすかに照らし出す。
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「――ようこそ、将軍閣下。アルンヘルムへ」
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