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クレタリアの交渉大使
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重厚な扉が静かに開かれた。
応接室に足を踏み入れたのは、一人の男――黒髪に銀の糸を混ぜたような短髪、目元は細く、口元にはわずかな微笑をたたえている。だが、その風貌には一切の緩みがなかった。年の頃は三十代後半、背筋を正し堂々と歩を進めてくる。
男の後ろに控えていたのは、ヴァルドリアの使者のフェルナーだった。彼は入り口で一礼し、恭しく紹介の言葉を述べた。
「クレタリアよりの特命全権大使、ヨハン・グランセル閣下です。先の会議にて、我が国理事会よりご紹介申し上げた通りの方。今回の援軍派遣ならびに物資支援の代表として、正式に面会に参りました」
「ご足労、感謝いたします」
レティシアは静かに席を立ち、正面に立つ男へと歩み寄る。
ヨハン・グランセルは礼をする。その所作には、研ぎ澄まされた礼節と敬虔な静けさがあった。軍人のような威圧はなく、官僚のような策も感じさせない。ただひたすらに、“使命”を背負ってここにいる者の、揺るぎない威厳だけがあった。
「……遠国の者ゆえ、ローゼンの地に直接のご縁は多くありませんが、ヨハン・グランセルと申します。クレタリアにて、外交と文化庁の双方を兼任している者です」
声音は低く、滑らかだった。
「陸路も海路も遠き中、今回の件においてヴァルドリア殿よりの紹介と要請に応え、我が国はこの地に援軍と物資を送る判断を下しました。そちらの戦火が我らの教義と対立するものでないと、すでに確認は得ております」
「ローゼンのアルンヘルム代表として、貴国の勇断と寛大なる支援に、心より感謝申し上げます」
レティシアは深く礼を取った。その動作には、誇りと誠意、そして現実を正面から受け止める覚悟が込められていた。
「ヴァルドリアを通じてのご縁とはいえ、貴国のような偉大な国に助けを受けるとは、想像もしておりませんでした。我らとしても、受けたご恩に報いる責任を、今後の対応にてお示しできればと存じます」
ヨハンはゆるやかに首を振り、柔らかい笑みを浮かべた。
「いえいえ、我々の地は――ただ神の御加護のもとにありますゆえ。大地は実り豊かで、人々は互いに支え合いながら暮らしております。今回お届けした物資など、我が国にとっては微々たる一部にすぎません」
その言葉に、誇示はなかった。むしろ、当然のこととして口にしているのが伝わってくる。
「困っている者がいるならば、手を差し伸べる。それが我々の教義であり、国の在り方でもあります。ローゼンがその正しき信義を貫かんとしているのなら、我々はその歩みに同行するのみです」
レティシアは静かに頷いた。
ヨハンの語る姿勢からは、彼らの国――クレタリアが、いかに“理念”によって動いているかが伝わってくるようだった。
ヨハンは、やや姿勢を正すと、懐から一通の書類を取り出した。丁寧に封を解き、革のカバーに包まれたそれを机の上にそっと置く。
「……ただし、クレタリアからの援軍と物資の継続支援にあたりまして、我が国からは二つの条件が提示されております」
レティシアの表情がわずかに引き締まる。だが怯みはなかった。
「その条件とは――?」
ヨハンは頷き、文書を開いた。その指先は静かで、落ち着き払っていた。
「第一に。クレタリアがローゼン国内において正式な商業活動を展開できるよう、その権利の認可をお願いしたい」
レティシアは軽く頷く。これは予想の範囲内だった。
「そして第二に――」
ヨハンの視線が、まっすぐレティシアを捉える。
「ローゼン領内において、クレタリア信仰に基づく宗教活動の自由を認めていただきたいのです」
静寂が落ちた。
レティシアは微かに目を伏せると、数秒の間を置いてから顔を上げた。その瞳には、動揺ではなく、むしろ確かめるような冷静さが宿っていた。
「……それは、布教を目的としたものですか?」
ヨハンはかすかに首を横に振った。
「我々の教義は、力によって信仰を押し付けるものではありません。ただ、共にある者が祈りを捧げる場所と時間を保障していただきたい。民が心の支えを求めた時、その自由を否定しないでほしい。ただ、それだけです。」
ヨハンの言葉を聞き終えたレティシアは、深く息を吸い、穏やかに頷いた。
「……商業活動に関しては、ぜひお願いしたいと思っております。我が州としても、貴国の品が市場に並ぶことは大いに歓迎すべきことです」
それは誠実な返答だった。窮地を救われた立場としての礼節も、将来的な経済回復を見据えた現実的な判断も、そこにはあった。
そして一呼吸の後、レティシアは慎重な口調で続けた。
「宗教の自由についても――民の心の拠り所を否定するつもりはありません。大方の要求を、受け入れさせていただきます」
ヨハンが微かに目を細める。
「ただ一つ、お願いしたいのが、信仰の自由を尊重する立場は変わりませんが、宗教が政治の領域にまで関与することがあれば、それは我が国の統治の原則と相容れないものとなります。ローゼンにおいては、信仰と政治は明確に線を引かれねばならないので……どうか、その点につきましてはご理解いただけると……」
ヨハンは穏やかな笑みを浮かべたまま、ゆっくりと頷いた。
「ええ、勿論です。その点については、あらかじめ伝えておくべきでした。我が国――クレタリアにおいても、宗教が直接的に政治権力を握ることはありません。我々の信仰はあくまでも民の精神的支柱であり、国家の礎ではあっても、統治の手段ではないのです」
彼は胸元に手を当て、言葉に祈りのような静けさを宿しながら続けた。
「信仰は人の中にあるものであり、それを利用して何かを支配しようとするのは、本来の在り方ではありません。我々はただ、信じる者が安心して祈りを捧げられる場と時を求めているに過ぎません」
その言葉に、レティシアは小さく頷いた。
少なくとも、今この場においては、信義と理が通じ合ったと、彼女は感じていた。
すると、仲介役のフェルナーがそっと一歩前に出た。
「では――条約は、これをもって正式に締結ということで、よろしいですな?」
その問いに、レティシアもヨハンも頷く。
二人は、静かに手を差し出し、しっかりと握手を交わした。
その握手は、交渉の締めくくりとして静かに交わされたものだった。けれどその一瞬に、互いの立場と責任がはっきりと重なった。
――この瞬間、ローゼンは最も強力な後ろ盾を得たのだ。
静かな緊張が場を包む中で、レティシアは小さく息を吐いた。
この同盟がもたらすもの――それは、確かに希望だった。
そして今、その希望を手にした者たちの反撃が、始まろうとしていた。
応接室に足を踏み入れたのは、一人の男――黒髪に銀の糸を混ぜたような短髪、目元は細く、口元にはわずかな微笑をたたえている。だが、その風貌には一切の緩みがなかった。年の頃は三十代後半、背筋を正し堂々と歩を進めてくる。
男の後ろに控えていたのは、ヴァルドリアの使者のフェルナーだった。彼は入り口で一礼し、恭しく紹介の言葉を述べた。
「クレタリアよりの特命全権大使、ヨハン・グランセル閣下です。先の会議にて、我が国理事会よりご紹介申し上げた通りの方。今回の援軍派遣ならびに物資支援の代表として、正式に面会に参りました」
「ご足労、感謝いたします」
レティシアは静かに席を立ち、正面に立つ男へと歩み寄る。
ヨハン・グランセルは礼をする。その所作には、研ぎ澄まされた礼節と敬虔な静けさがあった。軍人のような威圧はなく、官僚のような策も感じさせない。ただひたすらに、“使命”を背負ってここにいる者の、揺るぎない威厳だけがあった。
「……遠国の者ゆえ、ローゼンの地に直接のご縁は多くありませんが、ヨハン・グランセルと申します。クレタリアにて、外交と文化庁の双方を兼任している者です」
声音は低く、滑らかだった。
「陸路も海路も遠き中、今回の件においてヴァルドリア殿よりの紹介と要請に応え、我が国はこの地に援軍と物資を送る判断を下しました。そちらの戦火が我らの教義と対立するものでないと、すでに確認は得ております」
「ローゼンのアルンヘルム代表として、貴国の勇断と寛大なる支援に、心より感謝申し上げます」
レティシアは深く礼を取った。その動作には、誇りと誠意、そして現実を正面から受け止める覚悟が込められていた。
「ヴァルドリアを通じてのご縁とはいえ、貴国のような偉大な国に助けを受けるとは、想像もしておりませんでした。我らとしても、受けたご恩に報いる責任を、今後の対応にてお示しできればと存じます」
ヨハンはゆるやかに首を振り、柔らかい笑みを浮かべた。
「いえいえ、我々の地は――ただ神の御加護のもとにありますゆえ。大地は実り豊かで、人々は互いに支え合いながら暮らしております。今回お届けした物資など、我が国にとっては微々たる一部にすぎません」
その言葉に、誇示はなかった。むしろ、当然のこととして口にしているのが伝わってくる。
「困っている者がいるならば、手を差し伸べる。それが我々の教義であり、国の在り方でもあります。ローゼンがその正しき信義を貫かんとしているのなら、我々はその歩みに同行するのみです」
レティシアは静かに頷いた。
ヨハンの語る姿勢からは、彼らの国――クレタリアが、いかに“理念”によって動いているかが伝わってくるようだった。
ヨハンは、やや姿勢を正すと、懐から一通の書類を取り出した。丁寧に封を解き、革のカバーに包まれたそれを机の上にそっと置く。
「……ただし、クレタリアからの援軍と物資の継続支援にあたりまして、我が国からは二つの条件が提示されております」
レティシアの表情がわずかに引き締まる。だが怯みはなかった。
「その条件とは――?」
ヨハンは頷き、文書を開いた。その指先は静かで、落ち着き払っていた。
「第一に。クレタリアがローゼン国内において正式な商業活動を展開できるよう、その権利の認可をお願いしたい」
レティシアは軽く頷く。これは予想の範囲内だった。
「そして第二に――」
ヨハンの視線が、まっすぐレティシアを捉える。
「ローゼン領内において、クレタリア信仰に基づく宗教活動の自由を認めていただきたいのです」
静寂が落ちた。
レティシアは微かに目を伏せると、数秒の間を置いてから顔を上げた。その瞳には、動揺ではなく、むしろ確かめるような冷静さが宿っていた。
「……それは、布教を目的としたものですか?」
ヨハンはかすかに首を横に振った。
「我々の教義は、力によって信仰を押し付けるものではありません。ただ、共にある者が祈りを捧げる場所と時間を保障していただきたい。民が心の支えを求めた時、その自由を否定しないでほしい。ただ、それだけです。」
ヨハンの言葉を聞き終えたレティシアは、深く息を吸い、穏やかに頷いた。
「……商業活動に関しては、ぜひお願いしたいと思っております。我が州としても、貴国の品が市場に並ぶことは大いに歓迎すべきことです」
それは誠実な返答だった。窮地を救われた立場としての礼節も、将来的な経済回復を見据えた現実的な判断も、そこにはあった。
そして一呼吸の後、レティシアは慎重な口調で続けた。
「宗教の自由についても――民の心の拠り所を否定するつもりはありません。大方の要求を、受け入れさせていただきます」
ヨハンが微かに目を細める。
「ただ一つ、お願いしたいのが、信仰の自由を尊重する立場は変わりませんが、宗教が政治の領域にまで関与することがあれば、それは我が国の統治の原則と相容れないものとなります。ローゼンにおいては、信仰と政治は明確に線を引かれねばならないので……どうか、その点につきましてはご理解いただけると……」
ヨハンは穏やかな笑みを浮かべたまま、ゆっくりと頷いた。
「ええ、勿論です。その点については、あらかじめ伝えておくべきでした。我が国――クレタリアにおいても、宗教が直接的に政治権力を握ることはありません。我々の信仰はあくまでも民の精神的支柱であり、国家の礎ではあっても、統治の手段ではないのです」
彼は胸元に手を当て、言葉に祈りのような静けさを宿しながら続けた。
「信仰は人の中にあるものであり、それを利用して何かを支配しようとするのは、本来の在り方ではありません。我々はただ、信じる者が安心して祈りを捧げられる場と時を求めているに過ぎません」
その言葉に、レティシアは小さく頷いた。
少なくとも、今この場においては、信義と理が通じ合ったと、彼女は感じていた。
すると、仲介役のフェルナーがそっと一歩前に出た。
「では――条約は、これをもって正式に締結ということで、よろしいですな?」
その問いに、レティシアもヨハンも頷く。
二人は、静かに手を差し出し、しっかりと握手を交わした。
その握手は、交渉の締めくくりとして静かに交わされたものだった。けれどその一瞬に、互いの立場と責任がはっきりと重なった。
――この瞬間、ローゼンは最も強力な後ろ盾を得たのだ。
静かな緊張が場を包む中で、レティシアは小さく息を吐いた。
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