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彼の国の失墜 (後半 アレクシス視点)
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王都は静まり返っていた。
御前会議の間では、誰も口を開かない。
この国にとって最大の誤算は、頼りにしていたはずのシュレンガル帝国だった。
強大な軍事国家であり、影からこの一件を後押ししていたとされるその大国が――動かなかったのだ。
いや、正確には、ある報せを境に“撤退を決めた”のだ。
「西方より、クレタリア軍が進軍中」
その情報がシュレンガル中枢に届いたのは、一週間前のことだった。
最初はローゼンの偽装工作と思われ無視された。だが、次に届けられたのは、ヴァルドリアとクレタリアの部隊が連携し、ローゼン城都に入ったという報告。さらに補給路の封鎖が突破され、城都に物資が流れ込み始めたとの情報が重なる。
その瞬間、帝国参謀本部は方針を変えた。
「中止だ。これは我らが介入すべきではない」
公式な記録は残されなかったが、軍の展開計画は白紙となり、国境に布陣していた部隊が一斉に“演習終了”の名目で帰還した。後に残されたのは、見捨てられた同盟国だけだった。
――いざとなれば援軍を寄越すと告げていた大国が、手を引いた。
そしてその事実を、あまりに早く、あまりに残酷な形で、彼の国の中枢に突きつけた。
「援軍は来ない」
その一言が広まると同時に、軍はあっけなく崩れ去っていった。
各地の領主が、次々と兵士を引き上げた。ある者は家族を守るために、ある者は風向きを読み、より有利な立場へと走った。命令はすでに届かず、誰もが“次”を見ていた。
「まだ立て直せる」と信じる者は、もはや国の中にはいなかった。
そして誰も、逃亡したアレクシスの名を責めようとはしなかった。
あまりに早く見限った者、だが、見限られるに足る国家だった――その認識が、暗黙の了解として、沈みゆく中枢に漂っていた。
王都の高官たちは互いに目を合わせることなく、黙々と机を片付け、私邸へ戻り、あるいは国外への逃避を図る。残されたのは、放棄された事務だけ。もはやそれを動かす意志もなければ、動かされる意味もなかった。
だが、事態はそれで終わらなかった。
シュレンガル帝国は、約束を破棄し、同盟を反故にしたその直後――
今度は、手のひらを返したように、彼の国に対する“出兵”の構えを見せ始めたのだ。
名目は秩序の回復、避難民の保護、治安の安定化。
だが誰の目にも明らかだった。
それは――敗北した国への“清算”に他ならなかった。
「帝国が来るぞ」
その噂が流れた瞬間、王都の空気は凍りついた。
帝国軍に囚われれば、待っているのは“裁き”などという穏やかな言葉ではない。
略奪、逆殺、そして連行。男たちは奴隷として鉱山や工廠に送られ、女や子どもは“使い道”を選ばれずに連れ去られる。
帝国の介入を受けた土地の末路など、過去のいくつもの“属州”が物語っていた。
もはや“国”としての選択肢はなかった。
生き延びるために、逃げる者。
運命を受け入れる者。
そして、最後まで何も信じられず、ただそこに留まった者。
静かに、そして確実に――
彼の国は、終焉へと向かっていた
◇
ここには、風の音しか聞こえない。
山を背にしたこの館は静かで、まるで現実から切り離されたようだった。政の声も、民の嘆きも、怒号も届かない。逃げ延びた先としては、贅沢なほどに整った亡命先だ。だが、どんなに整った寝台で目を覚まそうとも、胸の内の空洞だけは埋まらなかった。
「アレクシス様、朝食の用意が整いました」
扉越しの声に、「……すぐ行く」と答える。
それだけで精一杯だった日々よりは、多少マシになった。少しずつ、最低限の顔くらいは保てるようになってきた。
――命が助かったのは、不幸中の幸い。
そう言われた。
だが、それは果たして“幸い”だったのか。自分でも、もう分からない。
今の婚約者、イヴェットとの関係は、良くも悪くもない。
特別な感情はないし、偽りの仮面を被るほどの面倒もない。ただ、日々を共にする相手として――それだけの関係だ。
彼女は、かつて一度だけ深く頭を下げてきたことがある。
「……私のような者を、受け入れてくださって、本当に感謝しています」
その声音には取り繕う色はなかった。打算ではなく、純粋な感謝。
けれど、それ以上のものを求めようともしていない。
彼女自身、自分の立場がどういうものか、よく分かっているのだろう。
――望まれたから従い、与えられた場所で役割を果たす。
その姿勢は、奇妙なほどに似ていた。過去の“誰か”と。
レティシア――かつて、その名をどれほど意識して避けたか分からない。
今となっては、彼女がどうしていたのかも知らない。知りたくも、ある。だが、同時に、もうその名を口にする資格もないと思っていた。
イヴェットの姿勢が、それを思い出させるたびに、胸の内に微かな痛みが走る。
それは後悔ではなく、ただの――痛みだ。原因は分かっていても、癒し方を知らない痛み。
彼女は今、どこで、何をしているのだろう。
国を守るために、どれほどの重荷を背負ったのか。
あのとき、自分があの席を降りた代償が、彼女の肩にどれだけのものを積み上げたのか。
アレクシスは、窓の外に目をやった。
高地の風は冷たいが、どこか遠い異国の匂いがした。
「……せめて、あの人が立っている場所が、報われていればいい」
呟きは、誰の耳にも届かない。
ただ風だけが、その思いをさらっていった。
御前会議の間では、誰も口を開かない。
この国にとって最大の誤算は、頼りにしていたはずのシュレンガル帝国だった。
強大な軍事国家であり、影からこの一件を後押ししていたとされるその大国が――動かなかったのだ。
いや、正確には、ある報せを境に“撤退を決めた”のだ。
「西方より、クレタリア軍が進軍中」
その情報がシュレンガル中枢に届いたのは、一週間前のことだった。
最初はローゼンの偽装工作と思われ無視された。だが、次に届けられたのは、ヴァルドリアとクレタリアの部隊が連携し、ローゼン城都に入ったという報告。さらに補給路の封鎖が突破され、城都に物資が流れ込み始めたとの情報が重なる。
その瞬間、帝国参謀本部は方針を変えた。
「中止だ。これは我らが介入すべきではない」
公式な記録は残されなかったが、軍の展開計画は白紙となり、国境に布陣していた部隊が一斉に“演習終了”の名目で帰還した。後に残されたのは、見捨てられた同盟国だけだった。
――いざとなれば援軍を寄越すと告げていた大国が、手を引いた。
そしてその事実を、あまりに早く、あまりに残酷な形で、彼の国の中枢に突きつけた。
「援軍は来ない」
その一言が広まると同時に、軍はあっけなく崩れ去っていった。
各地の領主が、次々と兵士を引き上げた。ある者は家族を守るために、ある者は風向きを読み、より有利な立場へと走った。命令はすでに届かず、誰もが“次”を見ていた。
「まだ立て直せる」と信じる者は、もはや国の中にはいなかった。
そして誰も、逃亡したアレクシスの名を責めようとはしなかった。
あまりに早く見限った者、だが、見限られるに足る国家だった――その認識が、暗黙の了解として、沈みゆく中枢に漂っていた。
王都の高官たちは互いに目を合わせることなく、黙々と机を片付け、私邸へ戻り、あるいは国外への逃避を図る。残されたのは、放棄された事務だけ。もはやそれを動かす意志もなければ、動かされる意味もなかった。
だが、事態はそれで終わらなかった。
シュレンガル帝国は、約束を破棄し、同盟を反故にしたその直後――
今度は、手のひらを返したように、彼の国に対する“出兵”の構えを見せ始めたのだ。
名目は秩序の回復、避難民の保護、治安の安定化。
だが誰の目にも明らかだった。
それは――敗北した国への“清算”に他ならなかった。
「帝国が来るぞ」
その噂が流れた瞬間、王都の空気は凍りついた。
帝国軍に囚われれば、待っているのは“裁き”などという穏やかな言葉ではない。
略奪、逆殺、そして連行。男たちは奴隷として鉱山や工廠に送られ、女や子どもは“使い道”を選ばれずに連れ去られる。
帝国の介入を受けた土地の末路など、過去のいくつもの“属州”が物語っていた。
もはや“国”としての選択肢はなかった。
生き延びるために、逃げる者。
運命を受け入れる者。
そして、最後まで何も信じられず、ただそこに留まった者。
静かに、そして確実に――
彼の国は、終焉へと向かっていた
◇
ここには、風の音しか聞こえない。
山を背にしたこの館は静かで、まるで現実から切り離されたようだった。政の声も、民の嘆きも、怒号も届かない。逃げ延びた先としては、贅沢なほどに整った亡命先だ。だが、どんなに整った寝台で目を覚まそうとも、胸の内の空洞だけは埋まらなかった。
「アレクシス様、朝食の用意が整いました」
扉越しの声に、「……すぐ行く」と答える。
それだけで精一杯だった日々よりは、多少マシになった。少しずつ、最低限の顔くらいは保てるようになってきた。
――命が助かったのは、不幸中の幸い。
そう言われた。
だが、それは果たして“幸い”だったのか。自分でも、もう分からない。
今の婚約者、イヴェットとの関係は、良くも悪くもない。
特別な感情はないし、偽りの仮面を被るほどの面倒もない。ただ、日々を共にする相手として――それだけの関係だ。
彼女は、かつて一度だけ深く頭を下げてきたことがある。
「……私のような者を、受け入れてくださって、本当に感謝しています」
その声音には取り繕う色はなかった。打算ではなく、純粋な感謝。
けれど、それ以上のものを求めようともしていない。
彼女自身、自分の立場がどういうものか、よく分かっているのだろう。
――望まれたから従い、与えられた場所で役割を果たす。
その姿勢は、奇妙なほどに似ていた。過去の“誰か”と。
レティシア――かつて、その名をどれほど意識して避けたか分からない。
今となっては、彼女がどうしていたのかも知らない。知りたくも、ある。だが、同時に、もうその名を口にする資格もないと思っていた。
イヴェットの姿勢が、それを思い出させるたびに、胸の内に微かな痛みが走る。
それは後悔ではなく、ただの――痛みだ。原因は分かっていても、癒し方を知らない痛み。
彼女は今、どこで、何をしているのだろう。
国を守るために、どれほどの重荷を背負ったのか。
あのとき、自分があの席を降りた代償が、彼女の肩にどれだけのものを積み上げたのか。
アレクシスは、窓の外に目をやった。
高地の風は冷たいが、どこか遠い異国の匂いがした。
「……せめて、あの人が立っている場所が、報われていればいい」
呟きは、誰の耳にも届かない。
ただ風だけが、その思いをさらっていった。
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