4 / 25
閉ざされた扉の向こう
しおりを挟む
王都の午後は、柔らかな曇り空だった。
遠くの鐘楼が三度鳴り、湿った風が薔薇の香りを運んでくる。
けれど、リュミエール邸の中は静まり返っていた。
書斎の机には、新たな契約書の束が積まれている。
本来なら、これらは父――リュミエール商会の当主が目を通すべきものだった。
だが彼は今、北方領への長期出張に出ている。
名目は「新規鉱山との契約交渉」だが、実際は体調を崩しての静養に近い。
その間、邸内と商会の采配を任されているのは、ただ一人。セリーヌ・リュミエールだった。
「……代理、ね」
今までにも何度か経験したことはある。
だが、こうして父の名代として活動するのは――あの騒動以来、初めてだった。
“侯爵家の茶会での婚約破棄”。
王都の誰もがその出来事を忘れてはいない。
皮肉なことに、契約を破棄した家が、いま最も信用を持つに至ったのだ。
セリーヌは手元の報告書に目を落とした。
しかし、最初からそうだった訳ではない。商人あがりの家として肩身が狭かった時期があった。
ただ、蓋を開けてみれば、見下されていた立場が、すっかり逆転しているのも――なんという皮肉な話だろう。
話題が途切れたときにだけ、都合よく微笑みを向けられ、舞踏会では「お相手いたしますよ」と気まぐれに手を差し伸べられた。
そのすべてが“好意”ではなく“施し”であることを、彼女は痛いほど理解していた。
だから、彼女には絶対的な信頼をおける人物はいなかったし、商会も同様だった。
“信頼”とは常に契約の上で成り立つもの。
それがリュミエール家の掟であり、セリーヌが最も早くに知った現実だった。
父はいつも言っていた。
「口ではなく、紙に残るものを信用せよ」と。
その言葉を、彼女は一度たりとも疑わなかった。
そして実際、それで家はここまで繁栄した。
だが、その代償に、セリーヌは気づかぬうちに“人”を遠ざけていた。
誰かに相談することも、心を預けることもなく、ただ効率と自身の誠実さだけを秤にかけて判断を下す日々。
婚約相手に至っても、半ば打算的なものに過ぎなかった。彼の誠実さや家柄よりも、リュミエール家との利害が噛み合う――その一点で選ばれた関係だった。
最初から“愛”など期待していなかったし、彼もまた“信頼”より“利便”を求めていた。
互いにそれを理解していたからこそ、当初は上手くいっていたのだ。
だが、人は往々にして、慣れた均衡を壊したくなる生き物だ。
彼が心変わりした瞬間、すべては崩れる。
愛を理由に、契約を踏み倒す。
そのときセリーヌは悟った――自分が信じていたのは人ではなく、約束という形だけだったのだと。
以来、彼女は決して誰にも情を見せなくなった。感情を交えた取引は、最も不確実で、最も危うい。だからこそ、信頼を築くなら数字で。絆を結ぶなら印章で。
それが彼女の生き方になった。
けれど、その徹底した冷静さの裏で、時折胸が痛くなることがあった。
勝っても、褒められても、満たされない。
称賛も恐れも、結局は“距離”を作るだけだ。
「……信じられる人、よね」
誰に聞かせるでもなく呟いたそのとき――
扉の向こうから、ノックが響いた。
「お嬢様、面会の申し出がございます」
「誰?」
ペンを置いたセリーヌの声は、わずかに疲労を帯びていた。
「商会連盟から、新任の監査官が。ご挨拶に伺いたいと」
「……この時期に?」
思わず小さく眉を寄せる。
本来、監査官の挨拶など年度の改まる頃に済ませるものだ。
今は決算期の真っ只中――訪問の意図が全く読めなかった。
とはいえ、追い返す理由もない。
不用意に門前払いなどすれば、後々厄介なことになる可能性があった。
監査局の役人というのは、礼を欠いた相手には徹底的に厳しくなりがちだ。
「……不義理を働いたと思われて、後で商会の帳簿をひっくり返されたらたまらないわね」
皮肉を混ぜた独り言に、執事のルネが微かに眉を動かした。
「では、お通ししてよろしいでしょうか」
「ええ。――後でお茶の用意もお願い」
暫く後、扉がゆっくりと開かれた。
柔らかな光の中に、一人の少女の影が現れる。
まだ声も名も知らぬその来訪者に、セリーヌは思わず手を止めた。
どこか場違いなほど明るい空気が、閉ざされた書斎の空気をかすかに揺らす。
その日――セリーヌ・リュミエールは、後に
生涯の親友となる人物と出会うことになった。
遠くの鐘楼が三度鳴り、湿った風が薔薇の香りを運んでくる。
けれど、リュミエール邸の中は静まり返っていた。
書斎の机には、新たな契約書の束が積まれている。
本来なら、これらは父――リュミエール商会の当主が目を通すべきものだった。
だが彼は今、北方領への長期出張に出ている。
名目は「新規鉱山との契約交渉」だが、実際は体調を崩しての静養に近い。
その間、邸内と商会の采配を任されているのは、ただ一人。セリーヌ・リュミエールだった。
「……代理、ね」
今までにも何度か経験したことはある。
だが、こうして父の名代として活動するのは――あの騒動以来、初めてだった。
“侯爵家の茶会での婚約破棄”。
王都の誰もがその出来事を忘れてはいない。
皮肉なことに、契約を破棄した家が、いま最も信用を持つに至ったのだ。
セリーヌは手元の報告書に目を落とした。
しかし、最初からそうだった訳ではない。商人あがりの家として肩身が狭かった時期があった。
ただ、蓋を開けてみれば、見下されていた立場が、すっかり逆転しているのも――なんという皮肉な話だろう。
話題が途切れたときにだけ、都合よく微笑みを向けられ、舞踏会では「お相手いたしますよ」と気まぐれに手を差し伸べられた。
そのすべてが“好意”ではなく“施し”であることを、彼女は痛いほど理解していた。
だから、彼女には絶対的な信頼をおける人物はいなかったし、商会も同様だった。
“信頼”とは常に契約の上で成り立つもの。
それがリュミエール家の掟であり、セリーヌが最も早くに知った現実だった。
父はいつも言っていた。
「口ではなく、紙に残るものを信用せよ」と。
その言葉を、彼女は一度たりとも疑わなかった。
そして実際、それで家はここまで繁栄した。
だが、その代償に、セリーヌは気づかぬうちに“人”を遠ざけていた。
誰かに相談することも、心を預けることもなく、ただ効率と自身の誠実さだけを秤にかけて判断を下す日々。
婚約相手に至っても、半ば打算的なものに過ぎなかった。彼の誠実さや家柄よりも、リュミエール家との利害が噛み合う――その一点で選ばれた関係だった。
最初から“愛”など期待していなかったし、彼もまた“信頼”より“利便”を求めていた。
互いにそれを理解していたからこそ、当初は上手くいっていたのだ。
だが、人は往々にして、慣れた均衡を壊したくなる生き物だ。
彼が心変わりした瞬間、すべては崩れる。
愛を理由に、契約を踏み倒す。
そのときセリーヌは悟った――自分が信じていたのは人ではなく、約束という形だけだったのだと。
以来、彼女は決して誰にも情を見せなくなった。感情を交えた取引は、最も不確実で、最も危うい。だからこそ、信頼を築くなら数字で。絆を結ぶなら印章で。
それが彼女の生き方になった。
けれど、その徹底した冷静さの裏で、時折胸が痛くなることがあった。
勝っても、褒められても、満たされない。
称賛も恐れも、結局は“距離”を作るだけだ。
「……信じられる人、よね」
誰に聞かせるでもなく呟いたそのとき――
扉の向こうから、ノックが響いた。
「お嬢様、面会の申し出がございます」
「誰?」
ペンを置いたセリーヌの声は、わずかに疲労を帯びていた。
「商会連盟から、新任の監査官が。ご挨拶に伺いたいと」
「……この時期に?」
思わず小さく眉を寄せる。
本来、監査官の挨拶など年度の改まる頃に済ませるものだ。
今は決算期の真っ只中――訪問の意図が全く読めなかった。
とはいえ、追い返す理由もない。
不用意に門前払いなどすれば、後々厄介なことになる可能性があった。
監査局の役人というのは、礼を欠いた相手には徹底的に厳しくなりがちだ。
「……不義理を働いたと思われて、後で商会の帳簿をひっくり返されたらたまらないわね」
皮肉を混ぜた独り言に、執事のルネが微かに眉を動かした。
「では、お通ししてよろしいでしょうか」
「ええ。――後でお茶の用意もお願い」
暫く後、扉がゆっくりと開かれた。
柔らかな光の中に、一人の少女の影が現れる。
まだ声も名も知らぬその来訪者に、セリーヌは思わず手を止めた。
どこか場違いなほど明るい空気が、閉ざされた書斎の空気をかすかに揺らす。
その日――セリーヌ・リュミエールは、後に
生涯の親友となる人物と出会うことになった。
258
あなたにおすすめの小説
【完結】氷の令嬢は愛を請わない - 捨て子の『義妹』に愛も家族も奪われたマリーローズの逆襲
恋せよ恋
恋愛
銀髪紫眼の美貌の侯爵令嬢、マリーローズ。
完璧な淑女に育った彼女だったが、母は捨て子ジュリエットを寵愛。
婚約者の公爵家嫡男アレックスも、友人も、次々に奪われる――。
家族に裏切られ、すべてを失った彼女が下した決断は、
家族を見かぎり、国を捨て、自らの人生を取り戻すこと。
理不尽な悲恋を力に変え、運命をひっくり返す令嬢の逆転劇!
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
〖完結〗お飾り王妃は追放されて国を創る~最強聖女を追放したバカ王~
藍川みいな
恋愛
「セリシア、お前はこの国の王妃に相応しくない。この国から追放する!」
王妃として聖女として国を守って来たセリシアを、ジオン王はいきなり追放し、聖女でもない侯爵令嬢のモニカを王妃にした。
この大陸では聖女の力が全てで、聖女協会が国の順位を決めていた。何十年も一位だったスベマナ王国は、優秀な聖女を失い破滅する。
設定ゆるゆるの架空のお話です。
本編17話で完結になります。
【完結】白い結婚を終えて自由に生きてまいります
なか
恋愛
––アロルド、私は貴方が結婚初日に告げた言葉を今でも覚えている。
忘れもしない、あの時貴方は確かにこう言った。
「初めに言っておく、俺達の婚姻関係は白い結婚として……この関係は三年間のみとする」
「白い結婚ですか?」
「実は俺には……他に愛する女性がいる」
それは「公爵家の令嬢との問題」を理由に、三年間だけの白い結婚を強いるもの。
私の意思を無視して三家が取り決めたものであったが、私は冷静に合意を決めた
――それは自由を得るため、そして『私自身の秘密を隠すため』の計算でもあった。
ところが、三年の終わりが近づいたとき、アロルドは突然告白する。「この三年間で君しか見えなくなった。白い結婚の約束をなかったことにしてくれ」と。
「セシーリア、頼む……どうか、どうか白い結婚の合意を無かった事にしてくれ」
アロルド、貴方は何を言い出すの?
なにを言っているか、分かっているの?
「俺には君しかいないと、この三年間で分かったんだ」
私の答えは決まっていた。
受け入れられるはずがない。
自由のため、私の秘密を守るため、貴方の戯言に付き合う気はなかった。
◇◇◇
設定はゆるめです。
とても強い主人公が自由に暮らすお話となります。
もしよろしければ、読んでくださると嬉しいです!
婚約者チェンジ? 義理の妹は公爵令嬢の地位もチェンジされました』 ~三日で破談、家ごと褫奪の末路です~
ふわふわ
恋愛
「お姉様の婚約者、私がいただきますわ。だって“公爵令嬢”ですもの」
義理の妹コンキュはそう言って、王太子との婚約を奪いました。
父はそれを容認し、私は静かに受け入れます。
けれど――
公爵令嬢とは“地位”ではなく、“責任”の継承者。
王宮で礼儀も実務も拒み、「未来の王太子妃」を名乗った義妹は、わずか三日で婚約破棄。
さらに王家への不敬と統治能力の欠如が問題視され、父の監督責任が問われます。
そして下されたのは――家ごとの褫奪。
一方で私は、領地を守り、帳簿を整え、静かに家を支え続ける。
欲しがったのは肩書。
継いだのは責任。
正統は叫びません。
ただ、残るだけ。
これは、婚約を奪われた公爵令嬢が
“本当に継がれるべきもの”を証明する物語。
「役立たず」と婚約破棄されたけれど、私の価値に気づいたのは国中であなた一人だけでしたね?
ゆっこ
恋愛
「――リリアーヌ、お前との婚約は今日限りで破棄する」
王城の謁見の間。高い天井に声が響いた。
そう告げたのは、私の婚約者である第二王子アレクシス殿下だった。
周囲の貴族たちがくすくすと笑うのが聞こえる。彼らは、殿下の隣に寄り添う美しい茶髪の令嬢――伯爵令嬢ミリアが勝ち誇ったように微笑んでいるのを見て、もうすべてを察していた。
「理由は……何でしょうか?」
私は静かに問う。
お前との婚約は、ここで破棄する!
ねむたん
恋愛
「公爵令嬢レティシア・フォン・エーデルシュタイン! お前との婚約は、ここで破棄する!」
華やかな舞踏会の中心で、第三王子アレクシス・ローゼンベルクがそう高らかに宣言した。
一瞬の静寂の後、会場がどよめく。
私は心の中でため息をついた。
婚約破棄?悪役令嬢の復讐は爆速で。
八雲
恋愛
「リリム・フォン・アスタロト! 貴様との婚約を破棄する!」
卒業パーティーの最中、婚約者である王太子エリオットから身に覚えのない罪を突きつけられた公爵令嬢リリム。隣には「真実の愛」を語るマシュマロ系男爵令嬢シャーリーの姿。
普通の令嬢なら泣き崩れる場面――だが、リリムは違った。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる