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朝露の中の策略
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朝の光が建物の屋根を淡く照らし、影だけが静かに伸びていた。
リュミエール商会の門前には、一台の馬車が停まっている。
荷を積み、見た目には出立の準備が整っている。
荷台には旅装の鞄がいくつも積まれ、ついでと言わんばかりに封蝋の押された書状まで添えられていた。
どれも、人目を欺くために用意された“証拠”にすぎない。
そう――彼女の作戦は、“誰も乗らない馬車”を走らせることだった。
商会主である自分が療養のために都を離れると見せかけ、実際は馬車の中身は空。
留守を狙って動くであろう敵を誘い出すための、周到な囮だった。
三ヶ月前、ハルベルト商会の報告で掴んだ事実をもとに、セリーヌはすぐに仕掛けの準備を進めた。
それは、オックスフォード商会が再び動くであろう“隙”を見せる為、セリーヌは意図的に商会の活動を縮小させたのだ。そうする事で本当に彼女は不在なのだと思わせる事ができる。
使用人たちにも最低限の対応以外は控えるよう命じ、屋敷にはわざと人気を減らした。
計画の要は“信じさせること”。
セリーヌが都を離れたと、誰もが疑わない状況を作ることだった。
実際には、彼女自身は屋敷の奥で ハルベルト商会や監査局、治安局との連絡を取っていた。
彼女は、バレないようにと、いつもの上質な服ではなく、商会の従業員用の作業服を身にまとっていた。
髪も低くまとめ、顔立ちがはっきり見えないように布の帽子を被る。
これなら、遠目にはただの事務員か荷運びの手伝いにしか見えない。
窓際の陰に立ち、セリーヌは門の様子をじっと見つめた。
馬車の御者台には信頼の置ける巡察隊の一人が座り、ゆっくりと手綱を取る。
車輪が軋み、馬が鼻を鳴らす。
やがて馬車は、まだ眠りの残る街の通りへと静かに走り出した。
見送りに出たのは数人の使用人だけ。
それを裏通りの誰かが見ていれば、「リュミエール商会の主が出立した」と噂するに違いない。
それでいい。むしろ、それが狙いだった。
「それにしても、うまくいってますね……」
アナスタシアは小声で言いながら、部屋に入ってきた。そして、セリーヌの姿を見るなり、目を丸くした。
「えっ、ちょ、セリーヌさん!? その格好、どうしたんですか?」
セリーヌは書類を手にしたまま、少しだけ肩をすくめた。
「見れば分かるでしょう。従業員の制服よ」
「いや、分かりますけど……まさか自分で着るとは思いませんでしたよ!?」
アナスタシアは思わず声を潜めながらも、目をぱちくりさせていた。
普段はきっちりと仕立てられたドレスに身を包み、凛とした印象を纏うセリーヌが、今日に限って灰色の作業服姿。
袖を少し折り上げ、手には薄い皮手袋までしている。
その姿は、どう見ても商会の一事務員だった。
アナスタシアは、しばらく言葉を失ってセリーヌを見つめていた。
「……本当に、セリーヌさんなんですよね?」
「他に誰がいるのよ」
アナスタシアは半ば呆れ、半ば感心したようにため息をついた。
「いや、もう別人にしか見えませんって。どこからどう見ても事務員ですよ」
「そのつもりで着ているもの」
セリーヌは鏡を確認するように袖を軽く整えた。
「それにしても……そこまで徹底するなんて」
「三ヶ月も準備をしていたもの。ここで取り逃がすわけにはいかないわ」
そう、三ヶ月の間に、セリーヌ達は準備を積み上げていた。
セリーヌが最初に頼んだのはハルベルト商会だった。彼らには北地区の倉庫群の監視を依頼した。
引き受けの条件は一つ――その内容は彼女と当主しか知らない。ただ、その“約束”があったからこそ、彼らは報酬も求めず動いた。
次に、アナスタシアの監査局。ここが一番の難関だった。
当初、局の上層部はこの件への介入を渋った。前回の一件で評判を落としたくないという思惑があったのだ。だが、アナスタシアは引かなかった。
最終的には、彼女に押し切られた形で上層部は承諾したものの、彼女ら自らの進退を懸けていたのだ。
「これが失敗したら、私は職を辞します」――その一言が決定的になったらしい。
こうして監査局の活動が正式に認められ、治安局にも連絡が回った。
監査局が動けば、治安局も動かざるを得ない。
その連鎖を引き起こしたのは、ただ一人の監査官――アナスタシアだった。
「私、失敗したら仕事やめます!って言ってるんですからね!」
アナスタシアは半ば冗談めかして言っていた。
今回の件――これは本来、監査局の職務範囲を越えた行動だった。
上層部の許可を取り付けるために、アナスタシアは数日間も残業を重ね、幾度も会議室に呼び出され、それでも折れなかった。
セリーヌは彼女の背を見つめながら、胸の奥で小さく息をつく。
――本当に、どれだけ助けられただろう。
この三ヶ月、アナスタシアがいなければ計画は形にもならなかった。
一生をかけても返しきれないほどの恩を、彼女に負っている。
だからこそ、失敗は許されない。
これはリュミエール商会のためだけではなく、アナスタシアの未来のためでもある――
セリーヌは窓辺から離れ、机の上の地図に視線を落とす。
小さな印がいくつも書き込まれ、倉庫群、商会通り、監査局の配置が一目でわかるようになっている。
準備はすべて整った。
後は敵が動き出す、その瞬間を待つだけだった。
リュミエール商会の門前には、一台の馬車が停まっている。
荷を積み、見た目には出立の準備が整っている。
荷台には旅装の鞄がいくつも積まれ、ついでと言わんばかりに封蝋の押された書状まで添えられていた。
どれも、人目を欺くために用意された“証拠”にすぎない。
そう――彼女の作戦は、“誰も乗らない馬車”を走らせることだった。
商会主である自分が療養のために都を離れると見せかけ、実際は馬車の中身は空。
留守を狙って動くであろう敵を誘い出すための、周到な囮だった。
三ヶ月前、ハルベルト商会の報告で掴んだ事実をもとに、セリーヌはすぐに仕掛けの準備を進めた。
それは、オックスフォード商会が再び動くであろう“隙”を見せる為、セリーヌは意図的に商会の活動を縮小させたのだ。そうする事で本当に彼女は不在なのだと思わせる事ができる。
使用人たちにも最低限の対応以外は控えるよう命じ、屋敷にはわざと人気を減らした。
計画の要は“信じさせること”。
セリーヌが都を離れたと、誰もが疑わない状況を作ることだった。
実際には、彼女自身は屋敷の奥で ハルベルト商会や監査局、治安局との連絡を取っていた。
彼女は、バレないようにと、いつもの上質な服ではなく、商会の従業員用の作業服を身にまとっていた。
髪も低くまとめ、顔立ちがはっきり見えないように布の帽子を被る。
これなら、遠目にはただの事務員か荷運びの手伝いにしか見えない。
窓際の陰に立ち、セリーヌは門の様子をじっと見つめた。
馬車の御者台には信頼の置ける巡察隊の一人が座り、ゆっくりと手綱を取る。
車輪が軋み、馬が鼻を鳴らす。
やがて馬車は、まだ眠りの残る街の通りへと静かに走り出した。
見送りに出たのは数人の使用人だけ。
それを裏通りの誰かが見ていれば、「リュミエール商会の主が出立した」と噂するに違いない。
それでいい。むしろ、それが狙いだった。
「それにしても、うまくいってますね……」
アナスタシアは小声で言いながら、部屋に入ってきた。そして、セリーヌの姿を見るなり、目を丸くした。
「えっ、ちょ、セリーヌさん!? その格好、どうしたんですか?」
セリーヌは書類を手にしたまま、少しだけ肩をすくめた。
「見れば分かるでしょう。従業員の制服よ」
「いや、分かりますけど……まさか自分で着るとは思いませんでしたよ!?」
アナスタシアは思わず声を潜めながらも、目をぱちくりさせていた。
普段はきっちりと仕立てられたドレスに身を包み、凛とした印象を纏うセリーヌが、今日に限って灰色の作業服姿。
袖を少し折り上げ、手には薄い皮手袋までしている。
その姿は、どう見ても商会の一事務員だった。
アナスタシアは、しばらく言葉を失ってセリーヌを見つめていた。
「……本当に、セリーヌさんなんですよね?」
「他に誰がいるのよ」
アナスタシアは半ば呆れ、半ば感心したようにため息をついた。
「いや、もう別人にしか見えませんって。どこからどう見ても事務員ですよ」
「そのつもりで着ているもの」
セリーヌは鏡を確認するように袖を軽く整えた。
「それにしても……そこまで徹底するなんて」
「三ヶ月も準備をしていたもの。ここで取り逃がすわけにはいかないわ」
そう、三ヶ月の間に、セリーヌ達は準備を積み上げていた。
セリーヌが最初に頼んだのはハルベルト商会だった。彼らには北地区の倉庫群の監視を依頼した。
引き受けの条件は一つ――その内容は彼女と当主しか知らない。ただ、その“約束”があったからこそ、彼らは報酬も求めず動いた。
次に、アナスタシアの監査局。ここが一番の難関だった。
当初、局の上層部はこの件への介入を渋った。前回の一件で評判を落としたくないという思惑があったのだ。だが、アナスタシアは引かなかった。
最終的には、彼女に押し切られた形で上層部は承諾したものの、彼女ら自らの進退を懸けていたのだ。
「これが失敗したら、私は職を辞します」――その一言が決定的になったらしい。
こうして監査局の活動が正式に認められ、治安局にも連絡が回った。
監査局が動けば、治安局も動かざるを得ない。
その連鎖を引き起こしたのは、ただ一人の監査官――アナスタシアだった。
「私、失敗したら仕事やめます!って言ってるんですからね!」
アナスタシアは半ば冗談めかして言っていた。
今回の件――これは本来、監査局の職務範囲を越えた行動だった。
上層部の許可を取り付けるために、アナスタシアは数日間も残業を重ね、幾度も会議室に呼び出され、それでも折れなかった。
セリーヌは彼女の背を見つめながら、胸の奥で小さく息をつく。
――本当に、どれだけ助けられただろう。
この三ヶ月、アナスタシアがいなければ計画は形にもならなかった。
一生をかけても返しきれないほどの恩を、彼女に負っている。
だからこそ、失敗は許されない。
これはリュミエール商会のためだけではなく、アナスタシアの未来のためでもある――
セリーヌは窓辺から離れ、机の上の地図に視線を落とす。
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準備はすべて整った。
後は敵が動き出す、その瞬間を待つだけだった。
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