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5話
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商人が王都へ戻ってから、十日が過ぎようとしていた。
辺境の十日は、王都の十日より長く感じる。
一日の中に“やるべきこと”が詰まっているからだ。水路の補修。配給所の掲示板の更新。倉庫の鍵の管理。記録係の交代の確認。
それでも私は、ふとした瞬間に耳を澄ませてしまう。馬の蹄の音が近づいていないか。門の外で誰かが名を呼んでいないか。
待つのは得意ではない。私はいつも、待つ時間さえ手順に変えてきた。
十日目の午後。砂を含んだ風が少し弱まり、空に薄い雲が流れていた。雲があるだけで、町の人々の視線が上を向く。
雨が降るかもしれない、という希望は、こんなにも簡単に人の呼吸を軽くするのだと私は知った。
そのとき、門番の声が役所の廊下に走ってきた。
「王都から使者です!」
私は手にしていた帳簿を閉じた。閉じる音は小さかったはずなのに、部屋の中ではよく響いた。
私は立ち上がり、外套を羽織る。心臓が早くなるのを、自分でも感じた。
“戻れ”という言葉を聞く準備はできていた。
けれど、聞く瞬間の痛みまで、準備できるわけではない。
役所の前庭に出ると、三頭の馬が並んでいた。馬は汗ばんで湯気を発していた。旅程を急いだのだろう。
その中央に、王都の紋章を刻んだ筒を抱えた男が立っている。鎧は磨かれ、外套は新しい。辺境の砂が、彼にはまだ馴染んでいない。
男は私を見ると、杖のように背筋を伸ばした。
「レティシア・アルヴェーン殿」
呼び方が、ぎこちない。
殿下の婚約者だった私を、どう呼べばいいのか。
“罪人”と呼ぶ勇気も、“貴婦人”のように呼ぶ資格も、彼の中で決まっていない。
その曖昧さが、王都の今を表している気がした。
「はい。私です」
私は丁寧に返した。丁寧に返すとき、自分が硬い人間だと笑いたくなる。
でも、その硬さは今、私を守る壁になる。柔らかさは、彼らの都合で形を変えられてしまうから。
使者は筒を差し出した。
封蝋には王太子の印が押されている。赤い蝋は、夜の舞踏会の床の光を思い出させた。
私は受け取らず、筒の口を見ただけで言った。
「口頭で構いません。要件を」
使者が一瞬だけ目を瞬かせた。
形式より内容。王都の人間にとってそれは、少しだけ怖い。
「……王都が混乱しております。干ばつの影響が広がり、基金の運用に不備が生じ、市場の取引も停滞し……」
彼は用意してきただろう言葉を並べた。
丁寧な言葉。責任を曖昧にする言葉。
私は最後まで聞いた。その上で、静かに訊く。
「それで、殿下は何と」
使者は咳払いをした。
そして、ここが本題だと言わんばかりに声を整えた。
「王太子殿下は、あなたに王都へ戻るよう命じられます。国政補佐として、財務院に復帰し――」
命じる。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが硬く鳴った。
怒りが湧いたのではない。
“なるほど、変わっていない”という確認が、冷たい音になって心に響く。
私は一歩だけ、使者の方へ近づいた。距離を詰めると、彼はわずかに身を引いた。
王都の紋章がついた筒が、彼の腕の中で小さく揺れる。
「命令ですか」
私は問い返した。
少し棘のある態度になってしまったと、言い終わってから気づく。
もしかしたら、私は自分が怒っていないと思いたいだけなのかもしれない。
使者は目を逸らし、言葉を選んだ。
「……殿下のご意思です」
ご意思。
命令を柔らかく包んだ言葉。
私はその包み紙ごと、その場に広げるように言った。
「承知しました。では、私の意思もお伝えください」
使者が息を呑む。
王都では、意思を持つのは殿下で、他は従うものだ。
でも私はもう、従う立場ではない。
ここで従えば、また同じことになる。
私は外套の内側から、薄い紙束を取り出した。辺境の役所で書き直した、簡潔な条文だ。
紙の質はそれほど良くないけれど、その内容に貴賤はない。
「私は王都へ向かいます。ただし、条件があります」
使者の喉が鳴った。
風が砂を転がし、庭の隅で小さな音がした。
その音だけが、広い空の下で不思議なほど大きく感じられる。
「第一に、公開監査です」
私は一つ目の条件を、ゆっくり置いた。
「干ばつ救済基金の収支。支出命令の決裁者。用途変更の履歴。これらを、記録水晶を用いて公の場で示します。私は“裏で説明”はしません。隠せる余地を残すからです」
使者は顔色を変えた。
公開。公の場。
それは、王都の貴族が最も嫌う言葉だ。
密室なら、物語で勝てる。でも公開なら、記録が勝つ。
「第二に、聖女セシルの功績の検証です」
私は二つ目を置く。
ここで声色を変えないように努めた。セシルへの嫌悪が混ざれば、ただの私怨と思われるかもしれないからだ。
実際、今の私の怒りは“個人”ではなく“仕組み”に向いている。
「祈りを否定しません。ですが、祈りによって集めた寄付の行き先は記録で示していただきます。水と食糧に変えたなら、その契約書と支払いを。変えていないなら、理由を」
使者は口を開けたまま、言葉を探した。
言葉が出てこないのは当然だ。
彼は“祈り”と“帳簿”を同じ机に載せたことがないのだろう。
「第三に、辺境支援の長期契約です」
私は最後を置いた。
「私はここで水路を作り、配給を整え始めました。王都が私を呼び戻すなら、その穴を塞がなければなりません。支援は一時金ではなく、月ごとの固定予算として契約に落とします。治水、備蓄、輸送。担当部署と決裁者も明記してください」
最後の一言は、少しだけ硬くなった。
「責任の所在が溶ける書類は、もう作りません」
使者は、唇を震わせた。
彼の背後では、役所の者たちが遠巻きにこちらを見ている。
見ているのは野次馬の好奇心ではない。
“自分たちの明日”が、この会話にかかっていると分かっている目だ。
使者は、恐る恐る言った。
「……殿下が、そのような条件をお飲みになると……?」
私は、笑わなかった。
勝ち誇った顔もしない。
それは上品さのためではない。
ここで笑えば、私は彼らにとって“敵”になるかもしれない。敵になれば、また物語で処理される。
「飲みます」
私は静かに断言した。
「飲まなければ、崩れます。殿下が理解していなくても、周りが理解します。支払いが止まれば、軍も商会も黙りませんから」
使者は背筋を固くした。
脅しだと思ったのだろう。
でもこれは脅しではない。現実だ。
私は紙束を差し出した。
「この条文を持ち帰り、殿下の印を得てください。印が得られ次第、私は王都へ向かいます」
使者は紙を受け取った。指先が少し震えている。
震えているのは恐れだけではない。
彼の中で、王都の“常識”が音を立てて崩れているのかもしれない。
「……分かりました。すぐに王都へ戻り、伝えます」
使者は深く頭を下げた。
さっきのぎこちない呼び方より、今の礼の方がずっと正しい形に見えた。
礼は政治の道具だ。
それでも、礼の角度には真実が混じる。
馬が向きを変え、砂を蹴って走り出す。蹄の音が遠ざかっていく。
私はその音が消えるまで、庭に立っていた。
風が外套の裾を揺らす。
雲が薄く流れ、日が陰る。
私は空を見上げた。
雨は、いつ降るだろう。
私は雨を約束できない。
でも、支援の契約なら約束できる。
――私は王都へ戻る。
けれど、あの舞踏会の光の中へ、黙って戻るのではない。
私は戻る条件を、紙に落とした。
紙は嘘をつかない。嘘をつくのは人だ。
だから私は、嘘がつけない形にする。
役所の玄関へ戻る途中、グレン領主が立っていた。いつからそこにいたのか分からない。
彼は私の顔を見て、短く言った。
「行くのか」
「はい。ただし、条件付きで」
私が答えると、彼は頷いた。
止めない。励ましもしない。
ただ、現実の人間らしく、必要な言葉だけを渡す。
「ここは守る。君が整えた仕組みは、私が潰させない」
胸の奥に、熱が生まれた。
この熱に恋の甘さが含まれるかどうかは、今の私にはわからない。
ただ確実に言えることは、この人が信頼できるということ。
「ありがとうございます」
私は礼をした。
そして、部屋に戻り、机の上に記録水晶を置いた。
冷たい水晶の表面に、午後の光が乗る。
その光は、舞踏会の嘘の魔法とは違う。
逃げ場をなくすための光だ。
私は指先で水晶に触れ、心の中で短く言った。
――今度は、私が“物語”を終わらせる。
記録で。
責任で。
そして、誠実に。
辺境の十日は、王都の十日より長く感じる。
一日の中に“やるべきこと”が詰まっているからだ。水路の補修。配給所の掲示板の更新。倉庫の鍵の管理。記録係の交代の確認。
それでも私は、ふとした瞬間に耳を澄ませてしまう。馬の蹄の音が近づいていないか。門の外で誰かが名を呼んでいないか。
待つのは得意ではない。私はいつも、待つ時間さえ手順に変えてきた。
十日目の午後。砂を含んだ風が少し弱まり、空に薄い雲が流れていた。雲があるだけで、町の人々の視線が上を向く。
雨が降るかもしれない、という希望は、こんなにも簡単に人の呼吸を軽くするのだと私は知った。
そのとき、門番の声が役所の廊下に走ってきた。
「王都から使者です!」
私は手にしていた帳簿を閉じた。閉じる音は小さかったはずなのに、部屋の中ではよく響いた。
私は立ち上がり、外套を羽織る。心臓が早くなるのを、自分でも感じた。
“戻れ”という言葉を聞く準備はできていた。
けれど、聞く瞬間の痛みまで、準備できるわけではない。
役所の前庭に出ると、三頭の馬が並んでいた。馬は汗ばんで湯気を発していた。旅程を急いだのだろう。
その中央に、王都の紋章を刻んだ筒を抱えた男が立っている。鎧は磨かれ、外套は新しい。辺境の砂が、彼にはまだ馴染んでいない。
男は私を見ると、杖のように背筋を伸ばした。
「レティシア・アルヴェーン殿」
呼び方が、ぎこちない。
殿下の婚約者だった私を、どう呼べばいいのか。
“罪人”と呼ぶ勇気も、“貴婦人”のように呼ぶ資格も、彼の中で決まっていない。
その曖昧さが、王都の今を表している気がした。
「はい。私です」
私は丁寧に返した。丁寧に返すとき、自分が硬い人間だと笑いたくなる。
でも、その硬さは今、私を守る壁になる。柔らかさは、彼らの都合で形を変えられてしまうから。
使者は筒を差し出した。
封蝋には王太子の印が押されている。赤い蝋は、夜の舞踏会の床の光を思い出させた。
私は受け取らず、筒の口を見ただけで言った。
「口頭で構いません。要件を」
使者が一瞬だけ目を瞬かせた。
形式より内容。王都の人間にとってそれは、少しだけ怖い。
「……王都が混乱しております。干ばつの影響が広がり、基金の運用に不備が生じ、市場の取引も停滞し……」
彼は用意してきただろう言葉を並べた。
丁寧な言葉。責任を曖昧にする言葉。
私は最後まで聞いた。その上で、静かに訊く。
「それで、殿下は何と」
使者は咳払いをした。
そして、ここが本題だと言わんばかりに声を整えた。
「王太子殿下は、あなたに王都へ戻るよう命じられます。国政補佐として、財務院に復帰し――」
命じる。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが硬く鳴った。
怒りが湧いたのではない。
“なるほど、変わっていない”という確認が、冷たい音になって心に響く。
私は一歩だけ、使者の方へ近づいた。距離を詰めると、彼はわずかに身を引いた。
王都の紋章がついた筒が、彼の腕の中で小さく揺れる。
「命令ですか」
私は問い返した。
少し棘のある態度になってしまったと、言い終わってから気づく。
もしかしたら、私は自分が怒っていないと思いたいだけなのかもしれない。
使者は目を逸らし、言葉を選んだ。
「……殿下のご意思です」
ご意思。
命令を柔らかく包んだ言葉。
私はその包み紙ごと、その場に広げるように言った。
「承知しました。では、私の意思もお伝えください」
使者が息を呑む。
王都では、意思を持つのは殿下で、他は従うものだ。
でも私はもう、従う立場ではない。
ここで従えば、また同じことになる。
私は外套の内側から、薄い紙束を取り出した。辺境の役所で書き直した、簡潔な条文だ。
紙の質はそれほど良くないけれど、その内容に貴賤はない。
「私は王都へ向かいます。ただし、条件があります」
使者の喉が鳴った。
風が砂を転がし、庭の隅で小さな音がした。
その音だけが、広い空の下で不思議なほど大きく感じられる。
「第一に、公開監査です」
私は一つ目の条件を、ゆっくり置いた。
「干ばつ救済基金の収支。支出命令の決裁者。用途変更の履歴。これらを、記録水晶を用いて公の場で示します。私は“裏で説明”はしません。隠せる余地を残すからです」
使者は顔色を変えた。
公開。公の場。
それは、王都の貴族が最も嫌う言葉だ。
密室なら、物語で勝てる。でも公開なら、記録が勝つ。
「第二に、聖女セシルの功績の検証です」
私は二つ目を置く。
ここで声色を変えないように努めた。セシルへの嫌悪が混ざれば、ただの私怨と思われるかもしれないからだ。
実際、今の私の怒りは“個人”ではなく“仕組み”に向いている。
「祈りを否定しません。ですが、祈りによって集めた寄付の行き先は記録で示していただきます。水と食糧に変えたなら、その契約書と支払いを。変えていないなら、理由を」
使者は口を開けたまま、言葉を探した。
言葉が出てこないのは当然だ。
彼は“祈り”と“帳簿”を同じ机に載せたことがないのだろう。
「第三に、辺境支援の長期契約です」
私は最後を置いた。
「私はここで水路を作り、配給を整え始めました。王都が私を呼び戻すなら、その穴を塞がなければなりません。支援は一時金ではなく、月ごとの固定予算として契約に落とします。治水、備蓄、輸送。担当部署と決裁者も明記してください」
最後の一言は、少しだけ硬くなった。
「責任の所在が溶ける書類は、もう作りません」
使者は、唇を震わせた。
彼の背後では、役所の者たちが遠巻きにこちらを見ている。
見ているのは野次馬の好奇心ではない。
“自分たちの明日”が、この会話にかかっていると分かっている目だ。
使者は、恐る恐る言った。
「……殿下が、そのような条件をお飲みになると……?」
私は、笑わなかった。
勝ち誇った顔もしない。
それは上品さのためではない。
ここで笑えば、私は彼らにとって“敵”になるかもしれない。敵になれば、また物語で処理される。
「飲みます」
私は静かに断言した。
「飲まなければ、崩れます。殿下が理解していなくても、周りが理解します。支払いが止まれば、軍も商会も黙りませんから」
使者は背筋を固くした。
脅しだと思ったのだろう。
でもこれは脅しではない。現実だ。
私は紙束を差し出した。
「この条文を持ち帰り、殿下の印を得てください。印が得られ次第、私は王都へ向かいます」
使者は紙を受け取った。指先が少し震えている。
震えているのは恐れだけではない。
彼の中で、王都の“常識”が音を立てて崩れているのかもしれない。
「……分かりました。すぐに王都へ戻り、伝えます」
使者は深く頭を下げた。
さっきのぎこちない呼び方より、今の礼の方がずっと正しい形に見えた。
礼は政治の道具だ。
それでも、礼の角度には真実が混じる。
馬が向きを変え、砂を蹴って走り出す。蹄の音が遠ざかっていく。
私はその音が消えるまで、庭に立っていた。
風が外套の裾を揺らす。
雲が薄く流れ、日が陰る。
私は空を見上げた。
雨は、いつ降るだろう。
私は雨を約束できない。
でも、支援の契約なら約束できる。
――私は王都へ戻る。
けれど、あの舞踏会の光の中へ、黙って戻るのではない。
私は戻る条件を、紙に落とした。
紙は嘘をつかない。嘘をつくのは人だ。
だから私は、嘘がつけない形にする。
役所の玄関へ戻る途中、グレン領主が立っていた。いつからそこにいたのか分からない。
彼は私の顔を見て、短く言った。
「行くのか」
「はい。ただし、条件付きで」
私が答えると、彼は頷いた。
止めない。励ましもしない。
ただ、現実の人間らしく、必要な言葉だけを渡す。
「ここは守る。君が整えた仕組みは、私が潰させない」
胸の奥に、熱が生まれた。
この熱に恋の甘さが含まれるかどうかは、今の私にはわからない。
ただ確実に言えることは、この人が信頼できるということ。
「ありがとうございます」
私は礼をした。
そして、部屋に戻り、机の上に記録水晶を置いた。
冷たい水晶の表面に、午後の光が乗る。
その光は、舞踏会の嘘の魔法とは違う。
逃げ場をなくすための光だ。
私は指先で水晶に触れ、心の中で短く言った。
――今度は、私が“物語”を終わらせる。
記録で。
責任で。
そして、誠実に。
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