「格が違う」なら、どうぞお好きに。あなたも、鍵印のない範囲でお幸せに。

なかすあき

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借り物の権威が、崩れ落ちました。

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 大司教オスヴァルトが羊皮紙を開いた瞬間、聖堂の空気がひとつ、冷たい箱に閉じ込められた。
 拍手の余熱はまだ残っている。けれどそれは人の手のひらにだけ残る熱で、石の壁は何も覚えない。聖堂は祝福の声を吸い込み、代わりに文字の重みだけを返してくる。ここでは歓声より、条文の方が長く生きる。

 祭壇の前では、アルトの手首に獅子の第一紋が眩しく輝き、ミレイアの薬指には花嫁紋が柔らかく咲いている。
 参列者の顔に浮かぶのは、結論へ飛びつく安堵だった。これで問題ない。式は成立する。予定どおりだった。そう思いたい顔。そう思ってしまえば、誰も余計な責任を背負わずに済むから。

 私は参列者席で膝の上に手を重ねた。
 指先がわずかに震える。恐怖の震えではない。張り詰めた弦が、音を出す前に微かに震える、それと同じだ。
 私は今日、感情の音を鳴らしに来たのではない。確かめに来たのだ。

 大司教が淡々と告げる。

「これより、信用主体確認に入る」

 祝辞ではなく、手続きの言葉。だから反論ができない。反論は感情の言葉でしかできないが、手続きは感情に耳を貸さない。
 大司教は羊皮紙を少し持ち上げ、石の壁に均一に響く声で盟約文を読み上げた。

「当事者は、新郎アルト・グランヴェル、および花嫁ミレイア・ヴァンローゼ。信用主体は血盟紋により示され、鍵印けんいんの所在を聖堂が確認する」

 鍵印。
 その単語が落ちた瞬間、空気が固まった。先ほどまでの拍手の世界から、条文の世界へ引き戻される。目に見える華やかさではなく、見えない根へ触れる言葉。

 大司教は十字を掲げ、命じた。

「鍵印を示せ」

 アルトは迷いなく手首を差し出し、ミレイアは薬指を見せる。
 第一紋と花嫁紋は、どちらも十分に美しい。十分に“勝者”の印だ。
 けれど――真層は動かなかった。

 皮膚の奥から、もう一段深い光が押し上がってくる気配がない。
 鍵印は出ない。出るべき場所に、出るべきものがない。

 アルトの口元の笑みが揺れた。揺れを笑みに戻そうとして失敗し、声が少し強くなる。

「見えているだろう。これが――」

 大司教が遮った。声は低いのに、刃のように明確だった。

「それは第一紋。鍵印ではない」

 ざわめきが起こった。
 事情を知らない多数の動揺が、聖堂の壁に反射し増幅し、この場を支配しかける。
 ミレイアの微笑みが、貼り付いたまま固まる。崩れない仮面は、意味を失って形を保てるのだろうか。

 大司教は羊皮紙を閉じ、淡々と続けた。叱責ではない。説明だ。仕様を読み上げる声。

「鍵印は、信用の根にのみ現れる。盟約の効力は、当事者の体裁ではなく、信用主体の同意で成立する」

 信用の根。
 その言葉が、私の胸の奥で静かに噛み合った。
 私が聖具室で見た“浅い光”。水面だけが眩しく、底の暗さが動かない光。今、その意味が輪郭を持つ。表層の華やかさは、根が動かなければただの飾りだ。

 大司教は聖杯へ視線を落とした。
 縁に刻まれた古文字が血を吸い、赤が溝に沈んでいる。アルトの血と、ミレイアの血。二つの赤が重なり、濃い色へ沈み込む。
 それは汚れではない。呼び水となるのだ。

「信用主体照合に移る」

 大司教は、誰かを裁くような目をしていない。祈りも怒りもない。ただ、手順を進める目だ。

「聖杯の古文字に染みた血が真層を呼ぶ。真層は、根を持つ者を呼び出す。鍵印は、呼ばれた者に現れる」

 参列者の誰かが息を吸い、誰かが吐き損ねた。
 理解が追いついた者ほど、呼吸が乱れる。
 先ほどまでとは異なる、ばらばらの空気。

 大司教の視線が参列者席へ滑り、迷わず止まった。

「セレナ・リュミエール。前へ」

 胸の奥がきゅっと縮む。痛みではない。
 “私がここにいること”が、公式になる感覚。逃げ道がなくなる感覚。
 けれど私は逃げない。逃げないために、この席に座った。

 私は立ち上がり、通路へ出た。ステンドグラスの色の帯の上を歩く。青、赤、金。その美しさは相変わらずで、だからこそ残酷だ。
 私は歩きながら、自分の声の形を整えた。震えないためではない。丁寧であるために。

 祭壇の前で一礼する。

「確認のため、失礼いたします」

 そう言って侍者が差し出した針は、当事者の採血に使うものとは違っていた。短く細く、刺すためというより触れるための針。
 “盟約当事者としての血”ではない。
 “照合の一滴”のための器具だ。

「一滴でよい」

 大司教が言う。私は指先を差し出し、針に触れた。
 熱い点がひとつ、皮膚に生まれる。小さな痛み。赤が滲み、その一滴が聖杯へ落ちた。

 とぷり。

 その瞬間、聖杯の古文字が深く暗く光った。光というより、影が濃くなる。浅かったはずの輝きが、急に底を持ち始める。
 空気が、もう一段冷える。聖堂が“見えないもの”に触れた合図だ。

 熱が走った。
 鎖骨の下、心臓に近い場所。皮膚の内側から決定が押し上がってくる。第一紋のように華やかではない。むしろ地味で、簡素で、逃げ場がない形。

 鍵印けんいん――鍵穴のような小さな円と、そこから落ちる細い線。

 それが、私の胸元に浮かび上がった。

 会場の音が消えた。拍手も、囁きも、咳払いも。
 誰も異を唱えられない。その相手がいない。相手は感情ではなく、純然たる事実だからだ。

 アルトの顔から色が抜けた。
 彼は私の鎖骨を見て、大司教を見て、自分の手首を見下ろす。何度も。見方を変えれば現実が変わると、まだどこかで信じている目。
 ミレイアの微笑みは貼り付いたまま、意味を失う。勝者の仮面は剥がれない。剥がれないまま空洞になる。

 大司教が羊皮紙を閉じた。
 紙が閉じる音が、終わりの音だった。

「判定。信用主体はセレナ・リュミエール。よって、その同意なき盟約は成立せず。聖堂印は付与しない」

 低い声が、静かに確定する。
 その言葉が落ちた瞬間、誰かの未来が凍った。凍る音はしない。けれど空気が確かに変わる。

 前列からルーカスが一歩進み出て、淡々と補足した。祝辞ではなく通知。感情ではなく条項。

「商会規定により、聖堂印未付与の場合、当該取引は一時凍結となります。再開には信用主体の同意と、聖堂印の付与が必要です」

 凍結。
 剣より冷たい言葉が、音もなく未来を切った。

 私は息をひとつ吐いた。
 痛みはない。鎖骨に残る熱と、静かな確かさだけがある。
 私は勝ったのではない。
 ただ、嘘の上に建てられたものが崩れた。それだけだ。
 そして崩れたあとに残るのが、私の名で呼ばれる“根”なのだと、ようやく理解した。
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