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その身分に、ふさわしい幸せを。
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鍵印の熱が鎖骨に残ったまま、聖堂の空気は冷え切っていた。
拍手が止まると、音は戻ってこない。代わりに沈黙が形を持ち始める。誰かの喉の奥で止まった息が、石の天井に触れて重く落ちてくるようだった。さっきまで「おめでとう」を運んでいた空気が、今は「判定」を運んでいる。
大司教オスヴァルトは羊皮紙を祭壇脇の机に置き、銀の十字をゆっくりと下ろした。
祈りを終える所作ではない。判定を終え、次の段階へ移る所作だ。ここから先は祝福ではなく、処理になる。
「盟約停止」
たったふたつの熟語。
当事者は揃った。第一紋も出た。体裁も整っていた。それでも成立しない。
この国では、その結末が何よりも強い。誰の顔も立てない代わりに、誰の嘘も許さない。
「待ってくれ、セレナ。これは……」
アルトが私の名を呼んだ。
かつての親しみを声に混ぜれば届くと信じている呼び方。香りだけ変えれば、味も変わると思っている。けれど、いま口にされているのは感情ではなく事実だ。香りは効かない。
大司教が静かに遮る。
「事実に異議は不要。手続きのみ」
大きな声ではないのに、石に反射して戻ってくると、言葉は鋭く聞こえた。
アルトの口が半開きのまま止まる。勝者の形をしていたはずの口元が、初めて“敗者”の形になった。
ミレイアは微笑みを保とうとして、保てない。
笑みは剥がれない。剥がれないまま薄い膜になり、破れないまま意味を失う。勝者の仮面は崩れず、貼り付いたまま空洞になるのみだ。
大司教の視線が私へ向いた。
信用主体の意思を確かめる目。私は同じ温度で返す。慰めも怒りも混ぜない。混ぜれば、これは感情の問題になってしまう。けれどこれは仕様だ。仕組みの問題だ。
「確認します」
私は短く告げ、言葉を整えた。誰も取り違えないように、余白を残さないように。
「信用主体として、当該取引に同意いたしません。再申請も受理いたしません」
復讐ではない。拒絶の叫びでもない。
ただの決裁。だから誰も責められない。責める相手がいない。相手は私ではなく、条文であり、印であり、事実だから。
書記官の羽根ペンが羊皮紙を擦った。ざらり、ざらり。
祝福ではなく記録。歓声ではなく署名。
現実はいつだって、こういう音で決まる。人の気分が揺れても、紙の上の文字は揺れない。
私は一歩下がり、手袋の指先を整えた。身だしなみのためではない。退出の所作を乱さないためだ。
私は花嫁ではない。花嫁の退場をする必要はない。
私がするのは、信用主体としての撤収。手続き完了の退場だ。
通路へ向かって歩き出す。
ステンドグラスの色が足元を流れる。青、赤、金。さっきまでこの色は祝福の絵だったのに、今は判定の道標に見えた。
美しさがどこか遠い。遠いのに、私は前へ進める。感情の足ではなく、意志の足で。
背中に視線が刺さる。
憐れみでも嘲りでもない。事実を見た者たちの視線だ。
人は事実の前では、加害者にも被害者にもなれない。ただの目撃者になる。目撃者は、声を上げる意味はなく、ただ見るだけだ。
扉の前で、私は一度だけ足を止めた。
迷ったのではない。最後の一言を置く場所を選ぶためだ。言葉は場所で重さが変わる。ここが最も適切だと、手続きの感覚が告げていた。
振り返る。
アルトは祭壇の中央に立っていた。手首の第一紋はまだ輝いているのに、その輝きは飾りになっていた。光っているのに、何も動かせない。
ミレイアは唇を結び、勝者の席から降りることも、上手に逃げることもできずに固まっている。私の視線を受け止める余裕もないのに、仮面だけが残っている。
私はアルトの目を見た。たった一度だけ。
微笑まない。勝者の顔をしない。
丁寧なまま、条件だけを添える。条件は刃ではなく、鍵だ。閉じるための言葉。
「お幸せに。鍵印のない範囲で、ね」
それで終わりだった。
罵りも、泣き叫びも、劇的な崩落もない。
ただ、世界の仕組みが静かに位置を変え、彼の足元から床が抜けた。落ちる音はしない。音がないぶん、余韻だけが残る。
私は扉へ手を伸ばし、外気を吸い込んだ。
冬の空気は鋭く、肺の奥がきゅっと縮む。その痛みが、むしろ心地よかった。現実だ。聖堂の冷たさとは違う、外の冷たさ。私が生きているゆえの、冷たさ。
外へ出る。扉が閉まる。
背後で誰かが叫ぶ声が聞こえたが、気のせいだろう。
だって、それに意味はないから。事実の前では、叫びは無力だから。
私は歩き出す。
鎖骨の下に残る熱が、まだ確かにある。勝利の熱ではない。私が私の名で世界に立つための、静かな証明の熱だ。
胸の奥で、長いあいだ私を縛っていた糸が一本、音もなく切れた。
私はそれを確かめるように息を吐き、前を向いて歩きだした。
拍手が止まると、音は戻ってこない。代わりに沈黙が形を持ち始める。誰かの喉の奥で止まった息が、石の天井に触れて重く落ちてくるようだった。さっきまで「おめでとう」を運んでいた空気が、今は「判定」を運んでいる。
大司教オスヴァルトは羊皮紙を祭壇脇の机に置き、銀の十字をゆっくりと下ろした。
祈りを終える所作ではない。判定を終え、次の段階へ移る所作だ。ここから先は祝福ではなく、処理になる。
「盟約停止」
たったふたつの熟語。
当事者は揃った。第一紋も出た。体裁も整っていた。それでも成立しない。
この国では、その結末が何よりも強い。誰の顔も立てない代わりに、誰の嘘も許さない。
「待ってくれ、セレナ。これは……」
アルトが私の名を呼んだ。
かつての親しみを声に混ぜれば届くと信じている呼び方。香りだけ変えれば、味も変わると思っている。けれど、いま口にされているのは感情ではなく事実だ。香りは効かない。
大司教が静かに遮る。
「事実に異議は不要。手続きのみ」
大きな声ではないのに、石に反射して戻ってくると、言葉は鋭く聞こえた。
アルトの口が半開きのまま止まる。勝者の形をしていたはずの口元が、初めて“敗者”の形になった。
ミレイアは微笑みを保とうとして、保てない。
笑みは剥がれない。剥がれないまま薄い膜になり、破れないまま意味を失う。勝者の仮面は崩れず、貼り付いたまま空洞になるのみだ。
大司教の視線が私へ向いた。
信用主体の意思を確かめる目。私は同じ温度で返す。慰めも怒りも混ぜない。混ぜれば、これは感情の問題になってしまう。けれどこれは仕様だ。仕組みの問題だ。
「確認します」
私は短く告げ、言葉を整えた。誰も取り違えないように、余白を残さないように。
「信用主体として、当該取引に同意いたしません。再申請も受理いたしません」
復讐ではない。拒絶の叫びでもない。
ただの決裁。だから誰も責められない。責める相手がいない。相手は私ではなく、条文であり、印であり、事実だから。
書記官の羽根ペンが羊皮紙を擦った。ざらり、ざらり。
祝福ではなく記録。歓声ではなく署名。
現実はいつだって、こういう音で決まる。人の気分が揺れても、紙の上の文字は揺れない。
私は一歩下がり、手袋の指先を整えた。身だしなみのためではない。退出の所作を乱さないためだ。
私は花嫁ではない。花嫁の退場をする必要はない。
私がするのは、信用主体としての撤収。手続き完了の退場だ。
通路へ向かって歩き出す。
ステンドグラスの色が足元を流れる。青、赤、金。さっきまでこの色は祝福の絵だったのに、今は判定の道標に見えた。
美しさがどこか遠い。遠いのに、私は前へ進める。感情の足ではなく、意志の足で。
背中に視線が刺さる。
憐れみでも嘲りでもない。事実を見た者たちの視線だ。
人は事実の前では、加害者にも被害者にもなれない。ただの目撃者になる。目撃者は、声を上げる意味はなく、ただ見るだけだ。
扉の前で、私は一度だけ足を止めた。
迷ったのではない。最後の一言を置く場所を選ぶためだ。言葉は場所で重さが変わる。ここが最も適切だと、手続きの感覚が告げていた。
振り返る。
アルトは祭壇の中央に立っていた。手首の第一紋はまだ輝いているのに、その輝きは飾りになっていた。光っているのに、何も動かせない。
ミレイアは唇を結び、勝者の席から降りることも、上手に逃げることもできずに固まっている。私の視線を受け止める余裕もないのに、仮面だけが残っている。
私はアルトの目を見た。たった一度だけ。
微笑まない。勝者の顔をしない。
丁寧なまま、条件だけを添える。条件は刃ではなく、鍵だ。閉じるための言葉。
「お幸せに。鍵印のない範囲で、ね」
それで終わりだった。
罵りも、泣き叫びも、劇的な崩落もない。
ただ、世界の仕組みが静かに位置を変え、彼の足元から床が抜けた。落ちる音はしない。音がないぶん、余韻だけが残る。
私は扉へ手を伸ばし、外気を吸い込んだ。
冬の空気は鋭く、肺の奥がきゅっと縮む。その痛みが、むしろ心地よかった。現実だ。聖堂の冷たさとは違う、外の冷たさ。私が生きているゆえの、冷たさ。
外へ出る。扉が閉まる。
背後で誰かが叫ぶ声が聞こえたが、気のせいだろう。
だって、それに意味はないから。事実の前では、叫びは無力だから。
私は歩き出す。
鎖骨の下に残る熱が、まだ確かにある。勝利の熱ではない。私が私の名で世界に立つための、静かな証明の熱だ。
胸の奥で、長いあいだ私を縛っていた糸が一本、音もなく切れた。
私はそれを確かめるように息を吐き、前を向いて歩きだした。
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