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3.青天の霹靂
しおりを挟む「おかしいわ」
まだ朝靄の残る中、エルナは一人、窓枠にもたれながらつぶやいた。
「わたくしたち、まだ新婚なのに……夜伽も初夜もなくってよ?!」
誰にも聞かれていないのをいいことに、心の声は駄々洩れだ。
式の夜、熱が出てしまったのはやはり失敗であった。せめて形式的な訪問だけでもしてくださっていれば、もうすこしエルナも落ち着いて次を待てたかもしれない。けれどもである。待てど暮らせど、一度たりとも将軍閣下はエルナのもとに訪れてはくださらない。それどころか。
「手も触れてくださらないなんて……」
エルナはしょんぼりと肩を落とした。それからすぐに首を振った。
そうは言っても、いざ裸一貫で閣下と向き合ったとして、果たして自分は耐えられるのだろうか?実のところ、エルナには自信がなかった。
なにしろ、この前朝の鍛錬をこっそり覗いた折、湯気の立つ半裸を見ただけでいたく興奮して鼻血が出たのだ。血まみれのドレスに、すわ喀血かと思われ大騒ぎになって医者を呼ばれたのは、実に恥ずかしい事件だった。
「慣れておかなくてはいけませんわ、閣下という輝かしい存在に……」
ちら、と窓の外に視線を向ける。薄く夜が明け始めた中庭では、閣下が日課の素振りをしている。上裸で。
「はぁぁ、眼福……至宝……」
ツン、と鼻にこみ上げるものを感じた気がして、エルナは慌てて窓から下がった。ベッドに座り、ふうと息を吐く。今回は惨事にはならずに済んだ。
「前回はやはり、距離が近すぎたのがダメでしたわね……」
あの時は、同じ空気を吸えるほど近かった。木剣が空気を割く音、低く荒い息遣い、微かな汗の香り、力が籠って血管の浮きあがった二の腕……何もかも、刺激が強すぎたのだ。あっという間に血が上って、眩暈がして、エルナは慌ててその場から逃げ出した。そうして喀血騒ぎになってしまったわけだが。
「……未だ訪いが無いのは至極残念ですけれども、かえって幸運だったかもしれませんわ」
また、ちらと窓外をのぞき込みながら、エルナはつぶやいた。何せ、この距離での半裸で、このありさまである。これで何の準備もなく初夜に進んでいたら、喜びと興奮で寝台が血まみれになる、どころか、場合によってはそのまま天に召されていたかもしれなかった。
エルナは、生まれつき体が弱く、しょっちゅう死にかける子供であった。季節が変わるたびに調子を崩し、雨が降れば頭痛が起き、雪が降れば熱が出た。少し走れば息が切れ、動悸が止まず、気を失うことすらあった。
結果として、いつも本ばかり読んで過ごしていたこと、英雄譚を好んだこと、とりわけむくつけき兵士たち……特に筋肉……に執着したこと……などなどがあり、そうしていつしか常勝将軍と呼ばれる無骨な彼に、強く惹かれていた。
ある日、子供に大泣きされて困った顔の将軍が、ぎこちなく頭を撫でて慰めようとしているのを見たのだ。そうして余計に泣かれて、途方に暮れた顔になっていた。それを見たとたん、エルナの胸はギュギューーーーっと強く締め付けられ、止まらなくなってしまった。あの時は、大層難儀した。
それ以来である。将軍の、鍛錬の荒々しい姿とは違う、無骨ながらも穏やかで優しい姿を見かけるたびにエルナの息が荒くなってしまうのは。
翌日、深刻な顔の将軍が実に久々にエルナに話しかけて来た。弾む内心を抑えながらエルナはぎこちなく笑みを浮かべる。
(あぁ、ダメだわ上手く顔が作れない、ニヤついてしまう……)
次の瞬間、将軍の口から『この結婚は無かったことに』と言われたような気がして、エルナは耳を疑った。
「え、……な、無かっ…………?」
ことん、と首を傾げたエルナに、将軍は力強く頷いた。
「ええ、そうです、姫様。どうか、私との結婚を、なかったことに」
「は、……えっ、…………っ?!」
はひゅ、とおかしな息を一つ吸い込んで、そのままエルナは硬直した。そうして、ぐらりと頭が揺れ、足元が柔らかく崩れるような感覚に襲われた。
「姫!」
将軍の、焦った声が近い。丸太のようなものに体が支えられた。同時に、エルナはすうっと目の前が真っ暗になっていくのを感じていた。
「どうされました、姫!」
酷く近くで聞こえる声。背を支えているのが丸太でなく、自分は今将軍閣下の腕の中に抱かれているのだとエルナはようやく気づいた。
「……!!」
どきんと鼓動が跳ね上がる。致命傷であった。
「姫様?!……エルナさま!!」
あ、今閣下が名前呼んでくださった、うれしい……と思ったのを最後に、エルナの意識はぷっつり途切れた。
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