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精神科医である私は、マウスでパソコン画面をスクロールしながら、aのカルテを見返していた。
彼女の最終学歴は大卒。県内のXX大学に入学し、1年間の休学を経て卒業した。
彼女は英文学を専攻していたが、ロシア文学やフランス文学など、他の海外文学に触れることも趣味としていた。
学問に関心があったらしく、大学院への進学を考えていたが、経済的問題と精神的問題により断念。
休学の1年間は治療に専念し、nクリニックへの通院を続ける。主に薬物療法を受けていたが、数ヶ月後にmクリニックへと転院。
その後いくつかクリニックを変えたが、通院頻度はまばらで、本人の意思により通わない日もあった。
復学後は勉学に励み、XX年に卒業。その後、しばらくは就職活動を行わず、生活保護を受けながら生活していた。
大学と連携した就労支援団体により、数ヶ月後に福祉事業所へ入所。1年間通所したが、体調不良を理由に退職した。
そして、彼女が自殺未遂をしたのは、その1週間後だった。
診察のためにカーテンを開けると、彼女はベッドから起き上がり、1冊の文庫本を読んでいた。
「読書がはかどっているようだね」私は黙々と読み続けるaに向かって、そっと話しかける。
彼女は少し身じろぎし、診察を受けなければならないと思っているが、あまり読むのを止めたくないというような仕草を見せた。
「好きな本は見つかったかな」私は診察を始める前に、少し相手の話を聴くことにした。
「いけませんね。診察があるのに」aの顔が少し暗くなったが、彼女はやはり本を閉じるのを躊躇った。
「趣味に熱中するのは、悪いことではないよ。今何の本を読んでいるのか、訊いてもいいかい」
「レ・トランジェ……えっと、『異邦人』です。アルベール・カミュが書いた小説なんですが、先生は知っていますか?」
ほんの一瞬、彼女は目を輝かせたが、間もなく何かを思い出したかのように、やや自信なさげな表情に戻った。
私は顎に手を添え、少し考えた。
「あまり詳しくはないのだけれど、どんな内容だったかな」
「主人公ムルソーが、ただ『太陽が眩しかったから』という理由で、アラブ人に数発の弾を撃ち込む。そんな話です」
「もう5回ほど、読み返しています」aは手元の『異邦人』に目を落としながら、話を進めた。
「読み返す理由はよくわかりませんが……何となく、物語の乾いた空気感が好きなのかもしれません」
aはその本から目を離さず、何処か没入しているような様子だった。
「哲学的な本に興味があるのかな」私は頭の中で思考を重ねながら、彼女に尋ねた。
「そうなのでしょうか」aは遠慮がちに話し、目を逸らしながら答えた。
「周りの人が読むような、恋愛や青春小説はあまり読めたことがなくて……」
「本は自分が好きなものを読む。それでいいんじゃないかな」
私は本を持つ彼女に、そっと微笑みかけた。
「僕も、患者さんの心を理解したいという理由で、色々な本を読んでいるから。
そうは言っても、心を知る場合は、患者さん自身から話を聴くことも大事なのだけれど。
それでも、多くの本は確かな見識を与えてくれるものだと感じているよ」
aは私の言葉に、じっと耳を傾けていた。
彼女はその言葉をじっくりと味わうかのように、口を閉ざし、まっすぐにこちらを見ていた。
「そのカルテには、私が本好きであることも書いてありますか?」
彼女は私を見上げながら、ふと尋ねた。
「もちろん、書いてあるよ」
「『異邦人』が好きで、何度も読み返したことも?」
「君が望むのならば、書くとも」
「それじゃあ、記録してくれませんか」aは本を両手でぎゅっと握りながら、僅かに語気を強めた。
「ずっと大事にしたい本なので」
彼女の最終学歴は大卒。県内のXX大学に入学し、1年間の休学を経て卒業した。
彼女は英文学を専攻していたが、ロシア文学やフランス文学など、他の海外文学に触れることも趣味としていた。
学問に関心があったらしく、大学院への進学を考えていたが、経済的問題と精神的問題により断念。
休学の1年間は治療に専念し、nクリニックへの通院を続ける。主に薬物療法を受けていたが、数ヶ月後にmクリニックへと転院。
その後いくつかクリニックを変えたが、通院頻度はまばらで、本人の意思により通わない日もあった。
復学後は勉学に励み、XX年に卒業。その後、しばらくは就職活動を行わず、生活保護を受けながら生活していた。
大学と連携した就労支援団体により、数ヶ月後に福祉事業所へ入所。1年間通所したが、体調不良を理由に退職した。
そして、彼女が自殺未遂をしたのは、その1週間後だった。
診察のためにカーテンを開けると、彼女はベッドから起き上がり、1冊の文庫本を読んでいた。
「読書がはかどっているようだね」私は黙々と読み続けるaに向かって、そっと話しかける。
彼女は少し身じろぎし、診察を受けなければならないと思っているが、あまり読むのを止めたくないというような仕草を見せた。
「好きな本は見つかったかな」私は診察を始める前に、少し相手の話を聴くことにした。
「いけませんね。診察があるのに」aの顔が少し暗くなったが、彼女はやはり本を閉じるのを躊躇った。
「趣味に熱中するのは、悪いことではないよ。今何の本を読んでいるのか、訊いてもいいかい」
「レ・トランジェ……えっと、『異邦人』です。アルベール・カミュが書いた小説なんですが、先生は知っていますか?」
ほんの一瞬、彼女は目を輝かせたが、間もなく何かを思い出したかのように、やや自信なさげな表情に戻った。
私は顎に手を添え、少し考えた。
「あまり詳しくはないのだけれど、どんな内容だったかな」
「主人公ムルソーが、ただ『太陽が眩しかったから』という理由で、アラブ人に数発の弾を撃ち込む。そんな話です」
「もう5回ほど、読み返しています」aは手元の『異邦人』に目を落としながら、話を進めた。
「読み返す理由はよくわかりませんが……何となく、物語の乾いた空気感が好きなのかもしれません」
aはその本から目を離さず、何処か没入しているような様子だった。
「哲学的な本に興味があるのかな」私は頭の中で思考を重ねながら、彼女に尋ねた。
「そうなのでしょうか」aは遠慮がちに話し、目を逸らしながら答えた。
「周りの人が読むような、恋愛や青春小説はあまり読めたことがなくて……」
「本は自分が好きなものを読む。それでいいんじゃないかな」
私は本を持つ彼女に、そっと微笑みかけた。
「僕も、患者さんの心を理解したいという理由で、色々な本を読んでいるから。
そうは言っても、心を知る場合は、患者さん自身から話を聴くことも大事なのだけれど。
それでも、多くの本は確かな見識を与えてくれるものだと感じているよ」
aは私の言葉に、じっと耳を傾けていた。
彼女はその言葉をじっくりと味わうかのように、口を閉ざし、まっすぐにこちらを見ていた。
「そのカルテには、私が本好きであることも書いてありますか?」
彼女は私を見上げながら、ふと尋ねた。
「もちろん、書いてあるよ」
「『異邦人』が好きで、何度も読み返したことも?」
「君が望むのならば、書くとも」
「それじゃあ、記録してくれませんか」aは本を両手でぎゅっと握りながら、僅かに語気を強めた。
「ずっと大事にしたい本なので」
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