最果てより

九時木

文字の大きさ
2 / 15

2

しおりを挟む
 精神科医である私は、マウスでパソコン画面をスクロールしながら、aのカルテを見返していた。


 彼女の最終学歴は大卒。県内のXX大学に入学し、1年間の休学を経て卒業した。

 彼女は英文学を専攻していたが、ロシア文学やフランス文学など、他の海外文学に触れることも趣味としていた。

 学問に関心があったらしく、大学院への進学を考えていたが、経済的問題と精神的問題により断念。

 休学の1年間は治療に専念し、nクリニックへの通院を続ける。主に薬物療法を受けていたが、数ヶ月後にmクリニックへと転院。

 その後いくつかクリニックを変えたが、通院頻度はまばらで、本人の意思により通わない日もあった。

 復学後は勉学に励み、XX年に卒業。その後、しばらくは就職活動を行わず、生活保護を受けながら生活していた。

 大学と連携した就労支援団体により、数ヶ月後に福祉事業所へ入所。1年間通所したが、体調不良を理由に退職した。

 そして、彼女が自殺未遂をしたのは、その1週間後だった。


 診察のためにカーテンを開けると、彼女はベッドから起き上がり、1冊の文庫本を読んでいた。

 「読書がはかどっているようだね」私は黙々と読み続けるaに向かって、そっと話しかける。

 彼女は少し身じろぎし、診察を受けなければならないと思っているが、あまり読むのを止めたくないというような仕草を見せた。

 「好きな本は見つかったかな」私は診察を始める前に、少し相手の話を聴くことにした。

 「いけませんね。診察があるのに」aの顔が少し暗くなったが、彼女はやはり本を閉じるのを躊躇った。

 「趣味に熱中するのは、悪いことではないよ。今何の本を読んでいるのか、訊いてもいいかい」

 「レ・トランジェ……えっと、『異邦人』です。アルベール・カミュが書いた小説なんですが、先生は知っていますか?」

 ほんの一瞬、彼女は目を輝かせたが、間もなく何かを思い出したかのように、やや自信なさげな表情に戻った。
 
 私は顎に手を添え、少し考えた。


 「あまり詳しくはないのだけれど、どんな内容だったかな」

 「主人公ムルソーが、ただ『太陽が眩しかったから』という理由で、アラブ人に数発の弾を撃ち込む。そんな話です」

 「もう5回ほど、読み返しています」aは手元の『異邦人』に目を落としながら、話を進めた。

 「読み返す理由はよくわかりませんが……何となく、物語の乾いた空気感が好きなのかもしれません」

 aはその本から目を離さず、何処か没入しているような様子だった。

 「哲学的な本に興味があるのかな」私は頭の中で思考を重ねながら、彼女に尋ねた。

 「そうなのでしょうか」aは遠慮がちに話し、目を逸らしながら答えた。

 「周りの人が読むような、恋愛や青春小説はあまり読めたことがなくて……」


 「本は自分が好きなものを読む。それでいいんじゃないかな」

 私は本を持つ彼女に、そっと微笑みかけた。

 「僕も、患者さんの心を理解したいという理由で、色々な本を読んでいるから。

 そうは言っても、心を知る場合は、患者さん自身から話を聴くことも大事なのだけれど。

 それでも、多くの本は確かな見識を与えてくれるものだと感じているよ」

 aは私の言葉に、じっと耳を傾けていた。

 彼女はその言葉をじっくりと味わうかのように、口を閉ざし、まっすぐにこちらを見ていた。

 「そのカルテには、私が本好きであることも書いてありますか?」

 彼女は私を見上げながら、ふと尋ねた。

 「もちろん、書いてあるよ」

 「『異邦人』が好きで、何度も読み返したことも?」

 「君が望むのならば、書くとも」

 「それじゃあ、記録してくれませんか」aは本を両手でぎゅっと握りながら、僅かに語気を強めた。

 「ずっと大事にしたい本なので」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

まなの秘密日記

到冠
大衆娯楽
胸の大きな〇学生の一日を描いた物語です。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

百合短編集

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

『続・聖パラダイス病院』

菊池昭仁
現代文学
『聖パラダイス病院』の続編です。こんな病院なら入院生活も悪くはありません。

処理中です...