最果てより

九時木

文字の大きさ
1 / 15

1

しおりを挟む
 園淵そのぶち国立病院は、B県内唯一の精神疾患を治療する国立病院で、毎年多くの患者を受け入れていた。

 後期研修を終え、30代を迎えた私は、そこでの外来はもちろん、ケースによっては入院患者も担当することがあった。

 私は開放病棟の扉を静かに開け、その日も診察のため、とある患者のもとを訪れていた。


 病棟の大部屋には4人分のベッドがあり、それぞれカーテンによって仕切られている。

 4つのカーテンのうち、3つは開けたままにされており、中には誰もいない。

 ただ1つのカーテンだけが半分ほど閉められており、窓が見える西側のみ控えめに開けられていた。

 一言断りを入れてから、私はそっとカーテンを開け、ベッドから起き上がったその女性に目を向けた。


 「こんにちは、aさん。今日の調子はどうですか」

 目の前にいる女性aは私の挨拶に対し、少し躊躇いながら「いつも通りです」と声小さく答えた。

 aは少し間を置いた後、窓の景色に視線を移し、独り言のように呟いた。

 「今日は天気が良いですね」

 「季節の変わり目で、雨や曇りの日が多かったけれど、ようやく晴れたみたいだね。

 秋になれば、体が冷えてくるだろうから、少しずつ体調にも気をつけた方がいいかもしれないな」

 私はカルテを手にしながら、彼女の様子を伺った。

 aは私と目を合わせず、ただ白衣をじっと眺めていた。
 aは何かを考え込んでいるような、真剣な表情を見せ、再び窓へと視線を逸らした。

 「確かに、外は寒そうですね」

 海沿いで揺れるヤシの木をじっと見つめながら、aは静かに話した。

 「部屋の温度は冷たくないかな」

 「丁度いいです」

 aは私の声かけに短く答え、その瞬間を記憶に深く刻み込むようにして、外の景色を見入っていた。


 1年前、私は初めてaの診察を行った。
 
 23歳であったaは、それまで病院を転々としていたらしく、各クリニックで治療を受けては自らの判断で通院を止めていた。

 最後のクリニックでは、それまでとは違い、主治医に従い通院を続けていた。しかし、その治療は彼女の自殺未遂によって中断された。

 未遂後、主治医はより専門的な治療が必要であると判断したのか、彼女を園淵国立病院に任せた。

 初診での彼女は、重度の抑鬱症状を呈しており、隔離病棟での保護が優先された。

 aはしばらく食欲不振、睡眠障害、強い衝動、自殺願望など、深刻な状態であったが、徐々に回復した。

 1年が経ち、重度の抑鬱から脱した彼女は、閉鎖病棟から開放病棟に移り、24歳を迎えた今もそこで過ごしている。


 「自然は良いですね。見ていて落ち着きます」

 煌めく海を、aはそっと撫でるような目で見つめている。

 私が相手の落ち着いた様子を眺めていると、彼女はこちらを探るようにして、またどこか有無を言わさぬような口調で尋ねた。

 「先生は、自然が好きですか?」


 「僕も好きだよ」と、私は少しだけ微笑みかける。

 彼女が続きを待つようにしてじっと黙ったので、私は言葉を選びながら答えた。
 
 「静かな場所は、心の平穏を与えてくれるからね」

 彼女は私の言葉を受け止め、その内側で真意を深く理解しようとしているようだった。

 aは人の言葉に対して、非常に慎重な姿勢を見せた。
 どんなに短い言葉でも、自身でできる限り想像を膨らませ、その人の裏側を知ろうとするような、そんな深い思慮を備えているようだった。

 「心の平穏ですか」aは答えを確かめるようにして、私の言葉を繰り返す。

 「医師も人間だからね」私は一呼吸置いてから、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 「人間である以上、誰しも悩みは抱えるものだよ」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。 「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…

処理中です...