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「本を読んでいると、時々、いつまでも取っておきたくなるような、そんな一言を見かけることがあるんです」
診察室には、パソコンのタイピング音が鳴り響いている。
私が操作をしている間、彼女は何かを思い出すようにして話し始め、沈黙を破った。
「例えば、ジャン=ジャック・ルソーの『孤独な散歩者の夢想』。
『地上のすべてに対し無感動になってしまった今、いったい何を告白すればいいというのだ』とか。
この一言で、彼がどれだけ絶望していたのか、何となく想像できてしまうような気がするんです。
彼は人々に愛情を抱いていましたが、人々は彼を受け入れず、特に医者や宗教者は彼を爪弾きにしました。
彼には、その無理解がとてつもなく苦しく感じられたそうで。
だから、今後は世間に認められるよう再び努力するよりも、むしろ1人隅で暮らしていた方がずっと楽だと、そう思うようになったんです」
彼女は1つの物語を紡ぐかのような口調で、流れるように話していた。
私がそのまま黙っていると、aはまた何かを思い出したかのように目を見開き、続けた。
「あと、こんな言葉もあります。『考えるということは、必ずしもたいへん健康とは言えない一種の遊戯だ』。
アランの『幸福論』です。彼は、考えているばかりよりも、何か行動していた方が生きがいを感じられると、そう言いました。
家事でも、劇場の鑑賞でも、何でも良いみたいです。とても実践的な理論ですよね」
aは控えめなトーンで話したが、その表情は穏やかで、意気揚々としているようにも見えた。
しかし、ふと我に返ったのか、脇へと目を逸らし、きまり悪そうに振舞った。
「すみません、一方的に話してしまって」
「いいんだよ」私はaの方へ体を向け、微笑を浮かべた。
「本への熱意が、よく伝わってくる」
「……これって、本当に良いことなんでしょうか」彼女は目を伏せ、曇りがかった表情を見せた。
「時々、自分にしか興味がないような話を続けて、相手に気を遣わせてしまうことがあるんです。
話すべきではないとわかっていても、好奇心や期待を抑えることができなくて、一度に多くのことを話しすぎてしまう。
それで、後から振り返って、あんなことは一切言わなければ良かったのにと、自分の行いが馬鹿馬鹿しくなってくるんですよ」
aは突き放すような、やや冷たい口調で話した。
「僕は気にしていないよ」と、私は一言添え、彼女を宥めた。
「ここでは、君の思うように話していいんだ」
私の言葉を聞き、aはしばらく口を閉ざしていた。
そのまましばらく考え込んだ後、彼女は何かを吐き出すかのように語った。
「世界に1人取り残されて、周りには誰もいない。
先生は、何か物思いにふけっている時、こんな風に思ったことはありませんか?
自分が1人だということに気がついて、段々と自分自身が小さく、惨めな存在のように思えてきて、次第には押し潰されてしまいそうになる。
自分の中では、ある強い願望が渦巻いている。だけど、その願いすらも何処か遠くへ消え去ってしまって、手元には儚さしか残らない。
そうして、世界そのものから自分が離れていくような、そんな夢のような感覚に呑まれていく」
「嘘みたいな話かもしれませんが」aは何かを誤魔化すような笑みを浮かべた後、真剣な顔つきに変わった。
「私の中では、よくあることなんです」
「ありふれた言い方かもしれないけれど」私は少しだけ前かがみになり、相手に尋ねた。
「それは寂しいとか、辛いとか、そういった感情の揺れを表しているのかな?」
「わかりません」彼女は自信なさげに俯き、模索するように答えた。
「ただ、頭がぼんやりとして、現実感が薄れていくということだけは何となくわかるのですが……」
aは全てを言い切る前に俯き、黙ってしまった。
私は彼女の様子を観察しながら、慎重に説明した。
「君が持つ感覚は、他の患者さんも経験したことがあると時々聞くよ。医学的にも、珍しい症状ではない。
傾向としては、孤独感やストレスを強く感じている時にそうなりやすい。だけど、すぐに治療が必要かと言えば、そうでもないこともある」
「肝心なのは」私は少し間を置いてから、彼女に話した。
「直ちに対処しなければならないと思うよりも、君がしているように、まずは自分の気持ちをありのままに表現してみることかもしれないね」
私の説明に、aはじっと耳を傾けていた。
彼女の顔のこわばりが少し解れ、安堵しているように見えたが、まだ不安は拭えていないようだった。
「私、また先生に気を遣わせてしまいましたか?」
「そんなことはないよ」私はパソコンで処方の記入をしながら、相手に伝えた。
リボトリールの減量は、本当に今すべきなのか。私の中で、ふとそんな問いが脳裏をよぎった。
「さっきのは僕一個人の考えだと、そう思ってくれればいいから」
診察室には、パソコンのタイピング音が鳴り響いている。
私が操作をしている間、彼女は何かを思い出すようにして話し始め、沈黙を破った。
「例えば、ジャン=ジャック・ルソーの『孤独な散歩者の夢想』。
『地上のすべてに対し無感動になってしまった今、いったい何を告白すればいいというのだ』とか。
この一言で、彼がどれだけ絶望していたのか、何となく想像できてしまうような気がするんです。
彼は人々に愛情を抱いていましたが、人々は彼を受け入れず、特に医者や宗教者は彼を爪弾きにしました。
彼には、その無理解がとてつもなく苦しく感じられたそうで。
だから、今後は世間に認められるよう再び努力するよりも、むしろ1人隅で暮らしていた方がずっと楽だと、そう思うようになったんです」
彼女は1つの物語を紡ぐかのような口調で、流れるように話していた。
私がそのまま黙っていると、aはまた何かを思い出したかのように目を見開き、続けた。
「あと、こんな言葉もあります。『考えるということは、必ずしもたいへん健康とは言えない一種の遊戯だ』。
アランの『幸福論』です。彼は、考えているばかりよりも、何か行動していた方が生きがいを感じられると、そう言いました。
家事でも、劇場の鑑賞でも、何でも良いみたいです。とても実践的な理論ですよね」
aは控えめなトーンで話したが、その表情は穏やかで、意気揚々としているようにも見えた。
しかし、ふと我に返ったのか、脇へと目を逸らし、きまり悪そうに振舞った。
「すみません、一方的に話してしまって」
「いいんだよ」私はaの方へ体を向け、微笑を浮かべた。
「本への熱意が、よく伝わってくる」
「……これって、本当に良いことなんでしょうか」彼女は目を伏せ、曇りがかった表情を見せた。
「時々、自分にしか興味がないような話を続けて、相手に気を遣わせてしまうことがあるんです。
話すべきではないとわかっていても、好奇心や期待を抑えることができなくて、一度に多くのことを話しすぎてしまう。
それで、後から振り返って、あんなことは一切言わなければ良かったのにと、自分の行いが馬鹿馬鹿しくなってくるんですよ」
aは突き放すような、やや冷たい口調で話した。
「僕は気にしていないよ」と、私は一言添え、彼女を宥めた。
「ここでは、君の思うように話していいんだ」
私の言葉を聞き、aはしばらく口を閉ざしていた。
そのまましばらく考え込んだ後、彼女は何かを吐き出すかのように語った。
「世界に1人取り残されて、周りには誰もいない。
先生は、何か物思いにふけっている時、こんな風に思ったことはありませんか?
自分が1人だということに気がついて、段々と自分自身が小さく、惨めな存在のように思えてきて、次第には押し潰されてしまいそうになる。
自分の中では、ある強い願望が渦巻いている。だけど、その願いすらも何処か遠くへ消え去ってしまって、手元には儚さしか残らない。
そうして、世界そのものから自分が離れていくような、そんな夢のような感覚に呑まれていく」
「嘘みたいな話かもしれませんが」aは何かを誤魔化すような笑みを浮かべた後、真剣な顔つきに変わった。
「私の中では、よくあることなんです」
「ありふれた言い方かもしれないけれど」私は少しだけ前かがみになり、相手に尋ねた。
「それは寂しいとか、辛いとか、そういった感情の揺れを表しているのかな?」
「わかりません」彼女は自信なさげに俯き、模索するように答えた。
「ただ、頭がぼんやりとして、現実感が薄れていくということだけは何となくわかるのですが……」
aは全てを言い切る前に俯き、黙ってしまった。
私は彼女の様子を観察しながら、慎重に説明した。
「君が持つ感覚は、他の患者さんも経験したことがあると時々聞くよ。医学的にも、珍しい症状ではない。
傾向としては、孤独感やストレスを強く感じている時にそうなりやすい。だけど、すぐに治療が必要かと言えば、そうでもないこともある」
「肝心なのは」私は少し間を置いてから、彼女に話した。
「直ちに対処しなければならないと思うよりも、君がしているように、まずは自分の気持ちをありのままに表現してみることかもしれないね」
私の説明に、aはじっと耳を傾けていた。
彼女の顔のこわばりが少し解れ、安堵しているように見えたが、まだ不安は拭えていないようだった。
「私、また先生に気を遣わせてしまいましたか?」
「そんなことはないよ」私はパソコンで処方の記入をしながら、相手に伝えた。
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