最果てより

九時木

文字の大きさ
6 / 15

6

しおりを挟む
 その後、私は彼女にどんな話をしたのかよく覚えていない。

 覚えているのは、aが私の猫についての話をじっと聞いていたことだけだった。

 「先生は、猫が好きだったんですね」

 ふと意識が戻った時、私の耳に入ったのはその一言だった。

 目の前の彼女は、にこりと微笑んでいた。感情を込めようと努めているようだったが、何処か形式的でよそよそしくも見える、何とも曖昧な笑みだった。


 別の日、私はaの様子を伺うために病室へと向かっていた。

 開放病棟の広間には、数名の患者が集まっていた。彼らは壁掛けのテレビを見上げ、野球の観戦をしているようだった。
 
 足を組んだり、頬杖をついたり、そんな彼らの何気ない仕草を横目に見ながら、私は廊下を歩いた。

 「先生、おはようございます」と、白髪を団子に束ねた年配の女性患者が、私に声をかける。

 私が挨拶を返すと、患者は目の前でクロールをしてみせ、「泳ぎの練習をしているんですよ」と笑った。

 私は微笑を返し、彼女が廊下の端へゆっくり歩いていくのを見届けた。


 病室の扉を開けると、カーテンが一つだけ閉じたままだった。

 残り3つのカーテンは開けられており、ベッドの上に患者はいない。

 私はいつも通り声をかけてから、閉じたカーテンにそっと触れた。


 「また本を読んでいると、そうお思いですか?」

 目の前で、aが本に目を留めたまま、私に話しかける。

 薄明るい光が窓から差し込め、彼女の顔を柔らかに照らしていた。

 一方の彼女はその光をあまり気に留めていないようで、肌はやや血の気が薄く、まるで陶器で作られているかのように見えた。

 「何の本かな」私は白衣のポケットに手を入れ、少しくつろいでいるように見せた。

 「『セーヌ河の名なし娘』。シュペルヴィエルの短編小説です。

 『セーヌ河の名なし娘』と呼ばれる女性が、河に飛び込み溺死する。彼女は死体のまま海へ運ばれ、同じようにして死んだ仲間たちと海の底で平穏に過ごす。

 でも、彼女は皆の輪に馴染めない。ついに我慢しきれなくなった彼女は、足についていた鉛を断ち切り、底を離れて水上へと浮かび上がる」

 彼女の声には威厳があり、含みがあった。

 「それで?」と私が尋ねると、彼女は少し考えてから答えた。


 「海の底は、死者たちが暮らす永遠の世界です。水上へ行かない限りは、意識が保たれたまま、なんの苦しみもなく幸せでいられる。

 それでも、娘はそこから離れ、意識を絶つことを選びます。永遠に続く時間よりも終わりのある方が楽だと、そう感じていたから。

 結局、自分の死体が地上の人間に見つかり、調査のために解剖されることを受け入れた。それが彼女の答えです」

 彼女の顔つきは真剣で、隙がなかった。

 海、死、意識。私はその物語から飛び交った様々な言葉を拾い、彼女に言った。

 「……どうしてその本を?」

 私の疑問に、彼女は口をぴたりと閉じた。

 aは口を固く閉じたまま、私のつま先から頭まで、精密検査にでもかけるかのようにくまなく観察した。

 そうして、彼女はしばらく私をじっと見つめていた。しかしその後、それまでの張りつめていた空気を解くかのように、彼女が笑いかけた。

 「先生、もしあなたが私の精神状態について心配しているのなら、その必要はありません。

 私はと同じようなことは、もうしないつもりですから」


 エアコンが室内の空気をかき混ぜ、じりじりと換気音を響かせる。

 私が誰もいない3つのベッドを見渡していると、aがぽつりと呟いた。


 「周りが呆れるほど読書にふけりすぎていることは、自覚しています。

 先生はきっと、私が他の患者さんたちと全く関わろうとしないことに、少し違和感があるのかもしれません。
  
 その人のペースがあるとは言えど、今後の暮らしを考えれば、少しでも社会性を身につけておいた方が良いのではないか。

 先生は善い人だから、そう思うのでしょう。でも、私は自分を急かせば急かすほど、何故だか足取りが重く、ぎこちなくなってしまうんです」

 aは私に問いかけているようで、そうでないようにも見えた。
 
 彼女はたった1人の空間で、自分自身の声だけが反響するその場所で、ひたすら内向きの思考を重ねているようだった。


 「おかしなことを打ち明けてしまいますが、私は人と話している時、相手と話をしているという実感があまり湧きません。

 その人が話す言葉が、どこかで既に耳にしたように感じられて仕方ない。

 今日は恋人と出かけに行った、遊園地のアトラクションやショッピングを楽しんだ。

 家族とのんびり家で過ごしていた。公園に行ってピクニックをした、一日中ゲームをしていた。

 起業セミナーで詐欺に遭って、何十万円もお金をつぎ込んでしまった。

 仕事を始めたけど、労働時間が長すぎて辞めたい。上司との相性が悪くて辛い、後輩を指導するのが大変で、全ての責任を背負いきれない。

 そういった諸々の体験談には、その人にしかわからないような幸せや悩みがある。だから、簡単に一般化できるものではない。

 そのことについては、充分に考慮しなければならないと理解しています。

 それでも時々、そんな人々の話から目を逸らしてしまいたくなることが、私にはあるんです」


 aは社交辞令を述べるかのような平坦さで、次に何かを振り絞るかのような切実さで、話した。

 彼女の中で、実に多くの感情が渦巻いているようだった。

 私はカルテを手に取ったが、その手を下ろした。彼女を邪魔するまいと黙り、静かに見守ることにした。


 「人々にとって、周りとはどのような存在なのでしょう?」彼女が本を伏せ、前髪をくしゃりと掻きむしった。

 「日常生活について話せる、気さくな相手。人間関係の悩みについて打ち明けられる、良き相談相手。

 互いの個性を認め、思い出を分かち合える、そんなかけがえのない存在なのかもしれません。

 反対に、どうしても受け入れられない人、自分とは噛み合わない人、生涯に渡って許せない人もいるのでしょう。

 でも先生、おかしいですよね。人間関係にはそんな風にして多少の強弱があるはずなのに、家族も友人も赤の他人も、私には全て同じ人間に映ってしまうんです。

 遠く遠く離れた、無名で霧のように薄い、そんなぼんやりとした存在にしか捉えられない。

 薄情で、淡白な人間ですよね。でもこのことを家族や友人に打ち明けてしまえば、私は誰からも距離を置かれてしまう。

 だから、人前では黙って、さも周囲の言葉に耳を傾けているかのような姿勢を作って、できるだけ穏やかに微笑んでいる」


 彼女は自身の欺きを暴くような鋭い口調で、しかし何処か悲しげな顔で語っていた。
 
 外では雨がぽつぽつと屋根を打ち、湿り気のある空気を運び込もうとしていた。

 海辺に並ぶヤシの葉が次々と揺れ、少しばかり勢いの激しい波が陸に打ち寄せ始める。

 廊下では、開放病棟の患者がスリッパを床に滑らせ、その音を私たちの静まり返った病室にも響かせていた。


 「……馬鹿みたいですよね。自分で話をして、自分で話を終わらせようとする。

 何一つ行動していないのに、何もかも経験して知ったような気になる。

 きっと、本の読みすぎです。読みすぎなんですよ、ほんとうに」

 彼女の声は小さく震え、段々と途切れ途切れになっていった。

 彼女は俯いていたが、その影がかった顔から、僅かに涙ぐんだ目が見えた。

 彼女はその様子を悟られまいと、狭まった喉から音を振り絞り、必死に言葉を紡いでいるようだった。


 「どんな人間にも、息継ぎは必要なものだよ」私は伏せられた本に目を落とし、静かに言う。

 「君の場合、それを叶えてくれるのが本だったのかもしれない。

 もし読書で虚しさを覚えるのなら、無理に本にすがらなくていいし、反対に無理に手放さなくてもいい。

 人間関係だって、きっと同じことだ。誰かにはとても頼りになるが、別の誰かには押し付けのようにも感じられる。

 どの塩梅も、確かに難しい。近づいては離れの繰り返しだったり、どちらか一方に傾いてくじけることもよくある。

 だけど、何も焦ることはないし、一人で抱え込む必要もない。他人の言葉を信じるのは難しいかもしれないが、僕は君の人間関係について、何も咎めるつもりはないよ。

 僕は、君が本当に納得できる方法を一緒に模索する。そして、いつか君が君自身を赦せる日が来るように支えていく。

 その思いは、君がここへやって来た1年前から、ずっと変わっていないんだ」


 私はaを宥めるように、また自分自身の言葉を確かめるように、ゆっくりと話した。

 真っ白な布団に、彼女の小さな涙が落ちていく。音もなく布団に染み込み、本の表紙にもぽつりと粒が乗る。

 彼女は顔を上げなかった。視線を落とし、自身の影に埋もれた本を見つめながら、ただ涙を流していた。

 日が昇りつつあったが、その光は雲に遮られていた。薄暗がりの部屋で、私は彼女の涙が布団を湿らせるのをいつまでも眺めていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

まなの秘密日記

到冠
大衆娯楽
胸の大きな〇学生の一日を描いた物語です。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

百合短編集

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...