【完結】照葉輝く~静物語

みなわなみ

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第一部

第五章 蝉時雨ざわめく 其の一

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 水無月も末になった。今月望日もちのひ山王さんのう祭に刺激されたのか、あれから蝉が一斉に鳴き始め、蒸し暑さを増幅させる。
 小高い位置にあり、木々が賑わう庭からの風が楽しめる城奥だが、ここ二日ほどは風もパタリと止んでいた。

「今日も暑うなりそうじゃのう。」
 羅紗うすものの小袖に打ち掛けを腰巻きに着ている江が、手巾しゅきんで汗を押さえた。
「さようでございますね。」
 自分も汗を拭きつつ、あるじに優美な南都の団扇うちわで風を送り、民部卿が相槌を打つ。
「せめて風があればの。」
「はい。風があれば涼しいのですが、昼間に打ち水をしても蒸すばかりにて。」
「そうじゃな。」
 すだれの脇から見える、青々しく光をはじいて繁る木々に、江は溜め息をついた。その溜め息も、蝉の鳴き声にかき消される。
「松は健やかであったな。」
 つい先刻、乳母がご機嫌伺いに連れてきた松姫を思い出し、江がにっこりと笑みを浮かべた。
 この暑さに負けているのではないかと思っていたが、ちい姫は存外すこやかで、なにかを見つけては、めざとく這い回り、大人たちを笑顔で慌てさせた。
「はい。あせもに少々グズられるときもあるようですが、お乳もたんと召し上がり、時々のかゆの上澄みは、大層ご機嫌よくお召し上がりとか。」
 民部卿が、松姫の乳母から聞いた話を報告する。
「ふふ、そうか。誰に似たかの。」
「ほんに。」
 御台所と共に、ふんわりと笑った民部卿の顔が、すぐに憂いを含む。
「それよりも竹千代わか様の食が細うなっているとか。」
「竹千代の?」
 江の細い眉が片方、わずかに動いた。
「はい。御膳部の御次おつぎがそう申しておりました。お残しするものが多い、と。」
「福は何をいたしておるのじゃ。」
 心配そうな民部卿の報告に、御台所の顔は打って変わっていらつき、苛ついた言葉を吐く。民部卿が困り切った渋い表情で答えた。
「福殿もいろいろと工夫を考え、御膳部へ申し渡すようですが、なかなかうまくいかぬ……御台様?」
 民部卿の話の途中で江が不意に立ち上がった。
「竹千代のもとへ参る。」
 言うが早いか、着物の裾をひるがえし、江は部屋から出ようとしていた。民部卿が慌てて後を追う。

 回廊の板からも太陽が照る中、江は竹千代の部屋へと進んだ。
 御台所が滑るようにぐんぐん近づいてくるのを見て、竹千代一の若君付きの侍女が色めく。すぐに福が飛んできて、江が通ろうとする廊下に平伏した。
「お待ちくださいませ、御台様。若様は少々ご気分がすぐれず……」
「ならば見舞って私がる。私はもう子を産まぬゆえよかろう。」
 福を見下ろし、皮肉を込めて冷たく江は言い放つ。
 今まで我が子竹千代を看病しようとするたびに『おかた様はお子様をお上げになるお体ゆえ、お大事になさいませぬと。』と福に止められたのが、江の心のどこかをささくれ立てていた。
「いえ、ご看病いただくほどではありませぬ。」
 顔を上げた福が、目を見開いて御台所を見つめ、キリッと挑む。
「竹千代の食が細うなっていると聞いたぞ! 福! そなたはなにをしておるのじゃ!」
 事実を突かれた福は言い返すこともできず、頭を下げて黙っていた。
 竹千代が母のとげだった声に耳を塞いだことなど、江の知る由ではない。
 部屋から出てきた竹千代が福の元に駆け寄り、かばうように幼い手を添えた。
「竹千代……」
 その姿にやや呆然としながらも江は膝まづき、優しい声で息子に尋ねる。
「竹千代、そなたがお膳に手をつけぬと聞きました。大事ないのか?」
 座したままの福に身を半分隠して、竹千代はこっくり頷いた。
「蒸すゆえな……」
 じんわりと汗をかき、どこか力無さげな竹千代を見て、江は眉をひそめる。
 蝉の声だけが、押し寄せる波のように遠慮なく響いていた。

「そうじゃ、竹千代、海に参ろう。」
 江が胸の前で軽く手を合わせ、にこやかに我が子を誘った。
 竹千代は福の後ろで、どうしようとばかりに首を傾げる。ただ、内心では(母上と海……)と喜んでいた。
「なりませぬ。若様は御気分がすぐれませぬのに。」
 きつい声で福が逆らう。
「そのようなことゆえ、竹千代がひ弱になるのじゃ。」
 江は呆れながら、負けずにきつい声で福を批判した。
「いつも見ておる乳母めのとゆえ案ずるのです。それに、本日は手習いもございますし、論語のご進講をお受けになる日にございます。」
 福は、竹千代が自分の後ろに隠れていると思い、その小さなあるじのことは己が一番よく知っているという自負から、御台所の提案に一歩も引かなかった。
「竹千代はまだ五つぞっ! しかも気分がすぐれぬのに学問をさせるのかっ。そのように部屋おくで学ばせてばかりゆえ気が滅入るのじゃ。外へ出て遊べば、自ずと腹も減ろう。」
 江は苛々イライラした声を、情け容赦なく福にぶつける。竹千代は福の後ろで、自分が叱られているように、ただ目を伏せていた。

 竹千代は、年上の三十郎たちの真似をして学べば、福が喜び、「上様や大御所さまが驚かれますよ」と笑顔で褒めてくれる。その言葉が嬉しかった。そして、(母上も喜んでくれるはず)と学問に励んでいたのだ。

 心弱そうな竹千代に気づいた民部卿が、間を取りなして、のんびりと口を挟む。
「まぁまぁ御台様。確かに御気分がすぐれぬのを御無理にお連れあそばして、なにかあっては一大事。若様のお健やかな姿も見られたことですし、今日はこれにて失礼し、明日みょうにちの夕にでも、皆で海に参るというのはいかがでしょう。」
「そうじゃ! そうじゃな。皆でまいろう。」
 大きくうなづいた江が浮かれた口調でポンと手を叩く。
「御台様、そのように急に……」
 なんとか阻止したい福が口を挟む。
「今からというわけではない。明夕みょうゆうじゃ。それでも支度ができぬのか?」
 竹千代の様子を見て、江も口だけは、やんわりと福に尋ねる。
「……いえ……」
 をおいた福も、御台所を強く見返して、口だけはしおらしく返事をした。
 ここで「できぬ」といえば、福は自分が乳母として無能だと、自ら宣言するようなものである。
「よろしく頼むぞ。」
 江はやや勝ち誇ったような笑みで、福に命令した。
「竹千代、三十郎たちも連れてくるがよい。それゆえ、今日はたんと食べて、ゆっくり休むのじゃ。 な?」
 竹千代に微笑み、江は優しく言う。
 母の柔らかな微笑みに竹千代も笑顔を返したかったが、(…国松も一緒かな…)と思い、さらに目を伏せた。
「よいな、竹千代。」
 福の目前ににじり寄った江が目に入り、竹千代は上目遣いに母を見た。
「今日はたんとたべるのじゃぞ。明日じゃ。楽しみにしておるぞ。」
 江は心を尽くして竹千代に語りかける。手を伸ばして撫でてやりたいが、竹千代の身は福の後ろに隠れたままであった。




*****
【望の日】15日
【御次】取り次ぎ女中
【三十郎】竹千代の傅役もりやくの少年。のちの松平信綱まつだいらのぶつな

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