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第四部
第二十四章 雫、大流となる 其の三
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◆◇◆
今日もどんよりとしたした雲が空を覆い、時々、雷が遠くに聞こえている。
その空に負けないほど苦い顔をした将軍の顔であった。
「いかがなされましたか?」
昼時、奥に戻ってきた秀忠に、江は自ら扇子でゆっくりと風を送る。
「城下で痢病が流行ってきておる。奥は大事ないか。」
「はい。」
秀忠の報告に、江は目を見開いて一瞬手を止めたが、再び扇子を動かす。
「大勢死んでおるようじゃ。」
秀忠は汗ばんだ額に端正な手を置き、苦しそうな溜め息をつく。
「充分に気を付けよ。特に子らには目を配れ。」
「はい。そのようにいたしまする。」
悔しそうな秀忠の恐ろしい知らせに、江の白い顔がますます白くなる。それでも、御台所らしく気丈に返事をした。
「あなたさま、お見廻りは。」
子供たちも心配であるが、秀忠が何より心配である。
「このところ控えておる。気にはなっておるが……」
将軍が天を仰いだ。
「ご無理はなりませぬ。」
「ああ。城に病を持ち込んではことだからな。」
心配げな瞳を向ける妻に、秀忠は頷く。
将軍は太ももをパンと叩くと、政務に戻るために立ち上がった。
痢病の話は、すぐさま奥の隅々にまで届けられた。
ずいぶんよくなったとはいえ、起きているときは脇息に寄りかかっている大姥局の元にもその報せは届けられた。
局の中に緊迫感が走る。由良が大姥局に代わり注意を促した。
「存じておるものもいると思うが、城下にて痢病が流行っているようじゃ。お体をくずしておられる旦那様がかかると大変じゃ。くれぐれも気を付けよ。」
「はいっ。」
部屋子達が引き締まった顔で返事をした。
「風疫のときのように、なるべく出歩くのは差し控えよ。」
「はい。」
皆、神妙な顔で返事をし、お互いに頷きあった。
江は医師と相談し、少しでも晴れたときには風を通すようになど、細々とした指示を直ぐに出した。
子供たちにも気配りをしながら、わずかでも日光浴をさせたり、細心の注意を払っている。ただ、竹千代の姿がほとんど見えないのが、気がかりとなっていた。
蝉時雨と雨の音が交互に訪れる日が続く。
今日も雲がかかり、蝉が雷のご機嫌を伺うように気を使って鳴いていた。
「痢病に気を付けるように」と言われて、五日ばかりが過ぎている。
縹色の着物の侍女が、神妙な顔で江の居間へセカセカと進んできた。
「民部様。」
入口に座し、礼をして民部卿を呼ぶ。
「なんじゃ?」
民部卿はいつものように微笑みながらゆっくり近づき、座した。
侍女が小声で民部卿に報告する。江からは乳母の後ろ姿とうつむいて報告する侍女が見えていた。
しかし、民部卿の顔が見えていたら、江はすぐに「なにごとじゃ」と飛んでいっただろう。
いつも穏やかな民部卿の顔からは血の気が引き、目を大きく見開いている。
「まことか。」
ジッと侍女を見つめ、民部卿は小さな声で重々しく訊いた。
「はい。」
侍女が真剣な目で、軽く頷く。民部卿がゆっくりと目を閉じ、そして開いた。
「わかった。福殿によろしゅうお伝えせよ。」
「はい。失礼いたしまする。」
侍女はほっとした様子で、回廊を去っていく。
「雨が落ちてきそうにございまする。」
独り言のように言って、民部卿は庭を見つめ、何度か無理に笑い顔を作った。
民部卿が奇妙な微笑みを浮かべ、江の元へと戻る。
「降って参ったか?」
「まだのようにございます。」
「竹千代の侍女ではなかったか?」
「あ、はい。いくばくかの報せに。」
江の後ろに散らばっている文を重ねながら、民部卿は笑顔を作った。
「何故、福が来ぬ。」
「まぁ、いろいろございまして。」
苛立って筆を置いた主人に、民部卿は文をとんとんと整えながら、やんわりと返す。
「なにがあったのじゃ。」
「まぁ、いろいろと……」
なおも追求する江に、乳母は困ったような笑顔で、文箱に文をなおした。
「…竹千代になんぞあったのか?」
江が嫌な予感に襲われ、民部卿を静かに問いただす。が、乳母からの返事はなかった。
「民部っ!」
江の一声に、民部卿が丸い体を縮める。
「なにがあったのじゃ! 報せよ!」
「…お熱を出したとのことにございます。」
民部卿が眉をひそめた渋い顔を見せ、御台所の前に座り直すと、観念したように一言報告した。
「熱?竹千代が?悪いのか?」
「少々、高いよしにて。」
目がうろうろと動く江に、民部卿は聞いた内容を短く伝えた。 と同時に、立ち上がる。
ほぼ同時に立ち上がった江の先回りをして、部屋の出口に座り込んだ。
「なりませぬ。御台様。」
「そこを退け。竹千代の看病に参る。」
「なりませぬ!」
「退けと言うに!」
「退きませぬっ!!」
江の激しくなる言い様に、きりっとした顔で乳母は両手をあげて壁を作った。
「民部っ。痢病であったらなんとするのじゃっ!」
「なればこそでございまするっ。他の方…、松姫様にうつったら、取り返しがつかぬやもしれませぬぞっ!」
江が眉間に皺を寄せ、唇を噛み締める。民部卿は手を一杯に拡げ、江を諭す。
真っ黒な雲から、大粒の雨が落ちてきた。
民部卿が手を前につき、江を見あげた。
「ちい姫様だけではありませぬ。国松様、勝姫様、みなお健やかにお育てするのが御台様のお役目。」
「竹千代とて、我が子じゃ!」
江は乳母の前で小さく地団駄を踏む。
民部卿がキッときつく江を見た。
「御台様を探して、松姫様や国松様が竹千代様の部屋へ近づかれたらいかがいたしまするっ! 御台様にうつらずとも、他のお子さまがたにうつしてしまうやもしれませぬぞっ!!」
民部卿は初めて大きな声で江を叱りつけた。
秀忠が江に「子を無事に育てよ。特に松には気を配れ」と言っていたのを、民部卿も聞いている。江にその約束を果たさせるために、乳母は必死になっていた。
江は江で、秀忠から聞いた「市姫の死」を思い出し、不安に駆られていた。
「竹千代…」
茫然と江は雨に煙る回廊を見つめるばかりだった。
「なにを騒いでおる。」
誰かが騒ぎを報告したのか、秀忠が苦虫を噛み潰したような顔で現れた。
「あなたさま。竹千代の、竹千代の看病に行かせてくださいませ。」
秀忠の肩衣にしがみつき、江は嘆願する。
「なにがあった。」
眉をひそめた秀忠が、低い声で訊く。
「竹千代様が先ほどからお熱が高いよしにて。」
平伏した民部卿が、そのままの姿勢で答えた。
「竹千代が? 疫痢か。」
「いえ、まだそこは、しかと分かりかねるとのことです。」
「そうか。」
一瞬こわばった秀忠の顔が、ウンウンと小さく頷きながら少し緩んだ。
「あなたさま、竹千代を看病させてくださいませ。風疫の折りは、あの子を見てやれませなんだ。」
江の肩衣を掴む手に力が入る。
「ならぬ。しばらく福に任せよ。痢病であれば大変なことになる。」
秀忠は、江の気持ちが痛いほどよくわかった。しかし、だからこそ、妻の肩に手を置き、静かに言い聞かせた。
「竹千代を見捨てるのでございますか?」
江の大きな瞳が、うろうろと泳ぐ。
「そうではない。福に任せればよいのじゃ。」
溜め息を堪え、秀忠は眉頭に皺を寄せた。
「嫌にございまするっ。私は母にござりまするっ! 私にも看病させてくださいませっ! …竹千代っ!!」
子供のように頭を振り、江が叫んだ。
駆け出そうとするのを秀忠ががっちり掴む。
「そなたは御台所であろうっ!しっかりせぬかっ!!」
一喝する秀忠の声に、江の動きが止まった。
江の瞳が怯えたように秀忠を見つめている。
「そなたは奥の要ぞ。今まで以上に心して差配せよ。」
秀忠は江の辛さを思いやりながらも、静かに江へ命を出した。
「……竹千代は治る。竹千代を信じよ。よいな。」
妻を抱き寄せ、大きな手で背中をとんとんと叩いた秀忠が、己にも言い聞かせた。
「民部。」
江が少し落ち着いたのを見計らって、秀忠が民部卿に声をかけた。
「は、はい。御台様、ささ、奥へ。まだ痢病と決まったわけではありませぬ。あとで様子を聞かせに参りますゆえ。」
「……竹千代…竹千代ぉ…」
民部卿に手を引かれた江は、涙混じりの声で息子の名を繰り返し呟いた。
雨足が強くなった中、遠くの雷の音がする。
庭の草木が篠つく雨に叩かれ、うなだれていた。
◇◇
(母上が泣いておられる……母上)
遠く離れた部屋で、赤い顔をした竹千代が、苦しそうに首を振る。
心配そうな福が、竹千代の額の上の手拭いを頻繁に換えていた。
「竹千代さま。」
福は苦しそうな竹千代に、一生懸命呼び掛ける。そして、竹千代の汗を拭き、また手拭いを冷やす。
(母上、泣かないでくださりませ。竹千代がお守りいたしまする。)
竹千代は熱にうかされながら、母の夢を見ていた。
◆◇
翌日には竹千代の熱も下がり、痢病ではなく、風邪と判明した。
江はじめ、皆がホッと一息をつくなか、福だけが弱っている竹千代に必要以上の心配をしていた。
江は竹千代の看病に行きたかったが、すでにあちこちを歩き回る松姫を持ち出されると、二の足を踏んだ。
福は御台様が若君を見舞いに来ないのを、憤りながら、どこかで安堵している。
江の思いを酌み、大姥局は「御台様の命で」と見舞いに冷やし甘酒を届けた。
それが功を奏したのか、竹千代自身に少年らしく体力がついていたためか、江が看病する間もなく、若君はほどなく回復した。
竹千代の短期間での回復は、喜ばしい。しかし、江には、また看病ができなかったという負い目が残った。
この伝染病騒ぎの後は、子供たちもほぼ部屋で過ごすようになった。
江は子供たちの様子を細かに聞きながら差配をし、静は大姥局の身を案じながらその元で一心に働いていた。
*****
【縹色】 薄い藍色。露草の花の青くらいの色
【篠つく雨】 篠竹が降ってくるように見える雨。ざざ降りの雨
今日もどんよりとしたした雲が空を覆い、時々、雷が遠くに聞こえている。
その空に負けないほど苦い顔をした将軍の顔であった。
「いかがなされましたか?」
昼時、奥に戻ってきた秀忠に、江は自ら扇子でゆっくりと風を送る。
「城下で痢病が流行ってきておる。奥は大事ないか。」
「はい。」
秀忠の報告に、江は目を見開いて一瞬手を止めたが、再び扇子を動かす。
「大勢死んでおるようじゃ。」
秀忠は汗ばんだ額に端正な手を置き、苦しそうな溜め息をつく。
「充分に気を付けよ。特に子らには目を配れ。」
「はい。そのようにいたしまする。」
悔しそうな秀忠の恐ろしい知らせに、江の白い顔がますます白くなる。それでも、御台所らしく気丈に返事をした。
「あなたさま、お見廻りは。」
子供たちも心配であるが、秀忠が何より心配である。
「このところ控えておる。気にはなっておるが……」
将軍が天を仰いだ。
「ご無理はなりませぬ。」
「ああ。城に病を持ち込んではことだからな。」
心配げな瞳を向ける妻に、秀忠は頷く。
将軍は太ももをパンと叩くと、政務に戻るために立ち上がった。
痢病の話は、すぐさま奥の隅々にまで届けられた。
ずいぶんよくなったとはいえ、起きているときは脇息に寄りかかっている大姥局の元にもその報せは届けられた。
局の中に緊迫感が走る。由良が大姥局に代わり注意を促した。
「存じておるものもいると思うが、城下にて痢病が流行っているようじゃ。お体をくずしておられる旦那様がかかると大変じゃ。くれぐれも気を付けよ。」
「はいっ。」
部屋子達が引き締まった顔で返事をした。
「風疫のときのように、なるべく出歩くのは差し控えよ。」
「はい。」
皆、神妙な顔で返事をし、お互いに頷きあった。
江は医師と相談し、少しでも晴れたときには風を通すようになど、細々とした指示を直ぐに出した。
子供たちにも気配りをしながら、わずかでも日光浴をさせたり、細心の注意を払っている。ただ、竹千代の姿がほとんど見えないのが、気がかりとなっていた。
蝉時雨と雨の音が交互に訪れる日が続く。
今日も雲がかかり、蝉が雷のご機嫌を伺うように気を使って鳴いていた。
「痢病に気を付けるように」と言われて、五日ばかりが過ぎている。
縹色の着物の侍女が、神妙な顔で江の居間へセカセカと進んできた。
「民部様。」
入口に座し、礼をして民部卿を呼ぶ。
「なんじゃ?」
民部卿はいつものように微笑みながらゆっくり近づき、座した。
侍女が小声で民部卿に報告する。江からは乳母の後ろ姿とうつむいて報告する侍女が見えていた。
しかし、民部卿の顔が見えていたら、江はすぐに「なにごとじゃ」と飛んでいっただろう。
いつも穏やかな民部卿の顔からは血の気が引き、目を大きく見開いている。
「まことか。」
ジッと侍女を見つめ、民部卿は小さな声で重々しく訊いた。
「はい。」
侍女が真剣な目で、軽く頷く。民部卿がゆっくりと目を閉じ、そして開いた。
「わかった。福殿によろしゅうお伝えせよ。」
「はい。失礼いたしまする。」
侍女はほっとした様子で、回廊を去っていく。
「雨が落ちてきそうにございまする。」
独り言のように言って、民部卿は庭を見つめ、何度か無理に笑い顔を作った。
民部卿が奇妙な微笑みを浮かべ、江の元へと戻る。
「降って参ったか?」
「まだのようにございます。」
「竹千代の侍女ではなかったか?」
「あ、はい。いくばくかの報せに。」
江の後ろに散らばっている文を重ねながら、民部卿は笑顔を作った。
「何故、福が来ぬ。」
「まぁ、いろいろございまして。」
苛立って筆を置いた主人に、民部卿は文をとんとんと整えながら、やんわりと返す。
「なにがあったのじゃ。」
「まぁ、いろいろと……」
なおも追求する江に、乳母は困ったような笑顔で、文箱に文をなおした。
「…竹千代になんぞあったのか?」
江が嫌な予感に襲われ、民部卿を静かに問いただす。が、乳母からの返事はなかった。
「民部っ!」
江の一声に、民部卿が丸い体を縮める。
「なにがあったのじゃ! 報せよ!」
「…お熱を出したとのことにございます。」
民部卿が眉をひそめた渋い顔を見せ、御台所の前に座り直すと、観念したように一言報告した。
「熱?竹千代が?悪いのか?」
「少々、高いよしにて。」
目がうろうろと動く江に、民部卿は聞いた内容を短く伝えた。 と同時に、立ち上がる。
ほぼ同時に立ち上がった江の先回りをして、部屋の出口に座り込んだ。
「なりませぬ。御台様。」
「そこを退け。竹千代の看病に参る。」
「なりませぬ!」
「退けと言うに!」
「退きませぬっ!!」
江の激しくなる言い様に、きりっとした顔で乳母は両手をあげて壁を作った。
「民部っ。痢病であったらなんとするのじゃっ!」
「なればこそでございまするっ。他の方…、松姫様にうつったら、取り返しがつかぬやもしれませぬぞっ!」
江が眉間に皺を寄せ、唇を噛み締める。民部卿は手を一杯に拡げ、江を諭す。
真っ黒な雲から、大粒の雨が落ちてきた。
民部卿が手を前につき、江を見あげた。
「ちい姫様だけではありませぬ。国松様、勝姫様、みなお健やかにお育てするのが御台様のお役目。」
「竹千代とて、我が子じゃ!」
江は乳母の前で小さく地団駄を踏む。
民部卿がキッときつく江を見た。
「御台様を探して、松姫様や国松様が竹千代様の部屋へ近づかれたらいかがいたしまするっ! 御台様にうつらずとも、他のお子さまがたにうつしてしまうやもしれませぬぞっ!!」
民部卿は初めて大きな声で江を叱りつけた。
秀忠が江に「子を無事に育てよ。特に松には気を配れ」と言っていたのを、民部卿も聞いている。江にその約束を果たさせるために、乳母は必死になっていた。
江は江で、秀忠から聞いた「市姫の死」を思い出し、不安に駆られていた。
「竹千代…」
茫然と江は雨に煙る回廊を見つめるばかりだった。
「なにを騒いでおる。」
誰かが騒ぎを報告したのか、秀忠が苦虫を噛み潰したような顔で現れた。
「あなたさま。竹千代の、竹千代の看病に行かせてくださいませ。」
秀忠の肩衣にしがみつき、江は嘆願する。
「なにがあった。」
眉をひそめた秀忠が、低い声で訊く。
「竹千代様が先ほどからお熱が高いよしにて。」
平伏した民部卿が、そのままの姿勢で答えた。
「竹千代が? 疫痢か。」
「いえ、まだそこは、しかと分かりかねるとのことです。」
「そうか。」
一瞬こわばった秀忠の顔が、ウンウンと小さく頷きながら少し緩んだ。
「あなたさま、竹千代を看病させてくださいませ。風疫の折りは、あの子を見てやれませなんだ。」
江の肩衣を掴む手に力が入る。
「ならぬ。しばらく福に任せよ。痢病であれば大変なことになる。」
秀忠は、江の気持ちが痛いほどよくわかった。しかし、だからこそ、妻の肩に手を置き、静かに言い聞かせた。
「竹千代を見捨てるのでございますか?」
江の大きな瞳が、うろうろと泳ぐ。
「そうではない。福に任せればよいのじゃ。」
溜め息を堪え、秀忠は眉頭に皺を寄せた。
「嫌にございまするっ。私は母にござりまするっ! 私にも看病させてくださいませっ! …竹千代っ!!」
子供のように頭を振り、江が叫んだ。
駆け出そうとするのを秀忠ががっちり掴む。
「そなたは御台所であろうっ!しっかりせぬかっ!!」
一喝する秀忠の声に、江の動きが止まった。
江の瞳が怯えたように秀忠を見つめている。
「そなたは奥の要ぞ。今まで以上に心して差配せよ。」
秀忠は江の辛さを思いやりながらも、静かに江へ命を出した。
「……竹千代は治る。竹千代を信じよ。よいな。」
妻を抱き寄せ、大きな手で背中をとんとんと叩いた秀忠が、己にも言い聞かせた。
「民部。」
江が少し落ち着いたのを見計らって、秀忠が民部卿に声をかけた。
「は、はい。御台様、ささ、奥へ。まだ痢病と決まったわけではありませぬ。あとで様子を聞かせに参りますゆえ。」
「……竹千代…竹千代ぉ…」
民部卿に手を引かれた江は、涙混じりの声で息子の名を繰り返し呟いた。
雨足が強くなった中、遠くの雷の音がする。
庭の草木が篠つく雨に叩かれ、うなだれていた。
◇◇
(母上が泣いておられる……母上)
遠く離れた部屋で、赤い顔をした竹千代が、苦しそうに首を振る。
心配そうな福が、竹千代の額の上の手拭いを頻繁に換えていた。
「竹千代さま。」
福は苦しそうな竹千代に、一生懸命呼び掛ける。そして、竹千代の汗を拭き、また手拭いを冷やす。
(母上、泣かないでくださりませ。竹千代がお守りいたしまする。)
竹千代は熱にうかされながら、母の夢を見ていた。
◆◇
翌日には竹千代の熱も下がり、痢病ではなく、風邪と判明した。
江はじめ、皆がホッと一息をつくなか、福だけが弱っている竹千代に必要以上の心配をしていた。
江は竹千代の看病に行きたかったが、すでにあちこちを歩き回る松姫を持ち出されると、二の足を踏んだ。
福は御台様が若君を見舞いに来ないのを、憤りながら、どこかで安堵している。
江の思いを酌み、大姥局は「御台様の命で」と見舞いに冷やし甘酒を届けた。
それが功を奏したのか、竹千代自身に少年らしく体力がついていたためか、江が看病する間もなく、若君はほどなく回復した。
竹千代の短期間での回復は、喜ばしい。しかし、江には、また看病ができなかったという負い目が残った。
この伝染病騒ぎの後は、子供たちもほぼ部屋で過ごすようになった。
江は子供たちの様子を細かに聞きながら差配をし、静は大姥局の身を案じながらその元で一心に働いていた。
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