【完結】照葉輝く~静物語

みなわなみ

文字の大きさ
98 / 132
第四部

第二十四章 雫、大流となる 其の四

しおりを挟む
◆◇◆

 水無月も半ばにかかろうというのに、痢病は収まる気配もなかった。ただ唯一の救いは、城下である江戸より外へ出ていないことである。 
 蒸し蒸しした空気の中、将軍の眉間の皺は深まり、溜め息が多くなっていた。己の無力にさいなまされながら、また一日が終わろうとしている。 

「お揉みいたしましょう。」 
 斜めに座った江の声に秀忠はグッと伸びをし、横になろうと手を着く。 
「いや、今日はよい。」 
 沈んだ声で手を戻し、将軍はまた溜め息をついた。 
 疲れた様子の夫を案じながら、扇子で風を送り、江は明るく語りかける。 
「あなたさま、勝が千や珠に文を書いておるので、国松も千から順に文を書くのじゃと、今日も手習いに励んでおりました。」
 少し誇らしそうに微笑み、可愛らしい文字が書かれた紙を江は秀忠に見せた。 
「ふふ、『二つ文字』じゃな。」 
 秀忠が、たどたどしい文字を長い指でなぞりながら、柔らかく笑った。 
「『二つ文字』?」 
「いかがした?」 
 江が夫の言葉の意味がわからず聞き返したが、秀忠は、扇子で頬を隠そうとする江を逆に不審そうに見る。 
「松も横で筆で遊んで……」 
 江は、恥ずかしそうに頬についた筆の跡を見せる。江の白い頬に、墨色のノの字が薄く残っていた。 
「ふふ、羽子板のあとのようじゃの。」 
 微笑んだ秀忠と江の脳裏に、姫達と遊んだ幸せな時間が思い出される。 
「して、竹千代は?」 
 まだ出てこない息子の名を秀忠は尋ねた。 
「は?」  
「竹千代は文は書かぬのか? 千に。」 
「福が書かせるとお思いですか?豊臣への文を。」 
 夫の繰り返しての問いに江は冷たく答える。そこには(看病にいけなかった)という後ろめたさが残っていた。 
「そうか。」 
 秀忠もそれ以上は言わなかった。苦い顔をした秀忠に江は慌てて報告する。 
「竹千代は学問に励んでいたと。」 
「うむ。」 
 秀忠がほんのり微笑む。 
 雨の多いこの夏は、夜にたまらぬ暑さがない。ただ、むしっとした空気を払うように、江は夫に向かって扇子を動かした。 

「…国松は優しき子です。人の上に立つにはあの優しさがないと……」 
 江が目を伏せ、独り言のように呟いた。 
「江!」 
 妻をたしなめるように、秀忠が大きな声を出した。しかし、江はひるまず先を続ける。 
「国松と奈阿なあ姫が結ばれるのなら、その方がよいではありませぬか。」 
 江は淡々と語った。姉を、茶々を納得させるには、それしか方法がないのではないかと思う。 
「竹千代はいかがいたす。そなたは竹千代に恨みの目をさせたいのか?」 
 秀忠も将軍らしく、重々しく江に尋ねる。江の想いが解りながら、ここは引き下がれなかった。 
「しかし、体の弱い竹千代には、将軍は重荷でございましょう。かわいそうでありまする。」 
 母親の本音である。夫の激務を目の当たりにし、繰り返して病にかかる子を考えると、その行く末が心配であった。 
 秀忠が江を強い目で見据えた。 
「竹千代は男子おのこぞ。守ってやるだけがよいのではない。導いてやらねば。」 
 きつい口調で父親が言う。 
「したが、私は竹千代と会えませぬ。」 
 江が寂しそうに目を伏せた。 
「会いに行けばよいではないか。そなたは御台所、いや、母じゃ。なんの遠慮がいる。」 
 秀忠は叱るように江を励ます。 
「よいか江、竹千代には竹千代の、国松には国松の役割がある。国松は竹千代をしかと支えるのが役目じゃ。」 
「したが……」 
「そのための泰平の世ではないのか?  勝を案ずるのは、忠直殿が兄上の…将軍の兄の子であるからではないのか?」 
 畳み掛けるような秀忠の言葉に、江は言葉を失う。それでもまだ納得できないのか江は目を伏せて黙っていた。 
 ゆっくりと江が扇子を畳む。 
「…竹千代の心にやいばを持たせてはならぬ。そのような瞳で見られるは、私一人で充分じゃ」 
 秀忠の声が少し揺れる。涼やかな目には、深い哀しみが満ち溢れていた。 
 無表情の江が、夫を動かない瞳で見つめる。 

 気を落ち着けるようにスッと息を吸い込むと秀忠は続けた。 
「国松は徳川と豊臣を結ぶ役目、竹千代と豊臣をうまく結ぶ役目をせねばならぬ。それが国松の役割じゃ。」 
 優しく、しかし、力強く諭す秀忠であったが、江は無表情なまま身じろぎもしなかった。 
 秀忠がきりっと奥歯を噛む。 
世子せいしは竹千代じゃ。解ってくれておったのではないのか?」 
「解ってはおりまする。」 
 溜め息をこらえての秀忠の問いに、江は冷たく返した。 
「ならばよいではないか。」 
 秀忠は話は終わりとばかりに、寝転ぼうとする。 
「けれど、竹千代はきっと私を嫌うておりまする。」 
 先程と同じところを見つめたまま動かない御台所の声は固い。 
らちもないことを申すな。」 
 苦い顔の秀忠が、再び起き上がって江に向き直った。 
此度こたびも看病をしてやれませなんだ。きっと恨んでおりまする。」 
 唇をかすかに震わせながら、江が恨めしそうに眉間に皺を寄せる。 
「そのようなことはない。」 
 秀忠がとうとう溜め息をついた。 
「竹千代がときどき自分の子ではないように思えるのです。」 
 江は秀忠など目に入らないように、ただ一点を向いたまま、独り言のように話し続ける。 
「江、そのように考えるな。」 
 妻の奇異な様子に、秀忠は江を抱き締めようと手を伸ばす。ところが妻の体は、その腕からスッと逃れた。 
「赤子の頃、よう抱いてやった秀頼殿の方が我が子のように感じまする。」 
 ようやく秀忠の方を向いた江の顔は、白く冷たい顔であった。 
「江……」 
 江のいつもと違う様子に、秀忠は妻の名を呼ぶのがやっとである。 

 ぬるい夏の夜の風が、二人の間を通っていく。 
 ふっと江が微笑んだ。 
「早う秀頼殿と千の子を見とうござりまするな。姉上も楽しみにしておられるでしょう。」 
 江は微笑んだまま「おやすみなさいませ」と一礼すると、自分のとこへ潜り込んだ。 
 しかし微笑みの時も、妻の目は冷たいままであった。 
 秀忠は、何度も頭をカリカリと掻く。 
 江が潜った夜具は、ピクリとも動かなかった。 
「ふぅ。」 
 小さく溜め息をつき、秀忠は立ち上がる。 
「江、」 
 秀忠は小さな声で優しく呼び掛けた。 
「世子は竹千代じゃ。」 
 やはり呟くように告げ、部屋をあとにした。 

◇◆

 竹千代を取られたと思うなら、取り返すまで向かって行けばよい。 
 それが江ではなかったか…。 
 何ゆえ、竹千代を諦めるのじゃ…。 
 ………。 
 豊臣嫌いの福の顔を見たくもないからか…。 
 江らしゅうもない…。いや、それほど豊臣への思いが強いということか……。 
 江にとって、淀の方様も秀頼殿も千も、皆、血のえにしを持つ者。しかし、血の縁だけであのような結び付きができるのか……? 

 秀忠は我が身を振り返ってみる。 

 血の縁というより、各々が「思い」を分けあっておるのだ。思いのえにしで繋がっておる。 
 大元にあるのは、江が淀の方様を母のように慕い、淀の方様が江を娘のように愛おしむ、その揺るぎない思いの縁……。 
 淀の方様に慈しまれて育ったからこそ、江は秀頼殿も自分の子のように思うのだろう。 
 ゆえに、江が豊臣に固執をするのはわかる。 
 ならばこそ、己もなんとか豊臣の名を残そうと腐心しているのだ。だが、徳川の総領として、徳川のことも考えねばならぬ。将軍として、天下のことも。 
 …………。

 解ってくれていたのではなかったのか ?
 共に歩んでくれるのではなかったのか ?
 私の思い・・はまだ伝わっておらぬのか? 

 …江… 

 秀忠は江が解らなくなっていた。 



*****
この年の水無月(6月)半ばは太陽暦の8月始め


しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)

MisakiNonagase
現代文学
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。

【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

【アラウコの叫び 】第2巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

処理中です...