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どうにもならないこと
しおりを挟む「……以上です。先方との契約は本日付で正式に締結いたしました」
私が昨日の報告を淡々と終えると役員たちから安堵の声があがった。
隣には四宮くんもいる。
「……見事だ桐谷課長。キミの粘り強さには感服するよ」
「まさかあの代理店を落とすとは……」
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
会議室を出ると、四宮くんが言う。
「役員のみなさん、ずいぶん喜んでいましたね」
「……ええ」
私が素っ気なくそう返すと、彼はふっと息を漏らすように笑った。
「桐谷課長は、仕事が好きですか?」
「……え?」
その変な質問に私は思わず足を止めた。
好きか、嫌いか。
そんな次元で仕事のことを考えたことなんて、一度もなかった。
仕事は、裏切らない。
結果を出せば評価される。
ただそれだけだ。
「……好きか好きじゃないかの二択なら……好きなのかもしれないわね」
私がそう答えると、彼はなぜか嬉しそうに微笑んだ。
「桐谷課長らしい答えですね」
「……なんの意図があるの?」
私が訝しむように尋ねると、彼は悪びれもせずににこりと微笑んだ。
「いえ。ただ、あなたのことが気になっただけですよ」
変な人。
普通の人間なら、私を恐れてこれ以上話を広げようとはしないはずなのに。
この男は、私の内側へと自ら踏み込んでくる。
だからと言って私に好意があるようには見えないし……なにを企んでいるのかしら。
四宮くんが考えてることはさっぱりわからない。
「単純なことですよ。桐谷課長のこと、もっと知りたいんです……」
私をからかっているのか……。
それとも、なにか別の目的があるのか。
どちらにせよその笑顔が、ひどく胡散臭いものに見えた。
「私はあなたに自分のことを教える気はないし、あなたに興味もないから」
そう言って私は彼を突き放す。
だが彼は動じなかった。
それどころか面白そうにふっとその瞳を細めると、すっと私に手を伸ばしてきた。
その指先が私の頬に触れるか触れないかの距離で止まる。
「桐谷さん気を付けてください」
甘く低く、彼は囁く。
「男っていうものはね……興味がないと言われると燃える生き物なんですよ」
──ドキ。
なによ、その目……。
まるで本気で私を狙うみたいな眼差しをしている。
彼は、なにを考えているの……。
顔が熱い。
いつもは完璧にコントロールできるはずの自分の感情がこの男の前でだけはいとも簡単に乱されてしまう。
「バカじゃないの……」
分かったことはこの男と一緒にいるとロクなことがなさそうだということだけだ。
私は彼に背を向けて足早に歩き出した。
昼休み。
コピーを取りに行こうと廊下を歩いていたとき、給湯室のほうからひそひそ声が聞こえてきた。
「桐谷課長ってさ、言い方きついよね。怖いっていうか、近寄りがたいっていうか」
「ほんと。あんなんじゃ部下だってついていかないよ」
「仕事は出来るけどさぁ、絶対彼氏とかいないだろ。」
「ああいうのは仕事だけして結婚もせず死んでいくんだろうな」
「仕事だけの人生ってつまんなそー」
人生つまらなそう、か……。
そうね、つまらないのかもしれない。
でもそうやって生きるしか出来なかったのだから仕方ないじゃない。
耳に入れたくなくても、飛び込んでくるウワサ話にはもう慣れている。
別に平気。
足を止めず、なにも聞こえていないふりをして通り過ぎる。
顔色ひとつ変えないまま。
そうすれば、傷つくことはない。
……はずだ。
そのとき。
「ね、四宮くんもそう思うよね?」
誰かが彼に話をふった。
なんだ、彼もその場にいたのか……。
四宮くんは直属の部下としてけっこう厳しく言っている自覚はある。
これは彼から派生してもっと悪口が加速するだろう。
そんな風に思っていると……。
「僕はけっこう好きですけどね」
えっ。
意外な言葉が返ってきた。
思わず足を止める。
「ハッキリ言ってくれる方がよくないですか?厳しいのは、それだけ真剣に仕事に向き合っているからだと思いますし、結果も出しているので信頼できる。少なくとも、僕は尊敬しています」
「……っ」
なにを言っているんだろう。
どう考えても今は周りに合わせて悪口を言うべきところなのに。
彼はやっぱり、なにかがおかしい。
「もう~それは四宮くんが優秀だからだよ~」
「そうそう、やっぱ能力あるやつは俺たちとは違うってか」
そして彼はそれすらも許される空気を持っている。
私はその場から足早に立ち去った。
彼らに聞かれていたと気づかれたくなかったからではない。
自分の心臓が、少しだけうるさく鳴っているのを感じたからだ。
デスクに戻っても、彼の言葉が頭から離れなかった。
『僕はけっこう好きですけどね』
私はパソコンの画面へと意識を集中させる。
別に庇わなくたっていいのに。
やっぱり四宮くんがなにを考えているか分からない。
でも彼の声だけが、いつまでも耳に残っていた。
夜のオフィスはいつも以上に静まり返っていた。
ほとんどの社員が帰宅しキーボードを叩く音だけが響く中、私のデスクに置いていたスマホが突然鳴った。
……誰?
こんな時間に会社に電話をかけてくる人はいるのはめずらしい。
私は場所を移動してから電話に出た。
聞こえてきたのは耳に馴染んだ父の声。
しかしその声はひどく弱々しかった。
『……美和か?』
「お父さん?どうしたのこんな時間に」
滅多に電話をしてこない父からの着信に、私の胸は嫌な予感で騒めき始める。
『……すまない。今大丈夫か?』
「ええ、大丈夫だけど……」
『実はお前にはずっと心配かけたくなくて言えなかったんだが……』
電話の向こうで父が一度言葉を区切る。
『ここしばらく会社の経営がうまくいっていなくてな。それで今日……銀行から融資を断られてしまって……取引先からの督促も止まらなくて、このままじゃ会社が……桐谷印刷が潰れてしまうかもしれない』
父が営む桐谷印刷。
それは祖父の代から続く小さな町工場だ。
『美和……頼む。助けてもらえないか?』
その絞り出すような声に私は息を呑んだ。
父が私に助けを求めること今まで一度だってなかった。
それほどに緊急事態だってことなんだろう。
「……いくら必要なの」
震える声でそうたずねると、電話の向こうで父が一度息を吸い込むのが分かった。
『……8000万だ』
「8000万……」
そのあまりにも現実離れした金額に私は言葉を失った。
私一人の力でどうにかなる額ではない。
派手な暮らしは好まず慎ましく生きてきたため、いくらかの貯金はあった。
でも8000万だなんて……。
すぐに用意できるお金じゃない。
……どうしよう。
脳裏に遠い日の記憶がよみがえる。
病院の真っ白なベッドの上で日に日に痩せていく母の姿。
その細い手を握りしめることしかできなかった無力な私。
そして母が亡くなった後、たった一人で私を育ててくれた父。
朝早くから夜遅くまで休むことなく働き続けて、私を大学にまで行かせてくれた。
そんな父が守ってきた会社を失いたくない。
私にできることならなんでもしたい。
でも8000万円は私には……。
「……ごめんお父さん、私もそこまでは持ってなくて……なにか方法がないか調べてみる。だからもう少しだけ待ってて」
そう言って電話を切るのが精一杯だった。
私はしばらくその場に立ち尽くし、動くことができなかった。
どうすればいい……。
どうすれば父を助けられるの?
「8000万……」
ぽつりとつぶやいたその時。
「──桐谷課長」
背後から静かな声が私を呼んだ。
はっとして顔を上げるといつからそこにいたのか四宮くんが立っていた。
まさか聞かれてはいないわよね……?
「……あなた、まだ残っていたの」
声がわずかにかすれた。
部下の前だ。動揺を見せないようにしなくては……。
「ええ。桐谷課長が帰っていないのに後輩が帰るわけにはいきませんから」
良かった……聞かれてはいなそうだ。
「私は好きで残ってるだけだから、あなたも帰っていいわ。言えば良かったわね……こんな時間までごめんなさい」
いつもより早口になったのは動揺しているからだろう。
「いやに優しいですね」
「えっ」
驚いて四宮くんを見た時、彼は言った。
「8000万」
そのあまりにも唐突な言葉に私の心臓がどきりと跳ねた。
「ずいぶんと、お困りのようでしたので」
聞かれていた……!?
父とのあの電話を。
全身からさっと血の気が引いていく。
でもダメだ、動揺したら。
深く息を吸い込む。
「盗み聞きなんて趣味が悪いのね」
「自分でもそう思います」
悪びれもなく彼はそう言ってのけると、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
一歩また一歩とその距離が縮まるたびに、私は得体の知れない恐怖に後ずさる。
「な、なに……」
「その8000万、僕なら用意することが出来ます」
息が止まった。
背中を冷たい指先で撫でられたように、ぞくりとする。
「なに言ってるの、そんなこと四宮くんに出来るわけないでしょう?」
「その額なら問題ありません」
おかしい。なにを言ってるんだろう?
もし、からかっているのだとしたらタチが悪い。
こんな大金……ましてや転職してきた後輩が持っているわけがない。
「バカにしないでくれる?」
我に返った私はそう言って、背中を向けて立ち去ろうとする。
しかし、その腕を彼にぐいと掴まれた。
──パシン。
「からかってなんかない」
掴まれた手が熱かった。
「僕の提案がウソではなかったと、そのうち分かると思います。そして桐谷さんは必ず僕に助けを求める」
自信があるようなその表情は先のことを確信しているようだった。
私を真っ直ぐに射抜くその瞳に、思わず息が詰まる。
「は、放して!」
私は四宮くんの手を振り払うと、廊下を歩き出した。
キライだ。
新しいオモチャでも見つけたと思っているんだろうか。
上司をからかって遊んでタチが悪い。
もっといるじゃない。
四宮くんを好きそうな女性は。
こんな時に……。
「はぁ……」
四宮くんはやっぱり性格の悪い変わりものだ。
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