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第1話 俺と結婚しろ。契約結婚だ

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「俺と結婚しろ」

 カチン、と手元でペンが転がる音がした。

「……はい?」

 書類を整理していた手を止めて、ゆっくりと顔を上げる。

 目の前には、私の直属の上司である九条玲司(くじょう れいじ)課長。

 黒のスーツを完璧に着こなし、ネクタイの結び目すら乱れていない。背は高く、整った顔立ちは、どこか冷たさを感じさせる。若くして課長になっているだけでもエリートなのに、噂によると親会社の御曹司でもあるらしい──まさに「エリート中のエリート」。

 冷静沈着で、社内でも一目置かれる存在。女性社員からの人気も高いが、本人はまったく気にしていない様子で、近寄りがたい雰囲気を持っている。

 そんな九条課長が、今、私に──プロポーズしている?

「契約結婚だ。条件は追って話す」

「ちょ、ちょっと待ってください。え、何の話ですか?」

「俺と、お前の話だ」

 私の話? いや、意味がわからない。

「……えっと、つまり?」

「そのままの意味だ。俺と結婚しろ」

 二度目。

 静かに放たれた言葉が、部屋の空気を変える。

 冗談のような響きなのに、九条課長の表情はあまりにも真剣で──それが、余計に現実味を帯びてくる。

「……」

 私はポカンと口を開けたまま、何も言えなくなる。

 どうしてこんなことになった? 今日のお昼までは平穏な日常だったのに――



 ──そもそも、私は結婚なんてまったく興味がなかった。

 昼休みのオフィスには、どこか気の抜けた空気が漂っている。午前中の業務を終え、一息ついた社員たちが、それぞれの机で弁当を広げたり、休憩スペースへ移動したりと、思い思いに過ごしている時間帯だった。

 私も例に漏れず、適当にコンビニで買ったサンドイッチの袋を開けつつ、スマホをいじっていた。特に目的があるわけでもなく、なんとなくニュースアプリをスクロールしたり、SNSを眺めたりする。ただの習慣みたいなものだ。

「ねえ、結婚って考えてる?」

 そんなふいの一言に、私は指を止めた。

 顔を上げると、向かいの席の同僚がお弁当のフタを開けながら、こちらを見ている。どうやら、特に深い意味はなく、ただの雑談のつもりらしい。

「……は?」

 間の抜けた声が出る。

「いや、最近、周りがどんどん結婚していくじゃん? 高校時代の友達も、もう半分くらいは結婚してるし、子どもがいる子もいてさ~」

 彼女はフォークでサラダをつつきながら、どこか他人事のように続ける。

「私たちもそういう年齢なんだなーって」

 ふーん。

 適当な相槌を打ちながら、再びスマホに視線を戻す。画面には、SNSのタイムラインが流れている。確かに、結婚式の写真や、新婚旅行の報告、さらには「第一子が生まれました!」みたいな投稿がやたらと増えた気がする。

 でも、それがどうしたというのか。

「で、佐倉は?」

「何が?」

「結婚とか考えてるの?」

「考えてない」

 即答した。

 同僚はお箸を止め、ほんの一瞬だけ驚いたような顔をしたあと、すぐに「やっぱり」と笑った。

「仕事優先って感じだもんね」

「うん、仕事好きだし」

「でもさ、彼氏とかは?」

「いない」

「えー? 佐倉、普通に可愛いのに。なんで作らないの?」

「めんどくさいから」

「……めんどくさい?」

「うん、めんどくさい」

「えぇ……」

 同僚は呆れたように笑いながら、ペットボトルのお茶を一口飲んだ。

「何かあったの?」

「別に」

「過去に痛い目見たとか?」

「……」

 図星だった。

 ほんの一瞬だけ視線を落としたのを、同僚は見逃さなかったらしい。

「え、もしかして、結構ひどいことされた?」

「……そんなことない」

「いやいや、その間は絶対あるでしょ。浮気されたとか?」

「違う」

「じゃあ、めっちゃ束縛された?」

「……」

「やっぱり?」

 同僚が身を乗り出してくるのを見て、佐倉は軽くため息をついた。

「もう終わったことだから、いいの」

「でも、トラウマになってるんじゃん?」

「別にトラウマじゃない。ただ……恋愛って、なんか疲れるなって思っただけ」

「うわぁ、それ本当にダメージ受けた人の言い方だよ……」

「気にしすぎ」

「気にするよ! だって佐倉、もっと幸せになっていいはずなのに」

 同僚の真剣な目が、少しだけ胸に響いた。

「……結婚って、そんなにいいものなの?」

「そりゃ人によるけどさ。少なくとも、誰かと一緒にいる幸せってあると思うよ」

「……ふーん」

 佐倉は、そっけなく答えながらも、どこか遠い記憶をたどっていた。

「親とかは?」

 ふいに投げかけられた言葉に、指がピクリと動いた。

「親? うるさいよ」

「やっぱり?」

「最近特に、お見合いしろってうるさくてさ」

「お見合い!? マジで?」

「うん。母親が勝手に話を進めて、今週末に見合いの席を用意したらしい」

「え、それ行くの?」

「行かない」

「絶対?」

「絶対」

 私は断言した。

「結婚なんて、まったく興味ないし。そもそも、一生独身でいいと思ってる」

「いやいやいや、そんなこと言ってると、突然素敵な人が現れて結婚しちゃうパターンあるよ?」

「ないない」

 断言しながらも、少しだけ胸がざわついた。

 過去の恋愛が残した傷。親の期待。周囲の視線。どれも煩わしくて、いっそこのまま一人でいたほうが楽だと、ずっと思っていた。

「でもさ、好きな人ができたら変わるかもよ?」

「……ならないよ」

「ほら、佐倉ってさ、頑固だから意地張ってるだけで、本当は――」

「それ以上言ったら怒る」

「えっ、マジで?」

 私がジト目で睨むと、同僚は慌てて口をつぐんだ。

「でもさ、親がそこまで言うなら、一回くらい顔合わせてもいいんじゃない?」

「いや、ない」

「だってさ、もしかしたら相手がめっちゃイケメンで、超エリートで、優しくて――」

「興味ない」

「えぇ~……」

 同僚はわざとらしくため息をついたが、私は揺るがない。

 ──私は、恋愛も結婚も信じない。仕事があれば、それでいい。ずっとそう思っていたのに――

 その直後、まさか上司から「俺と結婚しろ」と言われることになるなんて、夢にも思っていなかった。

 そして、私は人生で初めて、本気で動揺することになる。
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