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第13話 契約上
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――報告書の件で確認したいことがある。
九条課長に呼ばれた私は、彼と共に食堂の隅へと歩いていく。背筋を伸ばし、歩調を崩さぬように意識する。
昼時の食堂は、ほどよいざわめきに包まれている。社員たちは各々の食事を楽しみながらも、僅かにこちらへ向ける視線を隠しきれないようだった。
――何か問題があったのだろうか。
そんな憶測が、きっと彼らの頭をよぎっているのだろう。上司が部下を呼び出すこと自体は珍しくない。けれど、食堂でわざわざ、というのは少し異例だった。
食堂の隅に到達すると、課長は足を止め、ゆっくりと振り返る。
端正な顔立ちに浮かぶのは、いつもの冷静な眼差し。無駄な感情を排した静かなその目が、真っ直ぐに私を捉えた瞬間、自然と背筋が正される。
「これだ」
無駄のない動作で差し出された報告書を受け取る。視線を落とし、指摘された箇所を素早く確認する。修正点はわずかで、重大な問題はなさそうだった。安堵とともに、手早くメモを取る。整然とした文字が並ぶ紙面を一通り見返し、誤字脱字がないことを確認したところで、私は顔を上げた。
「それでは、失礼します」
そう言って、元の席に戻ろうと身体をひねった――そのときだった。
「……昼はちゃんと食べているか?」
不意の問いに、手が止まる。喉元で言葉が途切れ、意識が一瞬空白になった。何を聞かれたのか、すぐには理解できず、反射的に顔を上げる。
「え?」
自分でも間の抜けた声が出たと自覚するが、それをどう取り繕うべきかも分からない。課長の表情は変わらない。ただ、彼の瞳の奥にある何かが、いつもよりほんの少し柔らかく見えた。
「はい、一応……」
慌てて取り繕うように答えると、課長の視線がわずかに緩んだ。だが、その奥に秘められたものまでは読み取れない。表情は穏やかだというのに、まるで深い湖の底に何かを沈めているような、静かな気配があった。
「お前は無理をしがちだからな」
低く落ち着いた声が、じんわりと心に響く。その一言が、妙に胸を揺さぶった。
そんなこと、今まで誰にも言われたことがなかったのに――。
仕事柄、無理をするのは当たり前だった。多少の体調不良なら薬で抑えてやり過ごし、睡眠時間を削ってでも成果を出す。それが評価につながり、自分の価値を証明する手段だった。誰かに気遣われることなんてなかったし、必要とも思わなかった。
けれど、今。
「……もしかして、心配してくれてるんですか?」
冗談めかして、軽く流すつもりで言う。けれど、課長の反応は予想と違った。彼はふっと目を伏せ、短く呟く。
「……契約上、な。相手方に負担をかけるのは俺の信義に反する」
契約上。
その言葉が、心の奥に引っかかった。
仕事上の配慮。ただの上司――いや、取引相手としての気遣い。
九条課長は、冷静沈着で計算高い人だ。彼の手腕によって会社は多くの利益を生み出してきた。だが、それは相手を搾取するやり方ではなく、お互いの利益を考えた上での合理的な取引によるものだと、以前誰かが言っていたのを思い出す。交渉の場では、相手の立場すら尊重し、双方にとって最善の結果を導き出す――そういうスタンスを貫く人。
そして――彼のその方針は、私たちの関係にも適用されるということなのだろう。
契約結婚。
それは、私たちの関係性を端的に表す言葉だった。お互いのメリットのために交わした合理的な取引。それ以上でも、それ以下でもない。
だから、九条課長のこの気遣いにも、きっと感情なんて込められていない。
――そう理解しなければいけないのに。
なのに、胸の奥が微かにざわついた。
ほんの少しでも、自分が「気にかけられている」と錯覚してしまったからだろうか。
期待なんて、してはいけない。
これは仕事の延長線上にある契約で、そこに個人的な感情が入り込む余地はない。分かっているのに。
だから、笑う。少しだけ力を込めて、何でもないふうに。
「ですよね」
軽やかに返したつもりだった。けれど、その言葉を口にした瞬間、妙な寂しさが胸に残った。まるで、自分でしかけた期待を、意図的に打ち消すような感覚だった。
九条課長は、それ以上何も言わず、静かに視線を戻す。ほんの短い会話すら業務の一環にすぎなかったかのように。
「……じゃあ、戻れ。休憩中に呼び出してすまなかったな」
それだけを言い残し、課長は再び仕事に意識を向けた。
「はい」
短く返事をし、その場を離れる。
食堂の端。そこから見渡せば、麻美のいる席がすぐ目に入った。
彼女はスマホをいじりながら、テーブルの上のグラスを無意識に指でなぞっている。氷がゆっくりと溶け、グラスの表面に小さな水滴が浮かんでいた。少し待ちくたびれたのか、頬杖をつきながら、退屈そうに足を揺らしている。その仕草が、どこか子供じみていて、思わず微笑みそうになった。
私は、何もなかったふうに足を踏み出す。
テーブルへ向かうわずかな距離。
けれど、その間に、さっきの会話が何度も脳裏をかすめる。
――昼はちゃんと食べてるか?
そのたった一言が、どうしてこんなにも心に残るのか。
課長のあの静かな声色。変わらない表情の奥に、一瞬だけ柔らかく見えた瞳。
まるで、氷の隙間に落ちた一滴の水のように、胸の奥でじんわりと広がっていく。
(私、何を期待してるんだろう)
歩くたびに、自分の問いが足元に落ちていくようだった。けれど、拾い上げることはできない。
問いかけても、答えは出ない。
だから、余計なことは考えず、ただ歩く。
静かに、けれど確かに、一歩ずつ。
九条課長に呼ばれた私は、彼と共に食堂の隅へと歩いていく。背筋を伸ばし、歩調を崩さぬように意識する。
昼時の食堂は、ほどよいざわめきに包まれている。社員たちは各々の食事を楽しみながらも、僅かにこちらへ向ける視線を隠しきれないようだった。
――何か問題があったのだろうか。
そんな憶測が、きっと彼らの頭をよぎっているのだろう。上司が部下を呼び出すこと自体は珍しくない。けれど、食堂でわざわざ、というのは少し異例だった。
食堂の隅に到達すると、課長は足を止め、ゆっくりと振り返る。
端正な顔立ちに浮かぶのは、いつもの冷静な眼差し。無駄な感情を排した静かなその目が、真っ直ぐに私を捉えた瞬間、自然と背筋が正される。
「これだ」
無駄のない動作で差し出された報告書を受け取る。視線を落とし、指摘された箇所を素早く確認する。修正点はわずかで、重大な問題はなさそうだった。安堵とともに、手早くメモを取る。整然とした文字が並ぶ紙面を一通り見返し、誤字脱字がないことを確認したところで、私は顔を上げた。
「それでは、失礼します」
そう言って、元の席に戻ろうと身体をひねった――そのときだった。
「……昼はちゃんと食べているか?」
不意の問いに、手が止まる。喉元で言葉が途切れ、意識が一瞬空白になった。何を聞かれたのか、すぐには理解できず、反射的に顔を上げる。
「え?」
自分でも間の抜けた声が出たと自覚するが、それをどう取り繕うべきかも分からない。課長の表情は変わらない。ただ、彼の瞳の奥にある何かが、いつもよりほんの少し柔らかく見えた。
「はい、一応……」
慌てて取り繕うように答えると、課長の視線がわずかに緩んだ。だが、その奥に秘められたものまでは読み取れない。表情は穏やかだというのに、まるで深い湖の底に何かを沈めているような、静かな気配があった。
「お前は無理をしがちだからな」
低く落ち着いた声が、じんわりと心に響く。その一言が、妙に胸を揺さぶった。
そんなこと、今まで誰にも言われたことがなかったのに――。
仕事柄、無理をするのは当たり前だった。多少の体調不良なら薬で抑えてやり過ごし、睡眠時間を削ってでも成果を出す。それが評価につながり、自分の価値を証明する手段だった。誰かに気遣われることなんてなかったし、必要とも思わなかった。
けれど、今。
「……もしかして、心配してくれてるんですか?」
冗談めかして、軽く流すつもりで言う。けれど、課長の反応は予想と違った。彼はふっと目を伏せ、短く呟く。
「……契約上、な。相手方に負担をかけるのは俺の信義に反する」
契約上。
その言葉が、心の奥に引っかかった。
仕事上の配慮。ただの上司――いや、取引相手としての気遣い。
九条課長は、冷静沈着で計算高い人だ。彼の手腕によって会社は多くの利益を生み出してきた。だが、それは相手を搾取するやり方ではなく、お互いの利益を考えた上での合理的な取引によるものだと、以前誰かが言っていたのを思い出す。交渉の場では、相手の立場すら尊重し、双方にとって最善の結果を導き出す――そういうスタンスを貫く人。
そして――彼のその方針は、私たちの関係にも適用されるということなのだろう。
契約結婚。
それは、私たちの関係性を端的に表す言葉だった。お互いのメリットのために交わした合理的な取引。それ以上でも、それ以下でもない。
だから、九条課長のこの気遣いにも、きっと感情なんて込められていない。
――そう理解しなければいけないのに。
なのに、胸の奥が微かにざわついた。
ほんの少しでも、自分が「気にかけられている」と錯覚してしまったからだろうか。
期待なんて、してはいけない。
これは仕事の延長線上にある契約で、そこに個人的な感情が入り込む余地はない。分かっているのに。
だから、笑う。少しだけ力を込めて、何でもないふうに。
「ですよね」
軽やかに返したつもりだった。けれど、その言葉を口にした瞬間、妙な寂しさが胸に残った。まるで、自分でしかけた期待を、意図的に打ち消すような感覚だった。
九条課長は、それ以上何も言わず、静かに視線を戻す。ほんの短い会話すら業務の一環にすぎなかったかのように。
「……じゃあ、戻れ。休憩中に呼び出してすまなかったな」
それだけを言い残し、課長は再び仕事に意識を向けた。
「はい」
短く返事をし、その場を離れる。
食堂の端。そこから見渡せば、麻美のいる席がすぐ目に入った。
彼女はスマホをいじりながら、テーブルの上のグラスを無意識に指でなぞっている。氷がゆっくりと溶け、グラスの表面に小さな水滴が浮かんでいた。少し待ちくたびれたのか、頬杖をつきながら、退屈そうに足を揺らしている。その仕草が、どこか子供じみていて、思わず微笑みそうになった。
私は、何もなかったふうに足を踏み出す。
テーブルへ向かうわずかな距離。
けれど、その間に、さっきの会話が何度も脳裏をかすめる。
――昼はちゃんと食べてるか?
そのたった一言が、どうしてこんなにも心に残るのか。
課長のあの静かな声色。変わらない表情の奥に、一瞬だけ柔らかく見えた瞳。
まるで、氷の隙間に落ちた一滴の水のように、胸の奥でじんわりと広がっていく。
(私、何を期待してるんだろう)
歩くたびに、自分の問いが足元に落ちていくようだった。けれど、拾い上げることはできない。
問いかけても、答えは出ない。
だから、余計なことは考えず、ただ歩く。
静かに、けれど確かに、一歩ずつ。
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