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第12話 ある日の昼休み、社内食堂にて

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 ――ある日の昼休み。

 社内の時計が正午を指した瞬間、デスク周りの空気がふっと緩んだ。午前中の業務を終えた社員たちが席を立ち、それぞれ食堂や外へ向かい始める。私も例にもれず、引き出しからお弁当の包みを取り出し、広げようとした。

 ――その瞬間、隣の席からぐいっと身を乗り出してくる人影。

「佐倉、食堂に行こうよ!」

 唐突な誘いに、私は箸を持ったまま一瞬固まる。顔を上げると、麻美がいた。明るい茶色の髪を揺らし、期待に満ちた目をこちらに向けている。

「え?」

「ほら、お弁当は毎日だと飽きるでしょ? たまには違うもの食べたくならない?」

 麻美が私の顔を覗き込むようにして言う。

 私は手に持った箸を止め、包みの上からお弁当を見下ろした。朝、慌ただしく準備したいつものメニュー。昨夜の残り物に、簡単な副菜を添えただけ。正直、味の変化はほとんどない。でも、それが落ち着くし、食費の節約にもなるから特に不満はないのだけど……。

 目の前の麻美は、「行く」という前提で話している。

「たまにはいいでしょ?」

 いたずらっぽく笑うその顔は、すでに私の返事を決めているようだった。ここで断っても、どうせ根気強く誘われるのは目に見えている。

 私は小さく息を吐いた。

「うん、いいよ」

 そう答えた瞬間、麻美はぱっと顔を輝かせる。

「じゃあ決まりね!」

 弁当を包み直す暇もなく、彼女は私の腕を軽く引っ張った。つられるように席を立ち、昼休みのざわめきの中へと足を踏み出す。

 社内食堂は、昼休みに入ったばかりで大いに賑わっていた。

 入り口近くには長い列ができ、社員たちがトレイを手に順番を待っている。カウンターでは温かい料理が次々と並べられ、食欲をそそる香りが漂っていた。

「混んでるね」

「まあ、いつもこんな感じだよね。でも、ほら、あそこ空いてる!」

 麻美が指さした先、ちょうど窓際の二人席が空いたところだった。私たちは急いで列に並び、適当に料理を頼んで受け取り、トレイに乗せた。私は焼き魚定食、麻美はカツカレー。

「佐倉ってほんと健康的なメニュー選ぶよね」

「カツカレーは重くない?」

「全然! 午後のエネルギー補給ってことで!」

 笑いながら歩き、食堂のざわめきをすり抜けて席に着く。

 麻美がカレーをスプーンで掬いながら言った。

「それでさ、昨日の会議だけど――」

 麻美がカレーのルーをスプーンですくいながら話し始める。私は箸を持ち、彼女の言葉を聞きながら、焼き魚の身をほぐす。

 食堂内は昼休みのピークとあって、賑やかだった。トレイを持って席を探す人、同僚同士で笑い合う人、カウンター前で料理を選ぶ人。ざわざわとした喧騒の中で、スプーンが皿を叩く音や、湯気の立つ味噌汁の香りが交じり合う。

 そんな日常の風景の中、何気なく視線を上げた。

 ――その瞬間、見慣れた人影が目に入る。

 向こうのテーブルに座る九条課長。

 背筋を伸ばし、いつもと変わらぬ整ったスーツ姿。しかし、どこか肩の力が抜けているように見えた。

 私たちの部署の上司であり、厳しくも的確な指示を出す人。常に冷静沈着で、仕事中に無駄話をしているところを見たことがない。そんな彼が、今日は珍しく向かいの男性と談笑していた。

 相手は他部署の役職者らしい。年齢は課長と同じくらいか、それより少し上だろうか。食堂という場所のせいもあってか、二人の会話はいつもの会議室のような堅苦しさがなく、落ち着いた雰囲気に見えた。

(珍しいな……)

 ふと、興味を引かれる。九条課長が誰かとこうしてリラックスした状態で話しているのは、あまり見たことがない。会議の場ではいつも冷静で、必要最低限の言葉しか発しない印象だった。

 私はぼんやりと彼の姿を眺める。

 すると、ふいに九条課長がこちらに視線を向けた。

(――えっ)

 目が合う。

 鋭い視線――かと思ったが、ほんのわずかに柔らかさを含んでいるように見えた。

 仕事中の冷ややかな眼差しとは違う。何かを探るような、それでいてどこか穏やかな目線。

(……気のせい?)

 驚きと動揺が混じったまま、私は慌てて視線を逸らそうとする。

 ――その瞬間だった。

 九条課長が席を立った。

 こちらに向かってくる。

(えっ、ちょっと待って、なんで!?)

 九条課長の長身がすっと立ち上がり、こちらへ向かってくるのを見た瞬間、私は硬直した。

 心臓が跳ねるのを感じる。思わず背筋が伸び、息を詰める。まるで教室で先生に当てられた生徒のような気分だった。

「え、ちょっと……」

 隣の麻美がスプーンを止め、目を丸くする。彼女の視線が「え? 何この展開?」とでも言いたげに、私と九条課長を交互に行き来する。

 食堂のざわめきがやけに遠く聞こえる。

「佐倉、少しいいか」

 低く、よく通る声がすぐ近くで響いた。

 視線を上げると、そこには九条課長の姿があった。落ち着いた表情、冷静な眼差し。それなのに、こうして真正面から向き合うと妙な緊張感が走る。

(ああ、まただ……)

 最近、やけにこういうことが多い。書類の確認、案件の打ち合わせ、ちょっとした質問――理由はさまざまだが、何かにつけて呼び止められる機会が増えていた。

(でも……なんでわざわざ食堂で?)

 社内で話すなら、会議室や課長のデスク前でもいいはず。わざわざこの昼休みの時間を狙ってきた理由がわからない。

 とはいえ、断る選択肢はない。

「はい」

 私は素直に返事をした。

 隣の麻美が口元を押さえながら、明らかに期待と好奇心が入り混じった目でこちらを見ている。

(そんな顔しないで……!)

「報告書の件で確認したいことがある」

 九条課長の言葉に、私は慌てて頷く。

「わかりました」

 反射的に答えながら、心のどこかで違和感を覚えた。昼休みに仕事の話をするなんて、きっちりした九条課長らしくない。普段なら業務時間内にきっちりと処理を済ませる人だ。なのに、どうしてこのタイミングで?

 けれど、深く考えている余裕はなかった。とにかく、ついていくしかない。

 私は食べかけのランチをそっと押しやり、トレイを片付ける。その一連の動作の間にも、食堂のあちこちから視線を感じる気がした。上司に呼ばれたというだけで、こんなに注目を集めるものだろうか。いや、違う。

「ねえねえ、これって……もしかして……」

 背後から麻美の囁くような声が聞こえた。楽しそうな響き。妙に含みのある言い方。まるで恋バナを嗅ぎつけた時のような、そんな声音だった。

(もしかしなくていい!!)

 心の中で全力で否定しながら、私は決して振り返らなかった。もしここで目を合わせたら、麻美のニヤニヤ顔を直視してしまう。それだけは絶対に避けたい。

 視線を前に戻すと、九条課長は既に歩き出していた。その背中を追いかけるように、私は小走りで後を追う。

 食堂の奥へ向かう足取りは、どうしても少しだけ落ち着かないままだった。
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