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第15話 追及
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午後の業務に集中しようと、ディスプレイに視線を固定する。だが、さっき耳にした噂が脳裏をよぎり、どうしても意識を逸らせない。キーボードを打つ指は動き続けているものの、心は落ち着かず、つい何気なく九条課長のデスクを盗み見てしまう。
課長はいつもと変わらない冷静な表情で、淡々と書類に目を通している。長年の経験からくる余裕なのか、その指先は一切の迷いもなくペンを滑らせ、時折視線を落としては淡々と決裁印を押していく。静かなオフィスの中で、紙とペンが触れ合う微かな音だけが響く。その姿は、噂などまるで存在しないかのように、揺るぎない。
その落ち着きに少し安心するものの、不安が完全に消えるわけではない。
(まさか、噂が彼の耳に入ることはないよね…?)
社内で飛び交うただの噂話。しかし、もし本人が知ったらどうなるのか。九条課長はああ見えて厳格な人だ。普段は冷静沈着で、私情を表に出すことは滅多にない。そんな彼の名前がくだらないゴシップとともに囁かれているのだとしたら、不機嫌になるどころでは済まないかもしれない。軽い気持ちで広まった話が彼の耳に届き、表情ひとつ変えずに淡々と「くだらない」と切り捨てられる姿を想像するだけで、胃がキリキリと痛んだ。いや、考えたって仕方がない。気持ちを切り替えて仕事に集中しなきゃ――そう思った矢先だった。
「ねえ、さっきの噂聞いた?」
突然、隣のデスクから麻美が顔を寄せてくる。声を潜めてはいるものの、その表情には好奇心が満ちていて、まるで楽しい秘密を共有しようとする子どものようだ。目をキラキラさせながら、こちらの反応を伺うように口元を隠しつつ囁く。
心臓が大きく跳ねるのを感じた。指先がキーボードの上で止まり、慌てて平静を装う。まるで何事もなかったかのように、画面を見つめ直すが、意識の端で麻美の視線が突き刺さるのを感じる。
「た、ただの噂でしょ」
できるだけそっけなく返したつもりだった。興味がない、と言わんばかりの声色で。しかし、麻美の目はさらに輝きを増し、まるでこちらの動揺を見透かしたかのように、唇の端を持ち上げる。
「でもさ、最近の課長、確かにちょっと柔らかくなったよ。佐倉だって、そう思わない?」
鋭い指摘に、思わず息を呑む。確かに――最近の課長はどこか穏やかで、以前より表情が和らいでいる気がする。以前なら厳格そのもので、必要最低限の言葉しか発さなかったのに、最近は部下への声かけが増えたし、ふとした瞬間に微笑むこともある。
たとえば、昨日の朝。いつもなら「おはようございます」とこちらが先に声をかけ、軽く頷かれるだけだったのに、昨日は珍しく課長の方から「おはよう」と言ってきた。しかも、ほんの少し、口元が綻んでいた気がする。そんな些細な変化が、妙に引っかかる。
……まさか。本当に? しかし、それを認めるわけにはいかない。自分まで噂を面白がっていると思われるのは避けたかった。
「別に…」
ぼんやりとした返事で誤魔化そうとするが、麻美の探るような視線は揺るがない。獲物を追い詰めるかのように、じりじりと距離を詰めてくる。
「それに、今日の昼もなんか話してたじゃん」
ビクッと肩が跳ねた。――やばい。すぐに反論しなきゃ。
「仕事の話だってば!」
思わず声を強めると、周囲の数人がこちらをチラリと見る。しまった、と慌てて口を噤むが、時すでに遅い。パソコンの画面を見つめていた同僚たちが一瞬動きを止め、こちらに興味を示す気配が伝わってくる。九条課長の様子なんて、怖くて確認できない。
対照的に、麻美はまるで思惑通りだと言わんばかりに、ゆっくりと唇の端を持ち上げた。
「ふーん?」
意味ありげな笑みを浮かべながら、肘をついて私を見つめる。その表情が、妙に意地悪く見えて仕方ない。まるで、私が隠し事をしていると確信しているような眼差しだった。
(なんでこんなことに…?)
胸の奥がじわじわと熱くなり、嫌な汗が背中を伝う。別に私は何も悪いことをしていない。ただ、課長のことを少し気にしているだけで――いや、それすらもおかしいのか?
「別に関係ないし」
そう呟いて、わざと事務的にエンターキーを叩く。カタリ、と乾いた音が響き、ようやく視線を画面に戻すことができた。
麻美が何か言いかけた気がしたが、私はもう聞かない。深く考える必要なんてない。これはただの噂話、ただの――。
そう自分に言い聞かせながら、私は静かに息を吐いた。
課長はいつもと変わらない冷静な表情で、淡々と書類に目を通している。長年の経験からくる余裕なのか、その指先は一切の迷いもなくペンを滑らせ、時折視線を落としては淡々と決裁印を押していく。静かなオフィスの中で、紙とペンが触れ合う微かな音だけが響く。その姿は、噂などまるで存在しないかのように、揺るぎない。
その落ち着きに少し安心するものの、不安が完全に消えるわけではない。
(まさか、噂が彼の耳に入ることはないよね…?)
社内で飛び交うただの噂話。しかし、もし本人が知ったらどうなるのか。九条課長はああ見えて厳格な人だ。普段は冷静沈着で、私情を表に出すことは滅多にない。そんな彼の名前がくだらないゴシップとともに囁かれているのだとしたら、不機嫌になるどころでは済まないかもしれない。軽い気持ちで広まった話が彼の耳に届き、表情ひとつ変えずに淡々と「くだらない」と切り捨てられる姿を想像するだけで、胃がキリキリと痛んだ。いや、考えたって仕方がない。気持ちを切り替えて仕事に集中しなきゃ――そう思った矢先だった。
「ねえ、さっきの噂聞いた?」
突然、隣のデスクから麻美が顔を寄せてくる。声を潜めてはいるものの、その表情には好奇心が満ちていて、まるで楽しい秘密を共有しようとする子どものようだ。目をキラキラさせながら、こちらの反応を伺うように口元を隠しつつ囁く。
心臓が大きく跳ねるのを感じた。指先がキーボードの上で止まり、慌てて平静を装う。まるで何事もなかったかのように、画面を見つめ直すが、意識の端で麻美の視線が突き刺さるのを感じる。
「た、ただの噂でしょ」
できるだけそっけなく返したつもりだった。興味がない、と言わんばかりの声色で。しかし、麻美の目はさらに輝きを増し、まるでこちらの動揺を見透かしたかのように、唇の端を持ち上げる。
「でもさ、最近の課長、確かにちょっと柔らかくなったよ。佐倉だって、そう思わない?」
鋭い指摘に、思わず息を呑む。確かに――最近の課長はどこか穏やかで、以前より表情が和らいでいる気がする。以前なら厳格そのもので、必要最低限の言葉しか発さなかったのに、最近は部下への声かけが増えたし、ふとした瞬間に微笑むこともある。
たとえば、昨日の朝。いつもなら「おはようございます」とこちらが先に声をかけ、軽く頷かれるだけだったのに、昨日は珍しく課長の方から「おはよう」と言ってきた。しかも、ほんの少し、口元が綻んでいた気がする。そんな些細な変化が、妙に引っかかる。
……まさか。本当に? しかし、それを認めるわけにはいかない。自分まで噂を面白がっていると思われるのは避けたかった。
「別に…」
ぼんやりとした返事で誤魔化そうとするが、麻美の探るような視線は揺るがない。獲物を追い詰めるかのように、じりじりと距離を詰めてくる。
「それに、今日の昼もなんか話してたじゃん」
ビクッと肩が跳ねた。――やばい。すぐに反論しなきゃ。
「仕事の話だってば!」
思わず声を強めると、周囲の数人がこちらをチラリと見る。しまった、と慌てて口を噤むが、時すでに遅い。パソコンの画面を見つめていた同僚たちが一瞬動きを止め、こちらに興味を示す気配が伝わってくる。九条課長の様子なんて、怖くて確認できない。
対照的に、麻美はまるで思惑通りだと言わんばかりに、ゆっくりと唇の端を持ち上げた。
「ふーん?」
意味ありげな笑みを浮かべながら、肘をついて私を見つめる。その表情が、妙に意地悪く見えて仕方ない。まるで、私が隠し事をしていると確信しているような眼差しだった。
(なんでこんなことに…?)
胸の奥がじわじわと熱くなり、嫌な汗が背中を伝う。別に私は何も悪いことをしていない。ただ、課長のことを少し気にしているだけで――いや、それすらもおかしいのか?
「別に関係ないし」
そう呟いて、わざと事務的にエンターキーを叩く。カタリ、と乾いた音が響き、ようやく視線を画面に戻すことができた。
麻美が何か言いかけた気がしたが、私はもう聞かない。深く考える必要なんてない。これはただの噂話、ただの――。
そう自分に言い聞かせながら、私は静かに息を吐いた。
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